まだ秘密
冬休み明けの実力テストが終わって少し校内が落ち着いた頃、俺はクラスの友達と食べる弁当をかっこんで片づけ、「ちょっと用事あるんで」と席を立った。
「永田?」と訊かれて首を横に振り、「三年のとこ行ってくる」と弁当箱を包みに入れる。
「三年?」
「今、受験で雰囲気やばくね」
「あー。でも、行っときたいし」
「呼び出されたのか?」
「いや、卒業前に話したい人がいて」
「え、女の先輩?」
俺はかぶりを振りかけ、考えて、「……男?」と疑問形にしてしまった。「いやいや」と友達は笑う。
「俺らに訊くなよ」
「まあいいじゃんっ」
振り切るようにそう言って、俺は椅子をつくえにしまう。
「すぐ戻ってくるし。もし渚が来たら、委員とか言っといて」
「了解」
俺は軽く敬礼して弁当箱をかばんにしまうと、ひらひらと教室をあとにした。
三年って教室どこだろ、と思ったので、まず一階の職員室のそばの地図を見に行った。俺たち一年の教室は本館の三階だけど、三年の教室は奥の別館の三階に並んでいるみたいだ。三階に戻って渡り廊下渡ればいいんだな、と確認すると、俺はその通りの経路で別館三階に向かった。
そこには、リボンとネクタイの色が一年生の俺とは違う三年生がうろうろしていた。一年生は赤、三年生は青だ。ちなみに二年生は緑。
廊下は何事もなくざわめいているけれど、確かに一年の昼休みのなごやかさとは違ってどこかぴりぴりしている。
三組、三組、とプレートを見上げつつすれちがう先輩とぶつからないようにしていると、三年三組を見つけた。さいわいドアが開いていて、きょろっと教室を覗いてみる。
しかし、そういえば、俺は鮎見先輩の顔を知らない。ここに来てそれに気づいたけど、訊けばいいかと手近にいた女の先輩に、「鮎見先輩いますか?」とくるくるした目をぱっちりとさせて訊いてみた。
「鮎見くん?」とその先輩は教室を見渡し、「ああ、あそこで何かまだお弁当食べてるよ」と窓際の席でひとり弁当を食っている先輩をしめした。「俺、教室入っても大丈夫ですか」と続けざまに訊くと、「いいと思うけど……」とその先輩はやや臆しつつも答えて、「ども」と俺はひょいっと三年三組の教室に踏みこんだ。
何人か怪訝そうな先輩の視線が来たけど、構わずに鮎見先輩の正面まで行った。鮎見先輩はうつむきがちに弁当を食べていて、「こんにちは」と俺が言って、初めてはたと顔を上げた。
その顔面を見て、思わず面食らった。渚が言っていた通り、めちゃくちゃ綺麗な顔立ちをしていたからだ。俺とは違って地毛っぽい栗色の髪、長い睫毛、潤んだ黒い瞳、白い頬に整った鼻筋、柔らかそうな桃色の唇。
すごい美人じゃん、と思わずこれが男かと疑ってしまったものの、着ている制服は男子制服だ。青のネクタイも折り目正しい。
見知らぬ俺にまばたきをした鮎見先輩は、小さく首をかたむけて、「ええと……」と低いというより落ち着いた感じの声で言った。
「何、でしょうか」
「あっ」と俺は我に返り、鮎見先輩の怯えているような瞳に何とか気さくな笑みを映す。
「俺、一年の久賀奏っていうんですけど」
「久賀……くん」
「弁当食べ終わったら、少し、話させてもらっていいですか」
「えっ」
「いや、ぜんぜん、因縁つけたいとかじゃないですよっ? 鮎見先輩と話がしたいんです」
初対面の後輩の唐突な申し出に、先輩は明らかにとまどっていた。けれど、何だか単に断れないだけの様子で、しばし考えたのちにこくりとしてくれた。
「じゃあ廊下で待ってますねっ」と俺がにこっとして言うと、「あ、」と先輩は声をもらす。俺が身を返す前に足を止めると、先輩はそそくさと弁当を片づけて席を立った。
「え、食べなくても──」
「そんなに食欲なかったから」
「……そ、ですか。じゃあ、教室は出ましょうか」
「う、ん」
強引かなー、とは思ったものの、そうしておいてちょうどいいみたいだ。
さざめく廊下に出て、渡り廊下まで歩いた。さっき見た地図によると、一年の教室は本館、二、三年の教室は別館にまとまっていた。学年間での行き来なんてそんなにないので、来たときもそうだったけど、昼休みに渡り廊下を利用する人は少ない。だから、ここなら話しても大丈夫だろうと思ったのだ。
俺は鮎見先輩と向かい合って、改めて繊細な顔立ちを見上げる。軆つきもかなり華奢だけれど、身長は俺のほうが低い。
「え……と、話って」
鮎見先輩は、心当たりがないのか当惑を隠さない。まあそうだろうな、と俺は内心うなずいた。俺のことなんて、まったく知らなかっただろうし。
「先輩、前期の委員って美化委員でしたよね」
「えっ? あ、……うん」
「永田渚って憶えてます?」
「永田……くん? ああ、一年生の」
「憶えてるならよかった。俺、そいつの親友です」
「永田くんの……」
「渚にちょこっと先輩のこと聞いて、話してみたいなと思って」
先輩は、困ったようにぎこちなく咲う。なぜ又聞きした自分と話したくなるのか、分からないというふうだ。渚が惚れてるから、とは勝手に言わないほうがいいよな、と思案し、俺は先輩に神妙な顔を近づける。
「先輩のことで、ひとつ気になって」
「……はあ」
「先輩って、男ですか?」
「はっ?」
「いや、外見は男ですよね。ただ、何というか──中身も?」
先輩はぱちぱちとまばたきをした。露骨かなあ、と言ってしまったあとで臆すると、先輩は次第に頬を紅色に染める。
その熱は瞳をゆらゆら揺らして、「僕がオカマって言われてるから?」と先輩は泣きそうな目になる。「いや、」と俺は焦って言葉を継ぎ足した。
「そうじゃないなら、それでいいんですよっ。ただ、渚に聞く感じでは、優しいとことか女性的みたいだったから」
「永田くんも、僕がオカマって言ってるの?」
「言ってないですっ、それは絶対。ただ、その──男なのか女なのか分からないときがあるって言ってました」
「………、」
「オカマとか、そんなんじゃなくて。もし、心の性別が女の人なら、俺はそれを分かっていたいって思ったんです」
先輩は目を開いた。俺は自分の言葉が地雷を踏んでいないか心配になってきて、弱気な上目遣いになって先輩を見る。
すると、先輩はようやく綻ぶようにほのかに咲った。そして、「……偏見しないなら、それは嬉しい」と言って、俺は顔を上げて鮎見先輩を見直す。
「じゃあ──」
「そう、だね。ほんとは、『僕』じゃなくて『私』」
決まり悪そうに頬を染める鮎見先輩を見つめて、渚すごいな、と思った。男の外見に惑わされず、先輩の女の心を感じ取って惚れたということか。
そういうのもあるんだ、とぽかんとしていると、「久賀くんもそうなの?」と訊かれて、慌てて首を振る。
「俺は男で──好きになるのは女子だと思うんですけど」
「……そっか」
「先輩は、好きになるのは男?」
「うん。好きな人ができたとき、同性愛じゃないって感じたんだよね。女の子として愛されたいと思って……それで気づいた」
「好きな人いるんですか?」
「昔だよ。小学生のとき、近所だったおにいさんにね」
「そのおにいさんは今は──」
「彼女と同棲始めちゃって」
「そっ、か。じゃ、今は好きな人いない感じですか?」
「うん」
いないって。好きな人いないってよ、渚。チャンスだよ、と俺はついにやにやしてしまう。
「もしかして、永田くんもこのこと気づいてるの?」
「いや──どっちか分かんないとは思ってるみたいです」
「……そうなんだ。永田くんは、いい子だったな」
「渚はマジでいい奴ですよ。先輩と委員会のつながりがなくなって、寂しいって言ってました」
「そっか。いつでも遊びに来ていいのに」
先輩は柔らかく微笑んで、これは渚に脈あるんじゃない、なんてそわそわしてしまう。そのあとも俺が飄々と話していると、「普通に話してくれるんだね」と先輩はくすりとした。
「そうですか? んー、俺はぜんぜんOKだと思うんで」
「ありがとう。嬉しい」
「だって、先輩そのへんの女子より綺麗だし。女子に人気あるとは聞きましたけど、ぶっちゃけ男にも告られませんか」
「されたことはある……けど、男として愛されたいわけじゃないから」
「そっか。女の子として見てほしいですよね」
先輩はこくんとする。渚はたぶん女として見てるんだよな、と思うと、この場でお勧めしたくなるけれど、何とか俺が勝手に打ち明けてしまうのは我慢する。
渚の言っていた通り、鮎見先輩は優しくて穏やかだった。ひかえめなところがあるけれど、癇に障ってくるほど卑屈なわけでもない。話しているとあっという間で、予鈴が鳴ってしまった。
「あ、すみません。昼休みつぶしちゃった」
「ううん。教室にいても、つまらないから」
「話せてよかったです。それで、その──よかったら、なんですけど」
「うん」
「俺が伝えるのは無神経だし、先輩から、渚にほんとのこと話してあげてくれますか」
「永田くんに?」
「渚なら受け入れてくれます」
鮎見先輩は長い睫毛をしばたかせ、小さく咲うと「そうだね」とうなずいた。俺はぱっと笑顔になって、「じゃあ、ありがとうございましたっ」と手を振る。先輩も手を振ってくれた。
俺はきびすを返して本館に向かいながら、よしっ、と軽くガッツポーズする。渚、鮎見先輩は女の人だったよ。早くそれを伝えたくて、放課後が待ち遠しくなった。
とはいえ、五、六時間目の授業を受けているうちに、勝手に鮎見先輩に会いにいって話をしたのは、渚にしたら複雑かなあなんて気がしてきた。いくら渚のためにリサーチしにいったのだとしたって、鮎見先輩に秘密を吐かせてしまったのは事実だし、そんな厚かましいことまでしなくてよかったと思われるかもしれない。
鮎見先輩は俺に知られて気にしていたふうはなかったものの、渚に「気を遣ってくれたんだよ」と言われたら何とも言えない。しかし、鮎見先輩が男に惹かれるなら、渚にチャンスがあることは知ってほしい。渚とふたりで先輩に会いにいけばいいかな、と思いついて、そうしようと決めると、その日の放課後は渚に何も言わないようにしておいた。
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