波の模様-13

春が来るように

「いってきますっ」
 いつもより三十分早く、俺はそう言って南くんに見送られて家を出た。
 空気は朝の冷えこみだけど、空は晴れて綺麗に青く澄んでいる。切りつけるような風と早足にすれちがって、人も音も少ない住宅街を進んで駅に急ぐ。
 まもなく駅前に出ると、この時間でも人と車がざわめいていて、俺は定期ICを取り出して改札を抜けた。ホームには思ったよりたくさんの人が電車を待っていて、三十分も早く出たのに、と思いつつ列に並ぶ。
 すべりこんできた目的の電車もすでに満員で、乗客は駅員さんに必死に車内に押しこまれてかろうじてドアが閉まる。がたん、と電車が動き出すと、聞き慣れたアナウンスが流れた。
 昨日、俺はかあさんと紫さんと一緒に、久しぶりに家に向かった。築くんと授くんに十数年ぶりに再会した紫さんは、なかなか止まらない涙に困って、でもそんな母親を築くんも授くんも受け入れて、落ち着くまで見守っていた。
 ようやく落ち着いた紫さんは、リビングのドアのところにいた司くんと南くんにゆっくりと頭を下げ、「この子たちをこんなに育ててくれてありがとうございます」と改まって言った。司くんと南くんは目を交わし、「大事な息子たちだから」と司くんが穏やかに答えた。
「巴もありがとう」
 紫さんは、かあさんにも目を向けた。かあさんはにこっとして、「もうこれからは会ってあげられるよね」と瞳をやわらげる。紫さんはうなずき、「築と授がよかったら」と付け足すと、「いいに決まってんじゃん!」と授くんが声を張り上げる。
 その元気の良さに紫さんは咲って、「今度は、娘も連れてきてもいいかしら」と尋ねる。「今の旦那さんとの?」と築くんが確かめると、紫さんは幸せそうに微笑んだ。
「今日はおにいちゃんに会いに行ってくるねって言ったら、会いたいって聞かなくて。ひとりっこだから嬉しいみたい」
「そっか。その子が会いたいと思ってくれるなら」
「ひゃー、俺たちに妹ですって」
「弟だったらさすがにむさかったな」
「名前は何て言うの?」
りんちゃんよ」
「やばい、名前からしてかわいい。美少女に育つ」
「お前はどうせ、妹より彼女だろうが」
「桃は別格です。つか、桃の妹も俺の妹になるんだよなー。これを萌えと言うのか」
 築くんと授くんの調子も元通りになってきて、時間も遅くなってきた。紫さんは築くんと授くんと連絡先を交換して、司くんの連絡先は持っているのか、その次に「よかったら、南くんも」と南くんを見た。
「えっ」と南くんが明らかに動揺すると、「いいじゃない、紫に料理のアドバイスとかすれば」とかあさんが口を挟む。「い、いいんですか」と南くんはそれでも紫さんに恐縮して、紫さんはこくりとすると「何かあったとき、連絡先が分かってたら力になれるかもしれないから」と言う。南くんはうなずくと、リビングに入ってケータイを取りにいった。
 俺は響くんの隣でそれを眺めていて、「何か嬉しそうだね?」と響くんに首をかしげられた。俺は少し抜けたとき、渚と通話できたことを話して、明日、お互い早めに登校してゆっくり会うのを約束できたことも言った。「そっか」と響くんは物柔らかに笑んで、「落ち着いて話しておいで」と励ましてくれた。
 そのあと、紫さんのことはかあさんが車で送るということで、再会の時間は終わった。
 俺は思い出して、「向こうの家、ゴミ溜まってるから」とかあさんに伝えると、「はあー?」とかあさんは不機嫌な面持ちになったものの、「まあ、今日はあたし帰るから、片づけとく」と請け合ってくれた。
「奏くんと響くんも、よろしくね」と紫さんは俺と響くんにも挨拶をしてくれて、俺たちは揃って軽く頭を下げた。そして、かあさんと紫さんが去っていくと、いつもの六人が玄関に残って、誰からともなく息をついた。
「じゃあ──急いで、夕ごはん温めなおすね」とケータイを持つ南くんがまず言い出して、キッチンに向かった。「手伝うよ」と響くんがそれを追いかける。「かあさんが幸せになっててよかったな」と司くんが言うと、授くんは首肯して「しかし、かあさんやっぱ紫色の服着てたなー」と笑う。築くんは俺に目を向け、「で、何でお前は、一週間帰ってこなかったんだよ」と眉を寄せる。「俺にもいろいろありますー」と俺は生意気にそっぽをしておいて、このいつも通りの感じに、心の中で何だか咲ってしまう。
 昨夜は響くんとの部屋のふとんでぐっすり眠れて、普段より早い目覚めにはぼおっとしたけど、すぐ頭はしゃんとして、慌ただしく用意をして出発してきた。電車を一度乗り換え、学校の最寄り駅に到着すると、制服すがたにまみれながら電車を降りる。
 冬なのに暑苦しかった車内に、ふう、と息をついて、ホームを歩いて改札を出た。すると、「奏」と呼ばれたので俺ははっと足を止めて振り返る。
 制服すがたの学生ばかりが吐き出される改札の脇の壁に、渚が背中を当てていた。目が合うと、俺に向かって優しく微笑んでくれる。「渚」と俺は嬉しくなって破顔で駆け寄り、「待ってたの?」と首をかたむける。
「うん。たぶん、奏より僕のほうが早いかなって」
「これでも三十分早く家出たんだよ」
「ごめんね、朝話せるならとか言っちゃって」
「あ、いやっ。ぜんぜん。それは俺も嬉しいから。……その、」
 ごめん、ってもう一度言ったほうがいいのかな。蒸し返さないほうがいいのかな。俺が躊躇してしまうと、渚は足元のかばんを手に取って「歩きながら」とうながした。俺はこくんとして渚の隣に並ぶ。しばらく俺も渚も黙っていたものの、不意に渚の方が口火を切った。
「奏が、言ってたから」
 俺は渚の横顔を見る。
「先輩に会いにいってって」
「……あの日」
「うん。どうしようか迷ったけど、会いにいったよ」
「ほんと? どうだった?」
「久しぶりだね、とか普通に言われて──奏のことを訊いたら、自分のこと分かってもらえた気がして好きになったって」
「……何にも、分かってないのにね」
「そんなことないよ。先輩の心と軆のこと、初めて受け入れたのは奏だから」
「渚も、聞いたんだ」
「うん。やっぱり僕も、先輩の女の子らしさに惹かれたのかな」
「告白、とか」
「してない。……奏に勝てるわけないもん」
「そんなことないよっ。伝えたほうがいいよ」
「僕、奏にひどいこと言ったし。そういう奴だし」
「俺のほうが無神経だよ。渚はいい奴だよ」
 渚はやや口をつぐんだのち、「僕が嫉妬しただけ」とつぶやく。
「奏は僕のために先輩に働きかけてくれたのに、それに嫉妬って。バカだよね」
「いやっ、俺が渚に断るとか、一緒に連れてくとか、頭まわらなかったんだ。バカなのは俺だよ」
「………、奏は、先輩に会いにいかないの?」
「俺はもういいよ。渚が先輩に会いにいけたなら」
 渚はうつむいて考え、ゆっくりと言う。
「卒業まで、また会いにいってたら……少しは、先輩と仲良くなれるかな」
「なれるよっ。とりあえず、連絡先だけでも交換できたら、つながれるし」
「奏は、先輩の連絡先──」
「知らないよ。そこまで踏みこんでないし」
「そっか……」
「俺は、渚のこと応援してる。先輩に渚のこと知ってもらいたい。そしたら、俺のことなんかすぐバカバカしくなるよ。先輩のことよく見てたのは、渚のほうなんだから」
 渚は俺を向いた。「大丈夫っ」と俺がガッツポーズをしてみせると、渚は笑ってうなずき、「頑張ってみる」と言ってくれた。
 俺はぱっと笑顔になって、渚にそう言ってほしかったんだ、と思った。好きな人ができた。卒業してしまう。あきらめてほしくない。頑張って、捕まえてみせてほしい。そして、俺が一番にそれを祝福したい。
 いつのまにか、景色は学校に近づいていた。現在は二月のなかば、卒業式まで一ヵ月と少しだ。時間は限られていても、渚の恋が実るまではいかなくも、芽吹けばいい。
 俺は以前かあさんに聞いた性同一性障害に関する知識を渚に預け、「渚から教えてあげてほしい」と頼んだ。渚は承知して、「僕にできるだけ、先輩の味方になってみる」と約束した。
 やがて校門が見えてきて、俺たちはそれを一緒にくぐると、校舎に入っていった。

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