深い亀裂
一階では南くんが夕食の支度をする匂いがしていて、授くんが制服のまま、目を覚ましたらしい築くんと話していた。
いつになくふたりが真剣な表情だったから、どうしたの、と訊こうとしたら響くんに止められた。響くんを見上げると、「たぶん、ふたりの話だから」と言われた。俺は意味が分からなくて、眉を寄せたものの、うなずいておく。
すぐに授くんが俺と響くんに気づき、「ただいまっ」といつもの笑顔を見せた。「おかえり」と響くんと俺は応え、「いやー、今日は夕飯の取り分が減りますなあ」とか笑いながら、授くんはリビングを出ていってしまう。築くんはため息をついて考えこんでいて、何かあるのかな、と思ったけど、何となく訊けない雰囲気だった。
司くんも帰ってきて、今日は昔みたいに六人で夕飯を食べた。今夜の献立は、ほくほくのポテトグラタンとトマトの香りがするミネストローネ、かぼちゃとマヨネーズを和えたサラダだった。
「築、ちゃんとした料理は食べてる?」と夏にもしていた質問を南くんに投げかけられた築くんは、「雪の下手くそな料理なら、たまに食ってる」と意外な答えを返した。雪姉の料理。俺たちがどよめき、「雪ちゃんがお前に料理作ってくれてるのか」と司くんが確認すると、「司と南の介護食もあいつが作るから覚悟しろよな」と築くんは応じた。
介護食。司くんと南くんが顔を合わせる。「桃も作りますから!」と声を上げたあと、授くんは自分の台詞をかえりみて、「待った」と隣の築くんを見た。
「にいちゃん、俺と桃は結婚するんですよ」
「まあ、そうだろうな」
「介護食とはそういう意味なんですよ」
「分かってるよ」
「ということは──」
「うわっ、築、お前やっと雪ちゃんを射止めたのか!」
司くんが立ち上がりそうに声を出すと、「射止めたっつーか……」と築くんは何とも言えない顔をしたあと、「つきあってはいる」と肯定した。
俺たちは一斉にわっと声を出して、「そういうのはもっとちゃんと報告しろよ!」と司くんは言い、「雪ちゃんが築に振り向いてくれるなんて」と南くんは感動でわずかに泣いている。
「えーっ、築くん、何て言って告白したの?」
「絶っ対言わねえし」
「言わないことがあるということは、にいさんから告白したんだね」
「響、てめえ……」
「ま、雪ねえちゃんからっていうのはないよなー」
「俺から惚れたみたいに言うな」
「いや、築からでしょ?」
当然のような南くんの言葉に、築くんは言葉に詰まる。
「おい、築からだぜ」
続いて司くんがにやにやすると、築くんは舌打ちしてポテトグラタンを頬張った。「雪姉のこと好きになったから、たらしやめたんだねえ」と俺が言うと、「あー」とか「なるほどー」とかみんなも納得してくれて、ゆいいつ築くんが俺を睨んだ。
そのあとも築くんは揶揄われつづけ、「雪ちゃんに挨拶の電話しないと」と司くんと南くんが話しはじめると、「マジでやめろ」と耐えがたそうにしていた。「雪ねえちゃんと桃なら、桃のほうが料理はうまい気がする」と授くんはそこはこだわるようにつぶやき、「そういえば、雪さんの料理って食べたことないね」と響くんはミネストローネに口をつける。「雪姉も築くんのためなら料理するんだねー」と俺は笑い、「雪ちゃんも築に惚れてくれてるんだなあ」と司くんと南くんはしみじみうなずいた。
何だかんだ言いつつ、築くんは食事を中座せず、夕食のあとは、何やら司くんとまた真剣そうに話をしていた。授くんと格闘ゲームの対戦をしつつ、「まじめそうに話してるね」と俺が言うと、「にいちゃんなりに、けじめだろうからなあ」と授くんは意味深なことを言う。
「けじめ」と俺が首をかたむけると、「そりゃっ」と授くんはすかさず俺のキャラに技をかけて負かしてしまった。俺が声を上げて、「今のずるいーっ」と授くんを揺さぶると、授くんはからから笑って相手にしなかった。
築くんが帰省したのもあって、司くんにも南くんにも渚のことは言わず、次の日が来て、俺は学校に向かった。渚はたいてい俺より早く学校に来ているけれど、登校してきた生徒の邪魔になるのも何なので、昼休みに七組に行くことにした。
四時間目が終わるまで、そわそわしていた。「どうかしたのかよ」と友達にも訊かれてしまい、「うん、まあ」と笑ってごまかしておく。四時間目が終わり、昼食時間込みの昼休みが来ると、「すぐ戻ってくる」と友達に言って、弁当も置いたまま教室を出た。
渚はたぶん教室で友達と弁当食べてるよな、と廊下でにぎやかに笑う同級生を縫っていく。七組のドアの手前で立ち止まり、しばし躊躇う。そして、ほんとに見るだけ、とストーキングを自覚しているストーカーみたいなことを思い、そうっと七組の教室を覗いてみた。
考えれば、二月になったから席替えがあったのだ。とっさに渚の席が分からず、あれ、あれ、と焦って、目を凝らして教室を見渡してしまった。しかし、いくら眺めてみても、渚のすがたがない。急に心臓がざわめいてくる。
マジで渚、学校に来てない? いくら何でもそれはないと思っていたけれど、ぜんぜん渚のすがたが見つからない。嘘でしょ、とそのへんにいた七組の生徒に声をかけようとしたときだった。
「……何してるの、奏」
はっとして、振り返った。そこには、怪訝そうな表情を浮かべた制服すがたの渚が立っていた。「あっ」と俺は変な声を上げてしまい、よかった、と心底ほっとする。俺とこじれたから学校にも来ないとか、それはさすがに自意識過剰だった。
というか、それはよかったけど。俺、思いっきり渚に見つかってる。顔を合わせてる。やってしまった。何してんだと司くんと南くんがあきれるのが目に浮かぶ。
「え、っと……」と俺は具合悪く視線を下げたあと、上目で渚の表情を確認する。怒っている、というふうはないけれど、気まずい様子はある。
「久し、ぶり」
「………、うん」
「どっか行ってたの」
「トイレ、だけど」
「そ、そっか。いや、その……学校来てるかなあって心配で」
「……そう」
声はかなり硬い。これはダメだったやつ、と直感した。司くんと南くんの言う通り、渚を待つべきだった。
とはいえ、渚を待っていたら、この感じじゃ見捨てられてたかも。そう思うと、俺は慌てて顔を上げた。
「あの、俺と……話って、できる?」
渚は俺を見て、唇を噛んだあと目をそらし、「ごめん」というひと言で教室に入ろうとした。「渚」と俺は呼び止めてしまう。
「俺のことムカつくの分かるけど、」
「ムカつく……とか、そうじゃなくて、………」
「先輩のこと、ごめん。黙ってて、ほんとにごめん。俺が先輩に会ってたのは、渚との架け橋みたいになれるかなって」
「分かってるよ、そんなの」
「え」
「奏なら……そういうふうに、僕のこと考えて、してくれたんだって。それは分かってる」
渚は俺と目を合わせることはせず、自分を落ち着けるように息を吐く。
「ただ、僕が許せないのは、あの日先輩が泣いてたことで」
「……あ、」
「何で泣いてたのかよく分からない……というか、分かりたくないけど。でも、奏が泣かせた。泣いてた理由が、たとえ僕とは泣くほど話したくないとか、そういうのでも」
「それは絶対ない、」
「分かってるよっ。先輩は奏に振られたんだって分かってる!」
渚の鋭い口調に、ずきっと胸に氷の矢が深く刺さった。
痛い。冷たい。息が止まる。
渚はぽろぽろと瞳から雫をこぼし、それを悔しそうにぬぐう。
「そのことを、責めようとは思ってない」
「渚……」
「ただ、今は奏の顔を見れない。見たくない。つらい」
「……ごめ、ん」
「………、僕のために、振ったとか……奏がそんなことしないのも分かってる」
渚は涙をはらって鼻をすすり、震える声を深呼吸でなだめる。
「それでも、好きになるほど先輩は奏に何をされたんだろうとか考えると、気持ちがぐちゃぐちゃで。奏は何で先輩に近づいたのって、思っちゃうんだ。そういう自分も嫌だし。今、奏といると、自分がすごく見苦しくなる」
俺は顔をうつむけた。心臓に刺さったものから、どくどくと血があふれるのを感じた。その音が、この不安定な鼓動である気がした。
渚の言葉が痛い。でも、渚はそう言っていい。俺は? 俺が、せめて渚に伝えられるのは──
「今は、ごめん。また、そのうち連絡す──」
「渚」
「え」
「俺のこと……なんか、気にしなくていいよ。ただ、先輩に会いにいって」
「えっ……?」
「先輩のそばにいてあげて」
「………、奏」
「あと、その……いつかは、連絡してね。待ってるよ。俺は渚の親友だから」
──今すぐ、仲直りしたいけど。何かもう、土下座したいような気持ちだったけど。俺は精一杯そう言うと、渚の気持ちのために身を返した。
渚は俺を呼び止めなかった。当たり前だ。俺の顔を見るのはつらいと言った。渚にそこまで思わせてしまった。
『親友だから』? 違う。親友なのに。
渚は、子供の頃からずっとひとりで。つらい想いをしてきて。やっと俺に心を開いてくれたのに。そんな俺のことを、ゆがんで見てしまう今、どんなに苦しい想いだろう。
俺に心なんて開かなければよかった。そう思われたっておかしくない。俺は渚の味方でいなきゃいけなかったんだ。鮎見先輩の味方なんて、渚がすればいい。
築くんの言う通りだ。俺が許されなきゃいけないのは渚だ。先輩のことは、渚がなぐさめてくれる。だから、もういいんだ。俺がすべきなのは、渚のことをひたすらに信じて、「連絡」を待つことだ。
来るか、分からないけど。またそのうち、と言われたものの、俺を突き放したい一心で嘘をつかれたのだとしても仕方ない。教室まで歩きながら、ゆっくり歩調が落ちていって、泣きそうになって目をこすった。渚を失くしてしまったかもしれない。そんな不安がちらつき、いくら追いはらおうとしても視界が水でひずむ。
その日から、報告しなきゃいいだけなのだけど、司くんと南くんの助言を守らなかったのが申し訳なくて、ふたりの家に帰らなくなった。かあさんは帰ってこないけど、コンビニの弁当でも食べておけば、ひとりで生活はできる。水道ガス電気は通っている。必要なものも揃っている。お金がなくなれば、駅でおろせばいい。
ただ、猛烈に寂しい。しかし、今の俺はそれくらい罰として感じておかなければならない気がした。
たぶんケータイに何か来ていると思うけど、怖くてずっと電源を切っている。これじゃ渚から連絡来ても分かんないなあ、なんて思って、そんなものは来ないというどこかの冷え切った現実の声に、俺はケータイを床に投げてベッドに胎児みたいにうずくまった。
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