解き放たれて
時刻は午前九時をまわり、未都さんはもう店にいなかった。先に店に踏みこんだ雪瑠は、明かりをつけると照明も上げた。続く雪理は、すぐよろめくので俺が支えていた。
ボックス席に座らせると、雪理は俺を見上げる。「ごめんね」なんて雪理はさっきから謝ってばかりいて、俺は首を振って「俺のほうが」とその肩を抱いた。あのホテルのものなのか、安っぽい石鹸の匂いがして、いっそうその軆は折れそうになっている。
雪瑠はミネラルウォーターを用意すると、雪理の前に置いて、自分はテーブルを挟んで椅子に腰かけた。
「雪理、いろんな人と……させられた?」
雪瑠が気まずそうに訊くと、グラスに手を伸ばした雪理は首を横に振った。
「さっきの人が、しつこく追いかけてきて。違うって言ったけど、お腹空いて、ゆっくり眠れてなくて、……ついていくしかなくなって。した、けど。まだ、一週間くらい前」
「……そう」
俺は雪理を見て、「服は変わってるな」と首をかしげる。雪理はあの一室を出る前につかんできていたビニールぶくろを膝に乗せ、「お金はもらえたから、一枚着替えは買った」と中にあの日着ていた服があるのを見せてくれた。その服はずいぶんくたびれて薄汚れている。
「あの人が探しにくるから」と雪理は俺を見上げた。
「一度いたところにはいられなくて。颯乃がすごく探してるって分かってたけど、怖くて」
「いいよ。もう見つかったんだから。じゃあ、ほかの奴にはされてないのか?」
「うん。大丈夫だった」
「あの人はヤク中だったけど」と雪瑠は思い返しながらつぶやく。
「病気は持ってなかったかな。でも当時だよね。ゴムとかしてくれた?」
「僕が持ってるかもしれないって言われて、つけさせられた」
「そっか。軆に変な斑点とか出てない?」
「大丈夫」
「よかった。病気は隣り合わせだからね」
「雪瑠、ああいう仕事してたの?」
「家を出たばっかりの頃はね。十三歳だよ。ほかに仕事なんてなかった」
「そう」と雪理は雪瑠と同じ長い睫毛を伏せ、グラスのミネラルウォーターに口をつけた。「でも」と雪瑠は俺を見て、思い出した様子でくすくす笑った。
「先払い十万はすごかったなあ。高級店でも、そんなに取るか分からないよ」
「いや、相場を知らねえんだよ」
「でも雪瑠、すごく綺麗だからもらえそう」
「それくらい稼ぐ人も実際いるけどね。僕はそんなんじゃなかったよ」
そう言ってから雪瑠は雪理を見つめ、「あの海でも思ったけど」と痛々しく微笑んだ。
「痩せたね、だいぶん」
「家では、もらったらなるべく食べてたけど。そのぶん、吐くことも多かったから」
「そっか。ずっと──続いた?」
「うん」
「ごめん、僕だけ逃げちゃって」
「いいんだよ。行かないってごねたのは、僕だから」
「もっと、早く助けに行くつもりではあったんだ。颯乃がまだ中学生のときかな、一度あの町にも行ってる」
「そうなんだ」
「そのときに颯乃とは再会できたけど。雪理が監禁状態だって知って、すぐに行動できないと思って」
言いながら、言い訳に感じたのか雪瑠はうつむく。「雪瑠が僕を忘れてなかっただけで嬉しいよ」と雪理はグラスを置いて咲い、それでも雪瑠はちょっと哀しそうに咲い返す。
しばらく雪理と雪瑠はお互いのことを話していたけど、そのうち雪理がうつらうつらと目をこすりはじめた。ふたりの会話を見守っていた俺は、「眠いか?」と雪理を覗きこむ。雪理はこくんとして、軽く俺の肩にもたれた。「ちょっと雪理は休ませないか」と俺が言うと、「そうだね」と雪瑠は同意し、椅子を立って店の照明を絞ってからこちらに戻ってくる。
「颯乃のお願いでも叶えようか」
「え、何だよ」
「ほら、僕たち三人で眠るのは初めてでしょ。いつも僕たちはおとうさんが待ってる部屋に行っちゃって、眠った颯乃をひとりにしてた」
「あー、まあ。そうだったな」
「だから、とりあえず昔みたいに颯乃が真ん中ね」
「え、今日は雪理が──」
「ううん」と雪理が顔を上げて俺を腕をつかむ。
「僕もそうしたい。颯乃が眠ってもそばにいる」
「それで、ちゃんと颯乃が起きたときにもそばにいるよ」
俺がとまどっていると、雪理は俺の右腕にしがみつき、雪瑠は俺の左側に腰かけてもたれてきた。そして俺の膝の上で、雪理と雪瑠は手をつなぐ。ふたりの体温が肩からとくとくと流れこんでくる。どこか懐かしい匂いもして、つい泣きそうになってしまう。
だって、こんなのすごい贅沢だ。叶わないと思っていた。雪理と雪瑠はいつも一緒にいてくれたけど、夜だけは違った。俺が寝たら、部屋を出ていってしまう。目覚めるとすがたがない。いつもそうだった。俺はそれが寂しかった。今日は、雪理も雪瑠も俺のそばで眠ってくれるのだ。
「ありがとな」と照れながら小さく言うと、ふたりは守るように俺に寄り添いながら、首を横に振ってくれた。
一番先に眠ったのは、やはり雪理だった。寝息が聞こえてきて、「寝ちゃったね」と雪瑠は抑えた声で言う。俺はうなずき、「雪瑠も眠いだろ」と咲う。「うん」と雪瑠はうなずいたものの、「颯乃」と暗がりの中で顔を上げてくる。
「これが、最初で最後だね」
「ん、何が」
「三人で眠るの」
「え」
「颯乃は、雪理を連れてこの街を出てほしい」
俺は驚いて、雪瑠の目の光を見た。
「どうして」
「雪理には、僕と勘違いされる危険がある。でも、それをはねつける強さはない」
「そんなん、俺が守るよ」
「うん。守ってほしい。でも、それはわざわざこんな危険が多い街じゃなくてもいいでしょ」
「それは、そうかもしれなくても。雪瑠は、この街にいるんだろ?」
「未都さんといたいからね」
「じゃあ、俺と雪理もここにいたいに決まってるだろ。また三人で──」
「いつまでも三人ではいられないよ。でも、颯乃は雪理といてあげて」
「やっと会えたんじゃないか。雪瑠だって雪理といたいだろ」
「いたいけど」
「俺が働くよ。金は心配しなくていい。ほんとに、もうちゃんと働く」
「お金じゃないよ。僕に会いたくなったら、たまにこの店に来るのはいいと思う。でも、この街で暮らすって安易に決めるのはよくない。いつでも、あんなはったりで切り抜けられるわけじゃないんだ」
とっさに反論できず、俺は唇を噛む。
「颯乃と雪理には、穏やかに暮らしてほしい。特に雪理には、もうびくびくしながら生きてほしくないんだよ」
「この街じゃ、穏やかに暮らせない?」
「たぶんね」
膝の上のつながったふたつの手の透き通りそうな白さを見つめた。雪理は俺の肩ですやすやと眠っている。その寝息を感じ取り、初めてなのかな、とふと思った。
あの家で、ずっと親父にひどいことをされて。家を出たところでこの一ヶ月、安心して眠れずに。雪理は今、初めて穏やかに眠れているのかもしれない。
「僕と雪理は、ずっとあの家に閉じこめられてた」
雪瑠は、雪理の眠りを害さない低い声で言う。
「逃げたくても、捨てられた子供みたいに行くところもなかった」
「……ん」
「でも、もう僕には未都さんがいる。雪理には颯乃がついてる。颯乃が、雪理を連れていってくれる」
雪瑠の手が動いて、少し強く雪理の手を握ったのが分かった。俺は息を吐き、考えながら目を閉じた。
雪瑠の雪理と離れる決意が伝わってくる。俺はそれに逆らう意見を見つけられない。
「雪理と、雪瑠は」
「うん」
「檻の中にいる、って感じてた」
「檻?」
「そう。その檻は、棘がついた針金で固められてるんだ。その中で、ふたりとも綺麗な薔薇みたいなんだけど、棘で触れない。仲良くなりたい、近づきたい……助けなきゃって思っても、触ると棘が痛いから手出しできない。いや、できなかった」
ごそ、と雪瑠の身動きが聞こえた。
「颯乃は手を伸ばしてくれたよ。雪理を連れ出してくれた。ほんとに、ありがとう。颯乃がいてくれてよかった。檻の中にいる僕たちにとってもね、颯乃が支えだったんだ」
鼻の奥が痛み、視界が崩れそうに揺らめく。
「僕には未都さんがいる。大丈夫だよ。それは、分かってくれるでしょ?」
「うん」
「ふふ、やっぱり今夜は店にいて、おかあさんにしっかり挨拶してみようかな。しっかりした男だと思われないとね」
「雪瑠なら、認めてもらえると思う」
「そうかな。だといいな」
雪瑠はふうっと大きく息をついて、俺にもたれなおした。
「颯乃」
「ん」
「もう一回お願いする。雪理を連れて、逃げてくれる?」
「………、うん」
「ありがとう。やっと、僕も雪理も檻から出られた。もうつかまらないように、雪理を守ってあげてね」
俺は涙をこらえてこくんとした。雪瑠はにっこりして、俺の肩に沈むとまもなく眠ってしまった。
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