檻の中で
雪瑠はカウンターの中に入って、がたごとしたあと、俺にオレンジジュースを入れたグラスを渡してくれた。そういえば、緊張で喉が渇いていたので、素直にごくんと飲ませてもらう。
雪瑠はボックスの客と少し話してから、すぐに俺の隣に来てしなやかにスツールに腰かけた。
改めて顔を見合わせると、雪瑠はちょっと咲って、俺の頭をくしゃっと撫でる。
「雪理も連れてきたかったな」
「………、俺も、ずっと会ってないんだ」
「ぜんぜん?」
「うん。飯もトイレも部屋でやらされてるみたい。夜中に、風呂とかで部屋出るときもあるみたいだけど、とうさんが絶対ついてるし」
「そう」
「何か、俺も……もう雪理は一生そうなのかなとかあきらめてて。昔は『雪理』って呼んでみたり、ドアたたいたりしてたけど、そしたらとうさんがすげー怒る」
未都さんが「はい」と渡してきたグラスを受け取って、雪瑠はそれに口をつけてから、睫毛を伏せる。
「雪理は、閉じこめられてるだけだと思う?」
「違う、ような……気は、する」
「そうだね。昔と変わらないだろうね」
「昔」
「颯乃、ちっちゃいときに泣いたことあるよね。自分が寝たら、雪理と雪瑠はどこ行っちゃうのって。一緒にここで寝ようよって」
「泣いた……かは憶えてないけど、そう思ってたかな」
「部屋で、おとうさんが待ってたんだ。颯乃を寝かしつけたら、部屋に戻ってきなさいって言われてた」
「………、」
「何となく、分かるでしょ」
「……うん」
「子供の頃はよく分からなくて、ふたりとも素直にしてたけど。颯乃が小学校に上がったくらいかな、やっぱり、やだなあって僕も雪理も感じて。でも誰にも言えなかった。颯乃にも。つらいのに、いつも、『気持ちいい』って言わなきゃいけなかった」
俺は顔を伏せ、オレンジジュースを飲んだ。喉が渇いていたさっきより、酸っぱく感じた。
「雪理も逃げようって、一緒にこんな家は出ようって言ったんだ。でも、雪理は『颯乃も一緒じゃなきゃ嫌だ』って」
「俺……?」
「雪理は、あんまり表に出さなかったけど、颯乃をすごく大切に想ってたんだよ。僕が颯乃と仲良くすると、あとで雪理が妬きもちでふてくされたりしてたし」
「そう、なのか。知らなかった」
「颯乃の前だと照れて言わなかったからね。でも、僕は僕でおとうさんのことが気持ち悪くて、ちょっとノイローゼになってたし。何か、雪理とは喧嘩したみたいなまま家を出たんだ。『じゃあここにいればいい、僕はもう知らない』って」
雪瑠はため息をついて、からん、と氷が溶けたグラスの水面の中の自分を見つめる。
「雪理だけ残したら、どうなるかなんて……僕も分かってたはずなのに。あのときは逃げたくて必死で、雪理のことまで考えてあげられなかった。颯乃がいれば、それで雪理は平気なんだろうって自分に言い聞かせた」
「……俺がいなきゃよかったのかな」
「あ、いや、そうじゃないよ。ごめん、言い方が悪くて。雪理……きっと、僕のぶんまで、させられてるんだよね。学校も行ってないの?」
「ああ。ずっと不登校」
「おばさんは?」
「俺のことも、どうでもよくなってきたみたいな感じだな。家事はやってくれてるけど、それだけ」
「そう」
俺たちは一緒にうなだれて、「暗ーい」と未都さんが首をすくめる。雪瑠は俺に首を捻じって、ゆっくり話を続ける。
「雪理と、どうにか接触するとか無理かな?」
俺も雪瑠を見て、とっくにあきらめていたその可能性を考える。もう考えることがなくなっていただけに、とっさにその隙を思いつけない。だけど、何とか口を開く。
「夜と休日は、無理だな。とうさんいるし」
「うん」
「平日の昼は、仕事でいないか。俺も学校サボったらいいのかな。でも、雪理、呼んでも返事しないんだ。一方的に話しかけて、聞いてくれるか保証もないし。連れ出すからとかドアに言ってて、かあさんに聞かれたら、それはとうさんにチクられるかもしれない」
「……そっか。ほんとは、颯乃も雪理も登校中か下校中にここに連れてきて、それで終わりにしたかったんだけど。やっぱり、そんな簡単にいかないよね」
「………、俺も、来ていいのか」
「当たり前だよ。颯乃も、あの家は好きじゃないでしょ」
「でも、雪理だけ置いてこっちに移るのは嫌だ。雪理が残ってるなら、俺もまだあの家にいる」
「いいの?」
「そっちのほうが当たり前だろっ。それに……一番つらいの、雪理なんだぜ」
「うん。じゃあ、颯乃はあの家にスパイとして残ってほしい」
「スパイ」
「雪理も絶対にあの家から連れ出す。そのために、颯乃はあの家にもぐりこんでおいて。隙があれば、すぐ雪理とここに来て」
「隙なんて、来るかな」
「分からない。何年もかかるかもしれない。でも、雪理を助けたい」
俺は雪瑠の横顔を見つめてから、「うん」とうなずいた。
雪理を助けたい。助ける。クソ親父の汚い手から守りたい。
雪理はひとりではないと思い出してほしい。ずっと昔から、雪瑠がいて、俺がいて、三人だったではないか。雪理だけひどい目に遭って泣いているなんて、俺も雪瑠も耐えられない。
その日、俺は雪瑠に例のでかい駅までは送ってもらって、スマホの連絡先も交換し、乗り換えをメッセしてもらって無事地元に戻った。最寄り駅には終電で到着して、帰宅したのは午前一時が近かった。
かあさんの靴はもちろん、とうさんの靴もある。雪理の靴は、いつしか消えてしまった。一階には、電気も物音も残っていなくても、もう勘で二階までの階段をのぼれる。
雪理が閉じこめられている、昔は雪理と雪瑠の寝室だった部屋のドアを見た。黒い胸騒ぎの中に生唾を飲みこんで、俺はそのドアに久しぶりに近づいた。板張りに額を当て、無性に泣きたくなった。
本当は、ずっと昔、この音を聞いたときから知っていた。雪瑠に聞かなくても知っていた。そんな自分が、知っていたのに雪理をあきらめた自分が、許せないと思った。
ぎし……ぎし……ぎし……
「……雪理」
中に聞こえないように押し殺し、俺は口の中でつぶやいた。
「助ける、から。また、三人でいられるから」
そう、絶対、この触れられない檻から雪理を連れ出してやる。柵にも錠にも有刺鉄線が絡みついて、その中で雪理は今、ひとりぼっちでぽつんと咲いている。雪瑠のようにきっと美しく成長して、棘の中で薔薇のようにこの中にいる。俺は絶対、雪理をこの部屋が刺々しくても摘み取ってやる。
雪理。俺のそばにいたいと思ってこの家に残ってしまったお前を、必ず俺が連れ去ってやる。だから、まだ、外界をあきらめて枯れたりはしないでくれ。
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