雪解けのとき
ひと駅ぶん車を走らせて、司くんと南くんの家に到着した。かあさんは家の前に車を停め、「ここまで寄せておけば邪魔にならないでしょ」と道路の幅を見てうなずく。俺も紫さんも車を降りて、俺も一応不安だったけど、紫さんはもっと不安そうな色を見せていた。
息がうっすら白い中、かあさんはドアフォンを鳴らし、聞こえた声に「ふたりとも連れてきた」と答える。まもなく玄関先の明かりがつき、がちゃっとドアが開いた。
「奏」
南くんの声だ。「ほら、行きなさい」とかあさんの背中を押され、俺は門扉を開けると、小走りに庭を横切った。
同時に南くんが顔を出し、俺が一瞬言葉に迷ってから「ただいま」と言うと、南くんは安堵した表情で俺を軽く抱き寄せた。この家共通のシャンプーの匂いと、画材の匂いがした。
「ごめん」と俺が続けると南くんは首を横に振り、「僕たちが奏に何かしたなら、」と言い出したので、俺は急いでそれは否定する。
「違うんだ、ほんとに、俺が……ダメ、だったから」
「ダメって」
「南くんと司くんが言ってくれてたのに、渚のこと待たずに会っちゃったんだ」
「……渚くん、まだつらそうだった?」
「俺の顔、見れないって」
「そっか。……だけど、会いたくなるよね。奏は渚くんのこと大切に想ってるんだし」
「う、ん」
「僕たちが酷なこと言っちゃったね」
「それは、ないよ。ほんとのこと言ってくれてたって分かってる」
「ありがとう。奏がそんなふうに優しい子なのは、昔、ああいう家庭にいた渚くんが誰より知ってるよ。時間が経てば、大丈夫だからね」
俺は唇を噛んで、こくんとした。「奏」と中から声がして、南くんの肩越しにそちらを見ると響くんだった。南くんは俺の軆を放し、「響も心配してたよ」とそちらへと肩を押す。
俺は暖かい家の中に入り、玄関の段差もあって響くんを見上げて、「ただいま」と曖昧に咲った。響くんは「おかえり」と眼鏡越しに穏やかな微笑をくれた。
スニーカーを脱いでいると、リビングのドアのところに司くんが現れた。いつになく緊張した顔で、俺には「よう」とだけ言って、俺も「うん」とだけ答える。続いて「上がってください」と南くんの声がして、俺は玄関を振り返った。
かあさんに付き添われ、紫さんが恐縮した様子で玄関に入ってきた。紫さんはゆっくり顔を上げ、静かに司くんと目を合わせる。司くんは何とも言えない苦しそうな色を瞳に混ぜたけれど、「久しぶりだな」と落ち着いた声を発した。
「……そうね。久しぶり」
「もっと……その、痩せてるかと思った」
「今の生活でだいぶ良くなったわ」
「そうか。あのときは、……ほんとに悪かった」
「……あなたが今は幸せならいいわ」
「幸せ……だよ。それは、紫のおかげでもあるから」
紫さんはわずかに咲って、「名前を呼ばれるのはもっと久しぶりね」とつぶやいた。
「築と授に……ほんとに、会っていいのかしら」
「あいつらが決めたことだから、会ってやってほしい」
「……そう。じゃあ、お邪魔します」
止まっていた俺は、慌てて家に上がってしりぞき、紫さんは靴を脱いで家に上がった。かあさんは黙ってそのあとをついていき、すれちがいざま、こちらに笑みを作って響くんの頭には軽く手を置いた。南くんが玄関のドアを閉めて、寒風をさえぎって鍵をかける。
司くんは廊下のほうへ身を引き、「この中」とリビングをしめした。紫さんはすうっと深呼吸すると、心を決めた表情で、リビングに入っていった。
「──かあさん?」
授くんの声がして、俺の位置からは紫さんの背中だけが見えた。紫さんは、わななく声で授くんの名前を呼んだ。授くんは嬉しそうにもう一度「かあさん」と言うと、紫さんに駆け寄ってきて母親を抱きしめた。「授」と紫さんは早くも涙声で、「大きくなったね」と授くんを抱きしめ返す。
「あんなに、小さかったのに」
「へへ。ちゃんと筋トレとかやってるし」
「陸上で、頑張ってるのよね」
「知ってんの?」
「巴に聞いてるわ」
「そっか。うん、彼女と一緒に部活頑張ってんの」
「彼女も陸上してるの?」
「マネージャーだよ。ほぼ俺の専属になってるけど」
「そうなの。彼女なんて、おかあさんちょっと寂しいわ」
「すっげーいい子だから! 今度会ってよ。彼女もかあさんに会ってみたいって言ってたし」
「うん。……うん。彼女が会ってくれるなら、おかあさんも仲良くしたい」
そう言って紫さんが背伸びして授くんの頭を撫でていると、「かあさん」と築くんの声が重なった。紫さんはそちらを見て、「築」と一層声音を揺らした。
「久しぶり」
「久しぶり……っ。久しぶり、になって、ごめんね。ごめんね、築っ……」
「謝らなくていいよ。もう理解してるから」
「でも、……でも、最後になった日のことを今でも夢に見るの。そのたび、築にひどいことしたって──」
「ひどくなんかない。かあさんは悪くない。それだけは、あのときから分かってた」
かぶりを振って大きくしゃくりあげる紫さんに、築くんは聞いたことのない優しい声をかける。
「かあさんは、元気にやってた?」
「う、……うん。仕事もクビになるくらいダメだったときもあるけど、今の生活頑張ってる」
「じゃあ、今は仕事は?」
「……ごめんね、おかあさん、再婚したの」
「ほんとに?」
「うん。仕事がダメになったとき、心配してくれた同僚の人がいて、たくさん話も聞いてもらって。僕が支えるよって約束してくれたの。今日のことも相談して、会いたいなら会っておいでって言ってくれて」
「そっか。いい人だね」
「その人も再婚でね、小さな娘さんがいるの。その子も私に懐いてくれて、今は、私なりに幸せだから」
「幸せ? ほんと?」
「うん、もうおかあさんは大丈夫。築は大丈夫? 何かつらい想いしてない?」
「俺も──うん、ずっと好きだった人が彼女になって幸せだよ」
「やだ……もう。築にもそんな彼女がいるの。ふたりとも、そういう歳になったのね」
紫さんは泣きながら咲って、築くんのことも優しく抱きしめた。築くんも素直に紫さんを抱きしめる。
「ふたりのことがずっと心配だったわ」と言った紫さんに、「俺たちも、かあさんが幸せになったのを知れてよかった」と築くんは応えた。「俺もにいちゃんも、司と南に愛情いっぱいもらったから」と授くんが言って、「築も授もこんなに立派に育ってくれて、ほんとによかった」と紫さんは心からほっとした声で言った。
司くんはその様子をドアのところから見つめて、ふと泣きそうになったのか顔を伏せる。南くんが静かにそのかたわらに行って、何も言わずに司くんの手を取って握った。司くんは、南くんを見る。微笑んだ南くんの肩に額を当てて、司くんは少し泣いた。
かあさんは俺と響くんのところに下がってきて、「なかなか感動だね」と俺たちにささやいた。俺と響くんは咲って、「かあさんは再婚のこと知ってたの?」と俺が訊くと、「あたしはそりゃ知ってたよ」とかあさんは肩をすくめる。
「娘ちゃんにも会ったことあるし」
「その子って、俺たちの妹でいいのかなあ」
「まあ、いいんじゃない?」
「妹だって。どうしよう、かわいい」
俺が響くんに向かってほくそ笑んでしまうと、「うちは女の子いないもんね」と響くんも咲う。
「というか、築って本命の彼女でもできたの?」
「あ、うん。雪さんっていって、にいさんには幼なじみみたいな女の人」
「ふふっ、ずっと好きだった人って言ってたね。聞こえちゃった」
「何、あいつは本命が振り向かないから、女たらしてたの?」
「ど、どうなんだろう。もしかしてそうかも」
「雪姉はレベル高いからなー」
「ふうん。もう、みんな誰かと幸せになってくんだから。あ、少なくとも奏はまだまだだよね」
「まだ……まだ、だけどっ」
「響は? 響は彼女いないの?」
「えっ、いや、僕は……」
「でもー。でもー」と俺があおると、「奏っ」と響くんは決まりが悪そうに戒める。しかし、すでに興味津々のかあさんに、「……す、好きな人なら」と響くんは認めて、「おおっ」とかあさんは笑顔になる。
「響もついに春かあ」
「か、かあさんは? かあさんは彼氏とか作らないの?」
「彼氏なんて作る気もなくなったわ。仕事が楽しいし」
「でもさー、芸能人から口説かれたりしないの?」
「さらっと流すね」
「一応、口説かれるんだ」
「一応って何よ。まあ、いい人がいればねーとは思ってる」
「俺も、いい子がいればすぐつきあうもんねっ」
俺がそう言うと、かあさんはおかしそうに笑って「まあ頑張れ」と俺の頭をわしゃわしゃ撫でた。そうされて、いつのまにか不安なんて消えて、気持ちが晴れているのに気づく。
やっぱり、この家にいられると落ち着く。みんな優しい。俺のことを、いつだって受け入れてくれる。
渚も俺のこと、また受け入れてくれるかな。そんなことを思いながら、何となくポケットのケータイを見た。一週間の通知が溜まっているのか、ライトが点滅している。俺はそっとその場から洗面所のほうに出ていくと、ケータイの画面を起こして通知を確認した。
かあさんだけじゃなく、南くん、司くん、響くん──めずらしく築くんや授くん、もちろん学校の友達からの連絡もある。「うわー」と思わずつぶやいていたものの、その中で渚の名前にも通知マークがついているのに気づいて息を飲んだ。
慌ててトークルームを開くと、とっくの昔であるおとといにメッセが来ていて、俺が既読もつけないので不安になっているような言葉が最後にあった。
『奏は、僕のこと嫌いになっちゃったかな。』
そんなわけないっ、と思った俺は、メッセなんてまどろっこしくて通話をかけた。呼び出し音が続いた。その音が長引いて、出ないかなあ、と思ったときだ。
不意に呼び出し音が途切れる。俺は息を吸いこみ、思い切って渚の名前を呼んだ。
【第十三章へ】