ローズケージ-5

自由へ

 背中でドアを閉めた途端、喉の奥がぎゅっと絞まって、涙が少しこぼれた。まだ雪理のために泣けたのかと自分で驚いた。
 足音がのぼってきて、あの部屋のドアへと入っていくのが聞こえて、胸苦しさに俺はベッドに倒れた。
 雪理。やっぱり、すごく綺麗に成長していた。でも、あまりに儚かった。思考回路も。心理状態も。心も軆も頭も。全部、親父に支配されている。それは事実のようだった。雪理が壊れてしまうのは、時間の問題に見えた。
 その前に雪理を救い出すのは可能なのだろうか。雪理がまた咲うなんてあるのだろうか。瞳はあんなに澱んでしまっていた。
 なあ、雪瑠。
 俺に雪理にできることが、本当にあるのかな──
「おとうさんは、僕たちにおかあさんを重ねてたから」
 次の日、俺は店に行って雪瑠に昨晩のことを話し、連れ出せなかったことを謝った。雪瑠は首を横に振ったものの、思いつめてこぶしを握り、小さなため息と一緒にそう言った。
「母親、死んでるんだよな」
「うん。僕たちを生んで、その日に亡くなったみたい」
「親父に聞いたのか」
「そう。中学に上がったときに全部聞かされた。僕たちのおかあさん、親にデリヘルで働かさせられてたんだって。そこでおとうさん、おかあさんのこと好きになって、借金してまで店からおかあさんを買い取って。その借金は、結局おばさんが返したみたいだけど」
「お袋が」
「家に取り立てが来ても、おとうさんはおかあさんを閉じこめたアパートに入り浸ってたから。対応は全部おばさんだったみたい。それで余計、おばさんは僕たちが嫌いだったんだと思うよ。おとうさんは、買い取ったおかあさんを自分以外の人とはほとんど接触しないようにしてたみたいで……何か、雪理にやってることと同じかな」
「………、それで、妊娠したのか」
「うん。だから、僕と雪理はきっとおかあさんに憎まれてたと思う。堕ろしたかったと思うよ、でもおとうさんがそれを許さなくて。だから、自分ごと死んじゃおうとしたんだ。突然車道に飛びこんで、車にはねられて。実際僕と雪理も危なかったんだけど、赤ん坊が無事生まれるほうが確率高かったらしくて、僕たちを優先させておかあさんは死んじゃった」
 雪瑠は一度睫毛を伏せて息をつき、俺に背中をさすられると、肩に寄りかかってくる。
「僕と雪理は、物心つく前からおとうさんにそういうことさせられてた。だから、何にも分かんなかった。おかあさんみたいに綺麗だ、おかあさんそっくりだって……何度も言われた。おとなしく、言う通りにして、『気持ちいい』って言わないとたたかれた」
 雪瑠は空中を眺めてから、軆を起こすと、長い指で俺の顎に触れた。一瞬痛みが走って、顔を顰める。
「これ、手当てしなくていい?」
「平気だよ。雪理も……殴られてんのかな。何か、もう嫌だって感じる気力もないように見えたよ。洗脳されてるみたいに見えた」
「……そう」
「俺に対しても怯えるんだ。もう心を開いてくれてないんだと思う。俺、声かけなくなってたしな。ちゃんと、親父に殴られても話しかけてればよかったのかもしれない」
「それでもなくなるよ、気力は。何だろう、僕もされてたから少し分かるけど。ほんとに、真っ暗になるんだ。怖くて、気持ち悪くて、恥ずかしくて、ぐちゃぐちゃになって感覚が狂ってくる」
「……うん」
「颯乃といるときだけは、僕たちがちゃんと咲えたのは確かだけどね。雪理も、颯乃を嫌いになってることはないと思う。『助けて』って心も開きたいんだよ、でも──もう、おとうさんが圧倒的になってるんじゃないかな」
 昨夜の暗闇に浮かんだ白い雪理を思い出した。は、や、の、と口は動いていた。すぐ親父が割りこんで、雪理は怯えて言う通りになってしまったけど、俺の名前を呼ぼうとしたのは、雪理の意志だった気がする。
 その日は開店前の夕方くらいに店をあとにして、十九時過ぎに帰宅した。
 ずいぶん風は蒸し暑くなって、まだ空はわずかに明るさを残していた。蝉もまだ鳴いている。
 夏休みって始まってんのかな、と思いながら家に入ると、お袋が作る夕食の匂いがした。親父の靴はない。
 腹減った気もする、とダイニングを覗くと、テーブルにお盆に乗せられた食事があった。かけられたラップが、湯気で白くなっている。
「おかえり」とお袋は俺に一瞥くれた。
「これ、雪理のだよな」
「用意しないと、あの人うるさいから」
「あいつが部屋に持ってくの?」
「そうよ」
「雪理って、ちゃんと食ってる?」
「お皿は空になって戻ってくるわ」
「……ふうん」
 俺は頬杖をついて、つながるリビングからの冷房で蒸された軆を冷ました。
 それ以上は特に会話もなく、お袋は俺の前に白身フライとか白飯とかサラダを並べた。俺はテーブルの中央の箸立てから自分の箸を選び、フライにはソースをかけて、さくさくとそれを食べた。食べ終わると、片づけもせずに「寝る」とだけ言って、俺は二階に上がった。
 そのまま部屋に行こうとしたけど、雪理の部屋の前に突っ立ってみた。そろそろ親父が帰ってくるだろうから、うかうかとこんなところにはいられないのだけど──一階のお袋に気づかれないよう、慎重にひかえめなノックをした。
 がた、と小さな音がして、起きているのは分かった。
「雪理」
 つぶやいて、少し待ったけど、返事はない。
「また、昨日みたいにここを出ることってあるのか?」
 何も返ってこない。
「何か……もし、そういうときがまたあってさ、逃げるチャンスにしたいなら、俺はいつでも手伝うから。俺、本気であきらめてねえから」
 沈黙しかない。何かうまく言えねえ、と俺は頭をかきむしった。
 雪瑠とまた会っていることを伝えたら、少しは雪理を動かせるだろうか。暗い階段をちらりとして、まだあいつは帰ってない、と雪瑠の名前を出そうとしたときだ。
 かたん、と中で物音がした。
「……雪理?」
 ちょっと身をこわばらせ、低い声で呼びかける。ドアノブが動いた。でももちろん開かない。こちらからの鍵も俺は持っていない。
 ぎっ、とかすかにドアがきしんで、中からドアに寄りかかったのが分かった。
「……ってるよ」
 目をみはる。かぼそくて、ろれつもまわっていなくて、聞き取りにくかったけど──
「がっこ……いってなくて、いらいら、してる」
「え……え?」
「おとうさん、……怒ってる、よ」
「あ、……ごめん。いや、あの──雪理」
「……ん」
「雪理だよな」
「うん」
 視覚が熱くなって肩が震えた。
 雪理。雪理だ。
 あんなに遠くなってしまった雪理が、今、ドア一枚だけのそばにいる。
「ゆきる……って」
「え」
「きのう、……ゆきるがまってるって」
「あ、ああ。俺、今、雪瑠に会ってるんだ」
「………」
「雪瑠も、雪理を心配してるよ」
「……おいていったのに」
「会いたくないか?」
「ゆきる……」
 がたっと音がして、雪理が床にくずおれたのが分かった。それから、抑えられたすすり泣きが聞こえてくる。
「ゆきる、……ゆきる」
「一応、元気だぞ。ちょっと離れたとこに住んで、まあ、落ち着いてる」
「ゆきる、……あいたい……」
「じゃあ俺、お前らが会えるように手伝うから」
「………」
「雪理はひとりじゃないから」
「……はやの」
「ん?」
「ごめん」
「え、何が」
「きのう……手、はなしたけど」
「あ、ああ」
「ほんとは、颯乃と、手をつなぎたい……」
 小さく嗚咽がもれてきて、俺はドア越しなのかもどかしくなって唇を噛む。
 俺も雪理の手を握りたい。振りはらわれないなら、いくらでも手ぐらいつないでいてやる。
「雪理。つらいかもしれないけど、なるべく親父の機嫌を取るんだ。それで、昨日みたいに家から出る機会を作ってくれ」
「……ん」
「そのとき、どうすればいいか考え──」
「夜……」
「ん?」
「夜、部屋は、でる」
「……親父とだろ?」
「ひとりのときも、ある」
「えっ、ほんとか」
「おとうさん、何もかたづけないまま、寝ちゃって……」
「じゃ、じゃあ、そのときは俺の部屋に来てくれ。俺の部屋、憶えてるよな?」
「ん……」
「一緒に、こんな家出ていこう。また三人でいられるから」
 鼻をすする声が聞こえ、「うん」と雪理は壊れそうな声で答えた。まだ話していたかったけど、さすがにそろそろ親父が帰ってくるだろう。「また声かけるから」と残して、俺はドアの前を離れて自分の部屋に入った。
 心臓が根深く脈打っているのに気づいた。雪理。ちゃんと話してくれた。やっと、ちゃんと話してくれた。呼んでも、ドアをたたいても、応えてくれなかったのに。
 昨日、雪瑠の名前を告げたのがやはり大きかったのだろうか。ふたごだもんな、と明かりもつけずにベッドにうつぶせになり、匂いがなじむタオルケットをつかむ。冷たいシーツに鼓動が伝わって耳に響く。
 自分の指先を月明かりで見つめて、確かによく雪理と手をつないだと思った。そして雪瑠は頭を撫でてくれた。
 戻れるのだろうか。また、あんなふうに三人で──いや、戻ってやる。
 雪理をこれ以上、捨て置く真似はできない。あんなクソ親父の好きにさせて、雪理を縛らせておくものか。俺は必ず、雪理をあの檻から自由にするんだ。

第六章へ

error: