つかめない消息
俺が物心つく前から、この家には雪理と雪瑠がいた。だからふたりがいるほうが自然ではあったが、水入らずと呼ぶなら、この状況になるのだろう。
かちゃかちゃと夕食のハンバーグを切り分け、フォークを口に運んで咀嚼する音が気まずい。俺は下を向いていて、親父はいらいらとフォークとナイフを動かし、お袋は冷笑に近い声をときおりもらしている。
雪瑠はいなくなった。雪理もいなくなった。でも、だったら親父は俺を愛するわけでもなく、むしろ憎々しく睨んでくる。たまにお袋は俺に猫撫で声で話しかけ、「やっと三人になれたわねえ」なんて言う。たいてい、真っ先に耐えられなくなるのは俺で、「ごちそうさま」とあまり食べずに立ち上がって、部屋からスマホや財布を取ってくると無言で家を出る。
十九時、十月に入った今はもう真っ暗で肌寒い。今年も残暑が長かったが、やっと長袖を着るようにもなった。しんとした住宅街を歩きながら、なのに雪理は半袖で震えているかもしれないと思って、これからぬくぬくと防寒できる自分が後ろめたくて仕方なくなった。
特急で地元を離れると、いつも通り未都さんの店に行く前に、駅前をきょろきょろとうろついていく。物陰、路地、隙間を何度も期待して覗きこむけど、あの痩せ細ったすがたは見つからない。
やっと抱きしめたあの日から、もうすぐ一ヶ月経つのに、雪理は行方不明のままだった。
「家に雪理の情報入りそうにないならさ、もう、帰るのやめちゃえば」
終電でせわしなく帰るのも億劫で、朝まで未都さんの店にいて始発で帰るのが増えていた。その日もいつのまにか飲むようになってきた軽めのカクテルでぼんやりとして、気づくと午前四時をまわっていた。財布を取り出して「金ないなあ」とかつぶやいていると、ふと後頭部を小突かれて振り返る。
親父に殴られたのは治って、それくらいなら受けられるようになった。背後にいた雪瑠はボックス席でホストをやっていたが、その客の友達同士の女の子は、未都さんに支払いをしている。俺が冴えない目をしていると、雪瑠は仕方なさそうに咲ってそう言った。
「帰らなくて、どこで寝るんだよ」
「僕とここに寝泊まりすればいいでしょ」
「雪瑠って、未都さんとは暮らしてないんだよな」
「未都さんの部屋にはおかあさんがいるからね」
「アル中の寝たきりの」
「そう。それに、僕はあんまりよく思われてない。元ヒモだよ?」
「今は働いてるじゃん」
「彼女に雇ってもらってるって、けっこう情けないよ」
「そうか? 俺も仕事があればなあ」
「ここは定員だけどね。三人どころか、そもそもふたりいらないというか」
「ボーイを募集してる店くらい知ってるぞ」
女の子たちが店を出ていくと、客はいなくなって店内は静かになった。話が聞こえていたらしい未都さんに言われて、「ボーイってどんなことするんですか」と俺は一応訊いてみる。
「店の底辺だな」
「ホストはダメなの?」
雪瑠がそう言って俺の顔をじろじろとして、俺は首を振ってその視線をはらう。その様子を眺めた未都さんは、「颯乃は水をやる愛嬌がない」と切り捨てた。
「そうかなー。性格かわいいんだけどなあ、颯乃」
「ふたごに対してだけだろ」
「ふふ、それはそれで嬉しいかもしれない」
「……はあ。でも、家に帰るのはそろそろマジでしんどいな」
「未都さん、颯乃もここに寝泊まりしちゃダメかな」
「寝るだけなら勝手にしろ。飯は金ないと出さないぞ」
「じゃあほら、ごはんはしばらく僕がおごってあげるし。何か適当に働いてさ、家はもうやめとこう」
「何で今度は俺がヒモになってんだよ」
「颯乃はそれだけのことを、僕と雪理のためにやってくれてるんだからいいんだよ」
雪瑠は俺の頭をくしゃくしゃと撫でる。何だか泣きそうになってしまう。
そんなの、あの日、全部ふいにした。雪理がどこに行ったか分からなくなってしまうなんて。
凍えてないか? 空腹じゃないか? 眠れてるのか? 怖くないか?
何にも分からなくなってしまった。
それでも俺は、何だかんだで雪瑠の言葉に甘えて、あの家から遠ざかりはじめた。
未都さんの店のボックス席で、朝から昼は雪瑠ともたれあって眠った。食事は雪瑠がファミレスに連れていってくれる。服は家から最低限だけ持ってきて、コインシャワーやコインランドリーの世話になった。
通っていたときの電車に乗っていた時間は、雪理を探しに出かける時間に当てた。「変なのに絡まれないようにね」と雪瑠は俺の肩をとんとんとして、好きなように送り出してくれる。
雪瑠は俺が雪理を見失ったことを責めなかったけど、それはちょっとだけ、逆に出しゃばった自分を浮き彫りにして情けなくさせた。
「雪瑠。明日の夜は、颯乃と店出ててもいいぞ」
今日も何の収穫もなく五時過ぎに店に戻ると、客はもういなくなっていた。雪瑠はテーブルを拭いて、未都さんはカウンター内で洗い物をしている。「おかえり」と言った雪瑠は、未都さんに水を頼んでくれて、ミネラルウォーターをグラスにそそいだ未都さんは、それを渡しながら雪瑠にそう言った。
「え、明日金曜日だよ? 店は開けるよね?」
「うちの母親が来るぞ」
「えっ」
「金曜日と周年だから、さすがに来るつもりらしいな。めずらしく今日は起きて服選んでた」
「……え、と」
「無理すんな」
「う、ん。ごめんね」
「雪瑠もたまには片割れを探しにいきたいだろ」
雪瑠はグラスを受け取って、「そうさせてもらう」と言うとボックスのソファにいる俺の隣に腰を下ろした。「はい」とさしだされたグラスの冷たいミネラルウォーターを飲んで、俺はため息をつく。
「ごめんな」
「ん、何が」
「手掛かりもつかめなくて」
「………、どこに行っちゃったんだろうね」
「ひとりで遠いところに行っちまったのかな、とも考える」
「どうだろ。雪理が颯乃を置いていくのは考えられないな」
「そうかな。ぱーっと自由になりたかった、とか」
「ほんとにそう思う?」
「あんまり」
「雪理は、僕と家を出るのより、颯乃のそばで家にいるほうを選んだくらいなんだよ。おとなしく駅にいれば颯乃が来るのに、そんな無責任に消えるなんて」
俺は指にひんやりするグラスを握り、「親父よりは先に見つけないと」とつぶやいた。雪瑠もうなずく。
「あの駅に向かったことは知られてないでしょ」
「たぶん。けど、タクシー会社に問い合わせたりできるだろ。一応親だし」
「そうなのかな。でも、運転手さんはおとうさんの形相見てるし」
「そう、だけど」
「さすがに、駅の周辺にはいないのかなとは考える。そしたらどのへんに向かうか、明日見てまわろう。ネカフェとか漫喫とかいろいろあるんだし、今は」
「雪理、二万しか持ってないんだぜ。もう足りてないだろ」
「………、僕はね、正直、生きてるかなあって」
驚いて雪瑠を見る。
「それはっ──」
「僕は家を出て、ああ死んだほうが早いかなって何度も思ったよ。やっとおとうさんから逃げられたのに、されることは同じで、それで何とか食いつないで。未都さんが拾ってくれなかったら、いまだにそうだったら、僕は生きてない。雪理と颯乃も連れ出すなんて、そんな目標あっさり折れてたんじゃないかな。そんなに強く生きられないよ」
雪瑠の横顔を見つめて、だんだんに視線を落とす。
それだけは考えなかった。考えないようにしていた。雪理は逃げてしまったなんて。俺からも、雪瑠からも、生きることからも。でも、実際その可能性は日に日にふくらんでいるのだ。
雪瑠は息を吐き、うつむいて頬に落ちた髪をはらい、俺を向いた。
「颯乃、お腹空いてない?」
「ちょっと。でも水もらったし」
「水じゃ味気ないでしょ。ファミレス行こうよ。モーニングセットあるし」
「俺、もう十日くらい雪瑠の金で食ったりしてるけど」
「雪理を探してくれてるから、僕ができるお礼だよ。行こっ」
雪瑠は立ち上がって空になったグラスを未都さんに渡し、代わりに店の鍵を預かる。「かあさんよりは早く顔出すから」と未都さんは言って雪瑠はうなずく。
俺はゆっくり立ち上がると、未都さんには頭を下げて、雪瑠について店を出た。
朝陽がのぼりかけて、ネオンも落ちた景色は蒼くてほの暗かった。空気は冷めていて、夜の喧騒がやっと終わって静かだ。この街は昼の顔がなく、夜にしか息づかない。太陽が出ているあいだは、シャッターを下ろしている店やビルも多い。
それでも、繁華街に出ると二十四時間営業のコンビニやファミレスぐらい残っている。いつも一番初めに目につくファミレスに入って、しばらくはここで雪瑠に飯をおごってもらっている。
雪瑠も俺も、サラダとスープとトーストのセットを頼んだ。俺はコンソメスープ、雪瑠はコーンスープが来ると、それを飲みながらスマホのマップを覗いて今夜どのあたりを見てみるかを相談した。
俺はあんまり位置とかあまり気にせず探していたが、主に駅前から街に向かう道を走りまわっていた。確かいつか、雪理にこの街の名前ぐらい言ったことがあるからだ。「こっちの商店街の方角は?」と訊かれて、商店街の景色は見てないなと思い返して首を振ると、「この商店街の路地入ると、ネカフェあったりするから今夜そのあたり見ようか」と雪瑠はスマホを閉じた。
そのときサラダもやってきて、ドレッシングのかかった野菜をぱりぱり食べつつ、「そのあたりも詳しいのか?」と俺は訊く。「そのへんまで客取りに行ったりもしてたから」と雪瑠は淡々と答え、「ふうん」と突っ込まずにうなずいていると、「あれっ」という女の声がして俺たちは顔を上げた。
【第十一章へ】