波の模様-6

伝えるべきは

『かあさんに訊きたいことがあるから、頑張って時間作って、帰ってきてよ。』
 そんな俺のメッセに既読がついたのは、日づけも変わった零時過ぎだった。さっきゲームを切り上げて、響くんとの部屋に来た。ふとんを敷いて日向の匂いにもぐりこみ、ケータイを確認すると、充電につなげたときにはなかった既読の文字があった。俺はやや考え、普段はあんまり使わない既読スルー反対のスタンプだけ送っておいた。
 響くんも、俺が寝支度を始めたことで勉強を切り上げた。ベッドサイドに腰かけて、何やらケータイをいじっている。笑みを含んだ瞳はどこか優しくて、「誰?」と俺が首を捻じって訊いてみると、「高校の友達だよ」と響くんは俺を見て微笑んだ。
「響くん、高校楽しい?」
「え、まあ」
「そっか。友達とかもできてるなら、よかった」
 響くんは小さく咲って、「奏は、僕のこと一番心配してくれてたもんね」と言った。「俺だけじゃないよ」と俺は上体を起こす。
「みんな心配してたよ。司くんも南くんも、授くんだって。たぶん築くんも」
「ありがとう。僕は大丈夫だよ。奏も中学では何も言われてない?」
「うん。俺も大丈夫」
 響くんのケータイが着信音を鳴らして、画面を見た響くんはくすりと咲う。その穏やかな表情を見つめて、何となく訊いてみる。
「その友達って、男?」
「え、いや。女の子だよ」
「女の子なの!? あ、いつか家に来てた人?」
「ううん。志井さんは、本当に友達だから」
「………、“本当に”」
「あ、咲坂さん──っていうんだけど、彼女には僕は友達だから」
「それって──」
「僕は彼女のこと好きだと思ってる」
「響くん、好きな人できたのっ」
「ただの片想いだから、みんなにはまだ秘密だよ?」
「えー、司くんと南くん絶対喜ぶよお。言ってあげなよ」
「何か恥ずかしくて。授はすごいなあって思うよ。親に好きな人の話するのって、けっこう照れる」
「授くんは、そのへんにぶいだけだよ」
 響くんは苦笑して、「僕もそのうち話す」と言うと、返事を送信してケータイをまくらもとに置いた。
 響くんに好きな人かあ、と何だかしみじみしてしまうと、今度は俺のケータイが鳴った。ん、と手に取ってみて「お」と声がもれる。かあさんからのメッセだ。
『明日の夜、一時間くらい家に寄るよ。
 時間は分からないから、夕方くらいから待機してなさい。』
「やった」とつぶやくと、「何かあったの?」と響くんが尋ねてくる。俺はかあさんに会えることを話し、「伝言あったら伝えるよ」と訊く。響くんは首をかしげて考え、「かあさんにも、心配ないことは言っておいて」と言った。
「了解」と答えた俺は、かあさんにはOKのスタンプを送って、ふとんを軆にかける響くんに「寝よっか」と確かめた。響くんはうなずき、「おやすみ」と言って電気を落とす。俺は再びふとんにもぐると、ケータイはまくらもとに置いて目を閉じた。
 翌日、朝食のときに、夜はかあさんに会ってくるのを司くんと南くんに伝えた。「夕食も一緒?」と南くんに確認され、「会えるの一時間くらいって言ってたから、よく分かんない」と俺は答える。司くんと顔を合わせた南くんは、「じゃあ、念のためにふたりぶんのお弁当作るから、持っていって」と申し出てくれた。
「いいの?」と俺がまばたきをすると、「巴にもたまにはしっかり食べてほしいしね」と南くんは微笑む。「もし残っても、持って帰ってきたら授が食うだろ」と司くんがからから笑うと、「俺を残飯処理みたいに言うのやめて」と授くんはむうっとしてみせて、けれど「残っても捨てるなよ」と俺には釘を刺していた。
 宿題は昨日やってしまったし、昼過ぎまで授くんとゲームをしていた。南くんは相変わらず作業が大変そうで、司くんはそれを見守っている。響くんは午前中図書館に出かけて、午後はリビングで借りてきた本を読んでいた。
 十五時、お弁当を作りに降りてきた南くんが、おやつのマフィンを出して、俺は授くんと響くんとそれを食べる。そして、月曜日はかあさんとの家から登校するので、制服やら何やらをボストンバッグに詰めこんだ。十六時過ぎに、軽く荷物を提げて第二の我が家をあとにした俺は、第一の我が家に向かった。
 電車でひと駅移動して、静かな住宅街の中にある家まで歩く。最近ますますいそがしく、なかなか帰ってこれないかあさんは、ひとりで過ごすより司くんと南くんの家にいなさいと言う。
 俺も何日もひとりでいると寂しくなるので、気紛れにこちらに帰ってくるときもあるけど、たいていは素直に、ふたりの家で響くんたちと過ごしている。たぶん司くんと南くんの家がなかったら、かあさんの多忙っぷりは放任どころか放棄だから、俺はグレていたかもなあなんて思う。
 十七時前に家に到着すると、玄関でスニーカーを脱いで、「ただいまー」と空中に投げた。もちろん返事はない。
 俺はまっすぐ二階の自分の部屋に向かうと、どさっと荷物を下ろし、冷えた室内に暖房をつけた。カーテンが引かれたまま薄暗い室内に、ため息をついてベッドに転がりこみ、大の字で天井を見上げる。
 鮎見先輩に、もっと渚の話を振ったりしないとなあ、とぼんやり反省した。このままでは、俺が渚に対して気まずい。一応、かあさんに分かることは訊いてみるけれど、それ以降、いざいろんな行動に出るときに励ます役目は、俺じゃなくて渚であったほうがいい。もともと、先輩も渚に悪い印象はないようだった。
 俺すっげー邪魔者だよなあ、と寝返りを打ってまくらに突っ伏して、暖房の温風に冷えこんだ軆を溶かしていると、頭がうとうとしてきた。そのまま意識があるようなないような、半覚醒のまま取り留めのない夢を見ていると、不意にケータイの着信音が大きく聞こえてはっとした。
 ケータイどこだっけ、とまくらもとやらポケットを触る。もう一度着信が鳴って、通学のかばんからだったのでベッドをずるっと落ちて、かばんを覗いた。ライトがちかちか点滅するケータイを取り出して、画面を見る。
 かあさんのメッセが、ポップアップになっていた。目をこすってそれをタップして、トークルームを開く。
『あと三十分くらいで家に着くよ。』
『お弁当あっためておいて。』
 弁当のことは聞いているらしい。「はいはい」とひとりごちた俺は、南くんが持たせてくれた弁当が入った手提げを持ち上げ、ケータイはポケットに入れて、暖房はそのままにして部屋を出た。
 一階のキッチンにある電子レンジで弁当を温めて、電子ポットに電源を入れてお湯を沸かしたり、ダイニングのテーブルに箸やカップを用意したりしていると、外で車の音がした。
 帰ってきた、と玄関のほうへ首を捻じると、まもなく「ただいまーっ」と久々に聞くかあさんの声がする。「おかえりー」と俺が応えると、かあさんはリビングをまわってダイニングに顔を出した。
「奏。久しぶり」
 そう言ったかあさんは、長い髪を後ろでひとつにまとめ、黒のオーバーコートを羽織って、インディゴのレギンスを穿いていた。「久しぶりー」と俺はわざとじめついた声で言う。
「親子なのに久しぶりー」
「はい、ごめんなさい」
「だけですかー」
「お詫びは何かする」
「よっしゃ。新作のゲーム!」
「また? あんたも響みたいに本とか読まないの?」
「漫画は読むよ」
「はあ……そんなで学校の授業ついていけてるの」
「やばいと思ったら、響くんに補習してもらう」
「あの子にも何かしてあげなきゃいけないね。あ、お弁当だーっ。南、ほんと料理うまくなってくなあ」
「飲み物、何がいい? コーヒーとか紅茶なら作れるよ」
「コーヒーちょうだい」
「ん。ていうか、ほんとに一時間くらい?」
「うん。今、映画の撮影が毎日入っててね。なるべく早めに現場に戻らないと」
「何かごめん」
「いいよ、あたしもさすがに息抜きしたかった。もう食べていい?」
「俺も話しながらでいい?」
「話って書いてたね。何かあった?」
 言いながら、かあさんは箸でおかずやおにぎりを皿に取り分ける。俺は棚からコーヒーのインスタントドリップを取り出し、カップに乗せてゆっくりお湯をそそいでいく。ふわりと深い香りがただよう。
「かあさんってさ」
「うん」
「芸能人とかと、仕事してるわけじゃん」
「ん、まあね」
「その中で、何ていうのかな、ニューハーフのタレントとかいたりする?」
 ぱくっとおにぎりを頬張っていたかあさんは、キッチンでコーヒーを作る俺を見て、口の中のものを飲みこんだ。
「何で?」
「何で、と言われるとなー」
「あんた、女になりたいの?」
「何で俺。んー、まあ、知り合いがそうみたいだから」
「知り合い」
「男だけど、心は女っていうか」
「そうなんだ。へえ」
「ほんとに、知り合いのことだからね」
「別にあんたでもいいけどね」
「違うってば」
 かあさんは白身やエビのフライを皿に確保して、「そうだなあ」とつぶやく。
「ああいうおねえさん方は、自前も多いから、仕事させてもらうことは少ないんだけど。話す機会はあるよ」
「マジで。じゃあさ、手術って日本じゃやっぱ無理なの? 外国なの?」
「最近は、日本だけで全部手術できるみたいだよ。まあ、技術が発達してるのは海外らしいけど」
「そうなんだ。それ、違法とかでもないよね?」
「病院で診断がおりたらね。そうだね、ジェンダークリニックにまず相談したらいいんじゃない?」
「ジェンダークリニック」
「性同一性障害かどうか、カウンセリングとか受けるの。そこで認められたら、戸籍の性別も変えられるんじゃなかったかな」
「マジか。意外と、かあさんがちゃんと知っててビビった」
「あたしに話してくれたというより、収録で話してるのを聞いたことが何度かあるわ」
 かあさんはさくっとメンチカツをかじり、俺はコーヒーができあがった香ばしいカップをテーブルに持っていく。「ありがと」とかあさんはカップを受け取り、俺は今度は自分が飲むココアを作る。
 そうしながら、手続きには未成年はやはり親の許可がいることや、性転換しても普通の企業に勤める人もいることも聞いた。「ずいぶんその子のこと気にしてあげるねー」とにやにやされて「いや、その人は渚の好きな人だから」と思わず言ってしまった。
「渚くんの? 女の子ってこと、知ってるの?」
「あ、渚は何にも知らないんだよ。でも、先輩が女っぽいなあとは言ってて。男に惹かれたのか女に惹かれたのかよく分からないとか言ってるから、俺がお節介焼いちゃってんだよね」
「ふうん。お節介もほどほどにね? 話聞いてると、あんたと彼女がいい雰囲気に感じる」
「俺もそう思うから、すごく困ってる」
「あんたも彼女が好きなの?」
「俺はそういう気持ちない」
「じゃあ、あたしに聞いたことは、あくまで割り切った厚意で伝えなさいね」
「分かってるよ。だいたい、俺は渚のほうが大事だし」
「奏は渚くん大好きねー」
 くすくす咲って、かあさんはコーヒーをすすり、かあさんの正面の椅子に座った俺は、弁当箱からたまご焼きを取って「友達だからね」と言っておく。
 そう、俺は渚の親友で。渚が大切で。だから鮎見先輩に話しかけたのであって、本当なら先輩と親しくなるはずではなかった。先輩が心を開くのは、俺でなく渚であってほしい。
 早く軌道修正して、ふたりを近づけないと。俺はどうしたいって、その行方を見守りたいのだ。
 こじれてきているのは、何となく察している。でも、まださいわい渚は何も知らない。今のうちだ。あの笑顔を向ける相手が間違っていること──それを早く、鮎見先輩に伝えなきゃいけない。

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