波の模様-11

ふたりの母親

 コンビニのあさりのスープパスタを食べたあと、一緒に買ってきた野菜ジュースを飲んで、残った容器をすすいでゴミ箱に突っこんだ。
 溜まってきたゴミを見下ろし、ゴミ出しいつだったかなあ、と思う。どっかに貼ってたかな、とゴミ回収日の週間カレンダーを探して、壁や冷蔵庫の扉を見た。さすがにゴミを片づけてくれていたのはかあさんだから、俺は回収日を忘れたというか知らない。いや、かあさんも回収日にわざわざ帰ってこれる保障もないし、あんまりゴミを出さないようにしていたっけ。
 この一週間くらいのコンビニ生活で、ゴミはたっぷり溜まってしまった。回収日じゃない日に家の前に出しても近所に文句言われるよなあ、と憂鬱になっていたときだった。
 ふと聞き憶えのある車のエンジンの音がして、俺ははっと顔を上げた。
 一瞬、司くんが車でやってきたのかと思った。そっちのほうが可能性としては高い。でも、違う。かあさんの車の音だ。
 かあさんが帰ってきた。積み重なったゴミに焦るより、やけにほっとしてしまった。ついで、かあさんに話を聞いてもらおうとすぐ思った。いろんな意味で、バカじゃないのと言われそうだけど。
 日に日に、向こうに帰るのが気まずくなっている。できれば、かあさんに切っかけを作ってほしい。そうとう甘ったれてるけど、俺は今、誰かに甘えたいのだと思う。大丈夫だよ、受け入れてもらえるよ、と諭されたい。
 エンジンの音が止まる。俺は玄関に向かい、明かりをつけた。足音が近づいてきて、俺は待つのが焦れったくてスニーカーを履いて、鍵もドアも開ける。
「あれっ。何だ、奏、起きてるんじゃない」
 そこにいたのは、やっぱりかあさんだった。俺のすがたに意外なくらい驚いている。「別に寝てるなんて言ってないよ」と俺が言うと、「ぜんぜん既読つかないじゃない」とかあさんは俺の額を小突く。指が冷たい。
「何日か前から、メッセしてるのに」
「あー、ケータイの電源何日も切ってる」
「何それ、失恋でもしたの?」
「………、恋ではない、けど」
 俺が言いよどんで視線を下げると、「あー……」とかあさんは思い出したように声をもらした。
「渚くんと、まだ喧嘩してるの?」
「……というか、けっこう、拒絶されたというか」
「はあ……だからって、こっちに家出するのは何でなの。南も司も心配してるよ?」
「家出って」
「似たようなもんでしょ。そんなことに、この家を使ってほしくない」
「うー……」
 わりと冷たい言葉に俺が思わずうめいて、ここしかないもん、と涙目になったときだった。「巴」と声がしたのでぎくっと身をすくめた。
 南くんか司くん──に、しては、女の人の声だった。かあさんは振り返り、「ごめんね、紫」と言ったあと俺に向き直る。
「とりあえず、今からあんたも向こうの家行くよ。荷物取ってきなさい」
「……誰か、一緒なの?」
 俺が首をかしげて訝しむと、「ああ、奏は初対面ね」とかあさんは身を引いて、背後にいた人を紹介するように明かりを当てた。
「この人は、築と授のおかあさん」
「はっ?」
 思わず引っくり返った声が出る。築くんと授くんのおかあさん? さらっとすごい人出てきた。「ついでに」とかあさんは言葉をつなぐ。
「あたしの親友ね。南と司に頼まれて、あたしがあの家に連れていくことになったの」
「頼まれたって、え、築くんと授くんに会うの?」
「聞いてないの? 築から紫に会いたいって言ったらしいけど」
「ぜんぜん知らないっ──……あ、何か、築くんが司くんとか授くんと真剣に話してるときはあったかも」
「たぶん、紫のことだね。ほら、あんたもまとめて連れてってあげるから。何にこだわってるか知らないけど、家にはさくっと帰りなさい」
「で、でも……俺、司くんと南くんと約束したの、破っちゃって」
「約束」
「……渚のこと、待ってあげたほうがいいよって言われてたんだ。渚の気持ちが落ち着くまで、俺からは会いにいかないほうがいいって。なのに、渚のクラス行っちゃって」
「案の定、仲直りできなかったと」
「うん……」
「そんなことで怒るふたりじゃないでしょ」
「分かってるよっ。だけど、言われてたのに。ちゃんと分かってもらってたのに、俺、それができなかったのが、申し訳ない……というか」
 かあさんは仕方なさそうに苦笑いすると、俺の頭に手を伸ばしてくしゃくしゃと撫でた。
「あんたにしてはいじらしいけど、それだけ渚くんのことがこたえてるんだね」
「渚に嫌われたかも」
「そんなことはない。渚くんにとって、奏の存在がどれだけ大きいと思ってるの」
「そんな……の、」
「大丈夫。渚くんからまた話しかけてくれるし、南も司も奏を何も責めたりしない。ね、何にも心配いらないじゃない」
「かあさん……」
「このままこっちに入り浸るほうが、南と司に心配されて、よっぽどあとで責められるよ? ふたりだけじゃなくて、響も授も、今は築だっている。奏が帰ってこないの、みんな心配してるよ」
「……俺のこと、バカだって言わないかな」
「言われるだろうけど、それは、ほんとにあんたがバカだから」
 かあさんは俺の頭をぽんとはたき、俺は思わず咲って小さくうなずくと、「ひとりは寂しい」と言った。かあさんは微笑み、「じゃあみんなのところに帰りなさい」と励ましてくれる。
 今度はきちんと大きくうなずいた俺は、「すぐ荷物まとめてくる」と身を返して二階に駆け上がった。部屋に入り、着替えや宿題をかばんにどんどん詰めこむ。ケータイも電源を入れてからポケットに入れて、電気と暖房を消すと部屋を出た。
 かあさんと女の人は、ドアを閉めた玄関で話をしていて、俺がばたばたと階段を降りていくと、ふたりはこちらを見た。明るいところに来た女の人──紫さん、は俺と目が合うと、軽くお辞儀をした。
 俺も慌ててぺこっとして、築くんと授くんのおかあさん、と反芻した。司くんと南くんが、どうやって知り合って、どうやって過ごして、どうやって現在に行き着いたか。その話を中学生になって聞いたとき、もちろん紫さんの話も出た。
 幼かった築くんが、とても慕っていたこと。初めは離婚を渋っていたこと。自分たちが結ばれて一番不幸にしてしまった人だと南くんは愁えて、築くんと授くんを生んでくれた人だと司くんも感謝の念だけは変わらなかった。
 かあさんは、俺に家の中のつけていた電気やらを消させると、「じゃあ行こう」と俺と紫さんをうながしながら玄関を開けた。
 外は一瞬で感覚が消えるほど冷えこんでいて、俺は身震いして車の後部座席に乗った。紫さんが助手席に乗る。車の中は暖房が名残っていて、エンジンがかかるのと共に温風がぶわっと出てきた。
 かあさんはケータイを少しいじって、「今から行くって伝えた」と俺と紫さんを心構えをさせるように見たあと、車を走らせはじめた。
 紫さんの横顔を盗み見た。築くんは司くんにそっくりだけど、瞳の大きさとか頬の線とか、紫さんには授くんの面影があった。ラベンダーのセーターと、紺の花柄のロングスカートを着ている。髪はけっこう長くて、背中でひとつの緩いみつあみにまとめられていた。俺の視線に気づいた紫さんがこちらを見て、俺はばつが悪く目を伏せる。
 紫さんは小さく咲うと、「私も巴に同じこと言われた」と言って、「えっ」と俺は顔を上げる。
「奏くん……だっけ、さっき言われてたこと。奏くんに何があったかは分からないけど、私も、築と授に嫌われてないかなってよく巴に訊いてたから」
「……たぶん、嫌ってはない、ですよ」
「うん。巴も、築と授にとって、母親の私がどれだけ大切かってよく言ってくれた。私が勇気出なくても、あのふたりから話しかけてくれるって。……だけど、そんなのありえないって思ってた」
 ささやくような紫さんに、「築から言い出したのは、びっくりだよね」とかあさんは咲う。
「あの子は素直にならない気がしてた。司が時機を見て、会うの勧めるとは思ってたけど」
「築には、つらい想いさせたね。授にも無理させてたと思う。私も、巴みたいに分かってあげられたらよかったけど」
「紫は悪くないんだから自分を責めなくていいよ。全面的に悪いのは司」
「……司に会うのも何年ぶりかな。こないだ電話だけしたけど、声が記憶の中とぜんぜん違って」
「声変わりした? とか言っとけばいいよ。確かに、声も顔つきも変わったし」
「南くんと、……幸せなのね」
「………、あのふたり、席外そうかとは言ってたんでしょ? 家に行って、同席させてよかったの?」
「私も、できればあのふたりを受け入れて納得したいから。それに、あのふたりがいないところで私に会っても、築と授が家に帰って気まずいかもしれない。それは、何だか可哀想な気がして」
「……そっか。相変わらず、気遣いがちゃんと母親だ」
 かあさんがにっこりすると、紫さんも微笑んで、「優しいおかあさんね」と俺を振り返った。俺ははたとして、「まあ、そうかも、です」とかぎこちなく返してしまう。「かもって何よ」とかあさんはバックミラーの中で俺を睨み、俺はそれに噴き出すと、「俺の家族はみんな優しいです」と紫さんを向いて言い直した。紫さんも優しく笑んでくれた。

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