ローズケージ-13

逃避行

 俺はまだあがいて、どうにかこの街にいられる理由はないかと考えた。この街でやっていけないのか。雪理と雪瑠は一緒にいられないのか。だが、そんな詭弁は見つけられなかった。雪理の安全を最優先すべきで、だったらまずこの街は離れるのが一番だった。確かに俺では、この街で限度がある。
 そう、俺はやっと雪理をあの檻からちぎって摘み取れた。ならば俺は、この儚い薔薇を生かす場所へと連れていかなくてはならない。
 やがて意識がおぼろげになって、いつのまにか眠ってしまっていた。物音と話し声で意識が揺すぶられて、うめくと「颯乃」と呼ばれて目をこすって視界を開く。右腕をつかまれているからそちらを見ると、雪理が俺を見つめていた。
 俺は無意識に微笑んで、左手で雪理の髪を撫でた。いい匂いがしてさらさらになっている。「雪瑠が新しい服買ってくれたり、シャワーとか連れていってくれた」と雪理ははにかんで、「そっか」と俺は納得しつつ店内に目をやった。
 雪瑠はもちろん、未都さんもいる。客はまだいない。「おはよ」とカウンターの花瓶に花を挿していた雪瑠は微笑み、「十九時にはかあさん来るぞー」と未都さんが時計をしめす。時刻は十七時前だ。俺は雪理を見て、雪理は雪瑠にすでにだいたいを聞いたのかうなずいた。
「雪理は、いいのか?」
「うん。僕は昔から颯乃のそばにいたいんだ」
「そっか」
「迷惑?」
 俺は雪理を見つめた。そして、そっとその頬に触れると、その唇に優しく口づけた。驚いた軆を抱きしめて、「ほんとに、これで最後だから」とささやいた。
「最後、って」
「雪理を抱きしめるのは、もう俺だけだ。ほかの誰にも触らせない」
「……キスも?」
「うん」
「その先も?」
「はは、男とできるか分かんないけど。でも、雪理なら」
「ご、ごめん。僕、女の子じゃないのに──」
「別に女ともやったことないからいいよ。俺は雪理だけだ」
「颯乃……」
「うん」
「僕、雪瑠といつも一緒でよかったけどね。ひとつだけ、負けたくないことがあった」
「何?」
「颯乃の一番は、僕がよかった」
 俺は思わず噴き出して、丁寧に雪理の軆を抱くと、「雪理が一番だよ」とその頭を撫でた。雪理も俺にしがみついて、俺の名前を呼んだ。
「二番だな」と未都さんが笑って、「僕は未都さんの一番でしょ」と雪瑠はやり返す。
「よし、じゃあ雪理と颯乃には駆け落ちしてもらおうか」
「ん。世話になりっぱなしでごめん」
「いいよ、そんなの。あ、もし駆け落ち先からここになかなか来れなかったらさ、手紙ちょうだい」
「え、メッセは──あ、親名義だから止まるな。足になるし」
「うん。スマホはゴミ箱にね」
「分かった。手紙、この店に送ればいい? 住所は?」
「これに書いてるから失くすなよ」
 未都さんがカウンター越しに雪瑠に何か渡し、受け取った雪瑠が俺にそれを渡す。未都さんのこの店の名刺だった。俺はそれを財布にしまいながら、カウンターの中の未都さんに目をやる。
「未都さんも、ほんとありがとうございます」
「二十歳過ぎたら、客として遊びに来て飲みまくれ。それで許す」
「もう酒もらってましたけどね。来ます、ちゃんと」
「おう」
 俺はソファを立ち上がり、雪理も俺の手を握って立ち上がる。テーブルをよけて入口に向かい、ドアを開ける前に一度立ち止まって振り返る。
 すると、「雪理」と不意に雪瑠が駆け寄ってきて、片割れをぎゅっと抱きしめた。「雪瑠」と雪理もそんな片割れの名前を呼んで、抱きしめ返す。
「僕たちは、ふたごだから」
「……うん」
「離れても、きっとつながってるよね」
「うん」
「いつも、雪理を想ってるよ」
「僕も雪瑠を絶対忘れない」
「颯乃と幸せになって」
「雪瑠も、彼女さんと」
「雪理が大好きだからね」
「僕も雪瑠が大好きだよ」
 雪瑠は吐息をもらして軆を離し、雪理に微笑んだ。雪理も雪瑠を見つめて、愛情をこめて微笑んだ。そしてふたりは俺を見上げる。「俺も雪理と雪瑠が大好き」と俺は言った。
 ずっと昔にも、俺はふたりに似たことを言った。その記憶がよみがえって、三人でつい笑みが交ざった。そしてそれを合図に、次にいつ会うか分からなかったけれど、きっと会えると信じて、俺と雪理は雪瑠と別れた。
 ビルを出ると、オレンジが霞んで、夕暮れがほの暗くなりかけていた。ネオンもちらほら灯りかけている。ざわめく人通りも増えつつあって、俺と雪理はしっかり手をつないで歩いていく。風が冷たかったけど、指先が絡まっているからよかった。
「そういや逃げる金ないかも」と言うと、雪理がポケットから「雪瑠と彼女さんがくれた」と封筒を取り出した。それを覗きこむと、遠くに行けるだけの資金になる額があり、やや申し訳なくても、素直にありがたかった。
「職場は、住み込みとかを探さないとな」
「僕も頑張る」
「一緒に頑張ろ」
「うん」
「で──とりあえず、どこ行きたい?」
「ん、どこでも……」
 そこまで言いかけて雪理は首をかしげて、俺を見上げる。長い睫毛が名残るオレンジに透ける。
「人が、あんまりいないところ」
「人がいない」
「でもね、広いところ」
「んー、何となく、北のほう?」
「颯乃とね、ふたりきりになりたい」
 俺は雪理を見下ろし、少し困って咲う。
「さっきのキスは、何というか、約束だから。気にしなくても──」
「颯乃は僕のこと、嫌?」
「雪理が、男なんて嫌じゃないのか」
「男も女も嫌だよ」
「じゃあ、」
「颯乃だけがいいんだ。僕をあんな場所から助けてくれた。連れ出してくれた。だから、ずっとついていきたいんだ」
「ついてきて……くれる?」
「うん。僕は颯乃のそばにいる。それは一生変わらない」
 俺は立ち止まった。一緒に立ち止まった雪理を、人混みの中だけど抱きしめた。雪理も俺の背中に手をまわす。目を閉じると、喧騒の中でも、雪理の柔らかな息遣いが聴き取れた。
 これが恋なのだろうか。よく分からない。いつも雪理と雪瑠が好きだった。でも、雪瑠にこの感覚はない。雪理のことは、抱きしめるとこんなに胸がいっぱいになる。
 雪理を連れていこう。遠くに連れていこう。閉ざされていた檻の中に咲いていた美しい薔薇。檻には荊が絡みついて触れることもできなかった。でも、やっと手は届き、薔薇は俺の腕の中にいる。檻からも棘からも解放されて、俺の心に咲いている。
 俺がこの人を生かし、守り、幸せにする。閉ざされた悪夢からは揺り起こす。檻から解き放って、棘から摘み取って、綺麗に笑みを綻ばせる。
 この人と生きていくのだ。そうできることが、俺にもこの上なく幸せだ。
 大切な人の笑顔が隣で咲いている。それが毎日のものになる場所なら、雪理、俺はお前をどこにだって連れ去るよ。きっと一生。お前が願うまま、俺はお前にそばにいる。

 FIN

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