ローズケージ-11

家族

ゆきちゃん、もう次の客?」
 俺はきょとんとしたが、近づいてきたコーラルピンクのニットワンピースを着た浅黒い肌の二十歳くらいの女に、雪瑠はぎくりとしたような顔になった。
「あー、えと、久しぶり」
「そう? 最近ちょくちょくすれちがうじゃん。話はできなかったけど」
「え? そ、かな。気づかなかった」
「失礼だなー。って、あれ、何か髪長くない?」
「ああ、今の仕事はこっちのが楽だから」
「今の仕事?」
 女はゴールドのラメの入ったまぶたを上下させ、俺を一瞥してから、首をかたむける。
「これから?」
「は?」
「このお客さん」
「客って」
「雪ちゃん、復帰したんでしょ。売り」
 雪瑠はぎょっと女を見直した。俺も俺で雪瑠を見た。「何言ってんの」と雪瑠はレタスを刺していたフォークを置く。
「してないよ。やるわけないでしょ」
「え、だって……」
「一応、未都さんの店でホストみたいなボーイみたいな仕事してるよ。彼女の店を手伝うって情けないけど」
「隠さなくていいよ。さっきも、彼とは違う男といたじゃん」
「何──もうやめてよ」
「いや、雪ちゃんのほうこそ、」
「あんな仕事、もうやるわけないだろっ。いい加減にしてよ、思い出させないで」
 女はさすがに不愉快そうな表情を浮かべ、「あたしはそんな仕事をまだやってるっつうの」と毒っぽく吐いて喫煙席のほうに行ってしまった。雪瑠はうつむいて少し震えていたが、俺は眉を寄せて女の言葉を反芻していた。
 すれちがう。髪が長い。復帰。まさか、と思い当たったとき、「ごめん」と雪瑠は滅入った声でつぶやいた。
「あの子、昔の仕事やってたときの仲間で……」
「雪理、じゃないよな」
「えっ」
「雪瑠がそんな仕事をもうやってねえのはよく知ってる。それでも、あの女が変な嘘ついてるのはなさそうだった」
「そう、だけど──」
 そこまで言って、雪瑠も気づいた顔になった。
「え、ゆ、雪理? あの子が見たの、雪理?」
「ありえないか?」
「そんな、雪理が売りなんて。僕よりそういう子じゃないのは、颯乃も知ってるでしょ」
「雪瑠、さっきも言ったじゃん。ネカフェとかのほうでも客取ってたって。駅前では取らなかったのか?」
「取ってた、というか、待ち合わせとかには行ってたけど」
「じゃあ、たとえば──その頃の客が、駅前にいた雪理を雪瑠と勘違いしたとか」
 雪瑠の呼吸が震えたとき、溶けたバターの匂いが立ちのぼる分厚いトーストがやってきた。でも雪瑠は吐きそうなみたいに口を抑え、どんどん蒼ざめていく。
「僕……が、あんな仕事をしてたせい?」
「そうじゃないけど、」
「そうだよっ。どうしよう、雪理があんな、……変な客とかいたんだよ。どうしよう」
「もう、客とは連絡つかないよな」
「強引に断ち切っちゃったから。そう、だね。納得してなくて未練ある人もいるかも」
「あの女、ちょくちょくすれちがってるとか言ってたよな。どのへんだったか、今ならまだ訊けるんじゃないか」
 雪瑠はうなずき、「謝って訊いてくる」と立ち上がってパーテーションの向こうの喫煙席に行ってしまった。俺はきつね色のトーストを見たけど、食欲が一気に失せてしまった。
 雪理が売りをやっている。雪瑠と思われて、たぶん、強引に。変な客もいたと雪瑠は言った。俺は目をつぶって、酸素が薄れたみたいに息が苦しくなった。
 俺のせいだ。全部俺のせいだ。何も考えていなかった。雪理ひとりでこちらに近づけたら危なかったのだ。地元の駅前なら安全だったかもしれないのに。いや、駅前にこだわらなくていい。俺にしか分からない場所に行ってもらっておけばよかった。そこで合流すればいいだけの話だった。
 あのとき親父が背後にいて、俺も焦っていた。なるべく遠くとか思ってしまった。
 俺の配慮が足りなかった。親父にひどいことをされてきて、きっともう、雪理は男にそんなふうにあつかわれたくなかったはずなのに。俺に抱きしめられて、二度と悪夢はないと安心したかっただろうに。俺が考えなしだったから──。
 視界が滲んで目をこすったとき、「颯乃」と雪瑠が駆け足と共に戻ってきた。雪瑠はすぐ伝票をつかみ、もちろん俺はまだ食べていないなんて言わずに会計についていく。店員に謝りながら金をはらった雪瑠は、俺とファミレスを出て早足で薄暗い通りを進む。
「あの女、どのへんで見たか教えてくれたか」
「うん。そんな本気では怒ってなかった。ちょうどホテルに入るところを見たらしいから、そこ行こう」
「まだいるかな」
「見たのさっきだったから、僕がもう颯乃といてびっくりしたらしいよ。可能性は高い」
「その入ったホテルは分かるのか」
「僕がよく客と行ってたホテル。ほとんどただの連れ込みだったけどね」
 まだすれちがう人は少しいるけど、道はチラシやゴミで雑然としている。そのちらほら見かける人に連れ合いが増えてくると、「絡まれないためにちょっと客のふりしてね」と雪瑠は俺と腕を組んだ。
 雪瑠の表情もかなり焦っていて、謝らなきゃ、と思うけどその隙すら与えない。とにかく、俺も信じて雪瑠の歩調に合わせた。
 周りはホテルばかりになって、宿泊とか休憩とかの文字が看板で出ている。雪瑠はふと通りから路地に曲がって、裏通りみたいな道に出た。
 太陽がさえぎられて暗い。明らかにアル中とかヤク中とか、そんな感じの人間が汚れた地面に寝転がっていて、ろれつのまわらない声をかけられたり、足をつかまれそうになったりするので、ビビってしまう。冷えた風には、ちょっと生ゴミみたいな臭いもしている。
 雪瑠は、ただのアパートにも見える建物のドアを開き、俺にぎゅっとしがみついた。
「雪瑠──」
「客のふりして」
「ど、どんな感じ」
「髪撫でたり軆触ったりしとけばいいから」
 そんなもんよく分からねえよと思ったけど、腕を組んでいるよりは雪瑠の肩を抱いた。入ってすぐ右に受付みたいなカウンターがあって、その中で遠慮なく女の喘ぎ声がするスマホを見ていた男が、雪瑠の顔を見て「え?」とまばたきをした。
「雪ちゃん?」
「はい」
「あれ、おかしいな。三十分くらい前に客と宿泊取ってなかった? あ、その客も混ぜて3P?」
「えーと、まあそうです。で、何号室だったか忘れちゃって」
「201だよ。コンドーム追加持ってく?」
「自分で持ってます。──じゃあ、」
 雪瑠は俺を見上げた。
「あの人待たせてるから、すぐ行きましょう」
「お、おう」
 無論演技だろう雪瑠は、慣れた足取りで一本通る廊下をまっすぐ歩く。左右のドアから露骨に嬌声がもれてくる。突き当たりに階段があって、それをのぼりはじめて受付の死角に入ると、「ありがと」と雪瑠は肩にまわる俺の腕を下ろさせた。
「雪理いるね」
「部屋って鍵ないのか」
「あるけど、外から叫べば中に聞こえる」
「雪理を呼べばいいのか」
「僕より颯乃が呼んだほうがいいかな。今度は彼氏のふりだね」
「彼氏」
「俺に黙ってほかの男と金で寝てるのか、とか何でもいいから言って」
「思いつかねえから、それそのまま言うぞ」
「どうぞ。雪理って名前は呼んでね」
「分かった」
「201だから、通りから見て一番手前だね」
 二階に着くと、また一本通っている廊下に出て、ちょうど受付があった上の部屋の前に行った。そのドアからは喘ぐ声はもれていない。
 雪瑠は俺を見上げた。俺はうなずき、肩を使って深呼吸してから、ドアを思いっきり蹴った。
「雪理!」
 中で何かの物音はした。
「俺だよ、分かるだろ! ……えと……」
「俺に黙って、ほかの男と金で寝てるのか」と雪瑠が抑えた声で助けてくれる。
「お、俺に黙って、ほかの男と金で寝てるのか!!」
 がたごとっ、といらだった音がして、足音が近づいてくる。ついでドアが開き、だが顔を出したのは雪理ではなかった。意外と若い男ではあって、その男を見た雪瑠は一瞬すくんだ顔になったけど、「お久しぶりです」と俺を下がらせて一歩出た。
 男は雪瑠の顔を見て、「は?」とわけが分からないと言った顔つきになる。
「雪? え、雪なのか」
「僕が雪です」
「え、今、中に」
「僕のふたごの兄だと思います」
「ふたご!? 何だよ、くそっ。道理で──」
 うんざりした息をつく男に、「兄は何も知らない素人なので、やめてあげてください」と雪瑠は男をじっと見つめる。男は俺を一瞥したものの、すぐ雪瑠に目を戻して、「代わってくれんのかよ」と鋭利な目つきになる。
 俺は雪瑠を見た。雪瑠は思いつめた顔をしたものの、ここは仕方ないと思ったのか、うなずきそうになった。だがその前に俺が「待ってください」と割って入る。
「雪……は、今は俺の店の商品なんで。先払いで十万もらいます」
「はあ!?」と男が声を上げ、もちろんはったりの俺はビビりそうになってもこらえる。雪瑠が俺を見上げたのが視界の端に映る。
「何言ってんだよ、俺はこいつをいつも五千円で、」
「昔の雪と今の雪が、同じに見えますか? 今はうちの店の売れっ子なんです」
 男は雪瑠をじろじろと見つめた。この男が買っていた昔の雪瑠なんて俺は知らない。でも、きっと今の未都さんに愛されながら自立を進む雪瑠とは違ったはずだ。雪瑠も俺のはったりを信じ、堂々としてみせてくれる。
「何だよっ」と男は気に食わない様子で壁を殴りつけたが、舌打ちして「とっととあの役立たず連れて消えろっ」と俺と雪瑠を睨みつけた。俺は雪瑠と一緒に室内に踏みこんだ。
 狭い一室に苦しげにベッドが置いてあり、その白いシーツの上に座りこんでいる人がいた。くたびれた服を脱がされて半裸にされ、震えていた。その人は俺を見て、それから雪瑠を見た。同時に雪瑠はベッドに乗って、その人をきつく抱きしめた。「雪瑠……?」とその人は壊れそうな声で言った。
 雪瑠は涙をあふれさせながら何度もうなずいた。
「ほんとに、雪瑠──」
「会いたかったっ……。会いたかったよ、雪理」
 雪瑠の止まらない涙が伝染するように、その腕の中の雪理が涙をこぼしはじめる。やつれた手が雪瑠の服をつかんで、「雪瑠」と何度もふたごの弟の名前を呼ぶ。雪瑠も何度も雪理の名前を呼んで、そのまま折ってしまいそうな勢いで、ふたごの兄を抱く。俺まで泣きそうになったが、厭わしそうな男の舌打ちが聞こえて、ふたりに駆け寄った。
「とりあえず店に行こう。ゆっくりできるから」
 雪瑠の腕の中から顔を上げて、雪理は俺を見た。そして、蒼白い手を伸ばしてくる。
「颯乃……、僕、」
 俺は泣きそうなのをごまかして咲って、抱きあうふたりの肩を抱いた。三人の中でひとり年下で一番チビだったはずの俺が、一番たくましくなっている。雪理の手をつかんで、「ごめん」とふたりにしか聞こえないようにささやく。ふたりとも首を横に振った。「颯乃のおかげだよ」と雪瑠は言った。「ありがとう」と雪理も言った。
 ばらばらに砕けていた俺たちが、ようやく巻き戻されて三人に戻っていく。
 この体温。この匂い。すれちがって、ずっと寂しかった。
 だけど、今度こそ離れない。離さない。俺たちは今、確かにまた三人一緒にいる。
 雪理。雪瑠。俺の大好きな、大切なふたり。そう、このふたりが俺のかけがえのない家族なのだ。

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