手を伸ばせるなら
それ以来、毎日じゃないし、ほんの数分だけど、雪理とドア越しに話ができるようになった。
あの日はずいぶんろれつがまわっていなくて、それは長いこと人と話していないせいだと思ったが、「あの日は、薬が残ってた」と雪理は消え入りそうな声は変わらずに言った。「薬?」と俺が訝ると、「いろいろ飲まされるから、何の薬かもうよく分からない」と雪理はつぶやいた。
「睡眠薬でやっと寝てるし、泣いてばっかりだと安定剤飲まされるし、興奮剤でいくことしか考えられなくなるときもある」
俺は眉を顰め、あの親父マジでゲスだな、と思った。
「睡眠薬とかは、飲まないとつらいのか」
「飲まないと、一週間くらい寝れなかったりする。それに、薬がないと夢を見るから」
「夢」
「昔からのことをずっと、映画みたいに見るんだ。いつも」
「……そうか」
「初めはいいんだけど。雪瑠と颯乃がいるから」
今もいるよ、と言おうとしたけど、俺も雪瑠もまだ雪理に手が届いているとは言えない。言葉に迷っていると、「颯乃」と呼ばれて「ん?」と返す。
「もし、ここから出られたらね」
「おう」
「颯乃に……ぎゅってされたい」
「そんなん、いくらでもしてやるよ」
「ほんと?」
「うん。手もずっとつないでるから」
「………、早く、雪瑠にも会いたい」
「雪瑠もそう言ってるよ」
「早く……、こんなとこ、出ていきたい……」
俺はもたれかかっているドアを見た。雪理が泣いているのが分かった。でも俺はその頭を撫でられない。腕に受け止められないし、手も握ってやれない。
どうしても、この開かないドアが棘になって雪理に触れられない。
雪理の命が、心が、枯れ落ちないうちに摘んで生けないといけないのに。
「──雪理、心配だけど。ちょっとほっとした」
俺は相変わらず、未都さんの店で雪瑠にも会っている。開店前でテーブルを拭いたり灰皿を用意したりする雪瑠は、俺の話に手を止めて、そう微笑んだ。ちょっと痛みが混じった微笑ではあった。
「出ていきたいって、思えてるなら」
「ん、そうだな」
「そんな気力もないのかなって、感じたから」
「俺もそう感じたけど。やっぱ、雪瑠が待ってるっていうのが効いたみたいだから」
「そうなのかな」
「そうだろ。俺、雪理と雪瑠のそういうとこ好きだよ」
「そう言ってくれる颯乃も、きっと雪理には大きいよ。すぐにチャンスはないかもしれないけど、できれば話しかけてあげて」
「うん。もちろん」
カウンターの中でボトルを整理していた未都さんが、「親父が感づいてないといいけどなー」とつぶやく。カウンターのスツールにいる俺は、「それには気をつけてますよ」と言う。
「颯乃が気をつけてもさ、その子の表情がちょっと明るくなったとかで、そういう犯罪者は気づくからな」
「……マジっすか」
「行動は早いほうがいいとは思うな」
「一応、夜は家にいるようにしてますよ。いつ雪理が来てもいいように」
「けどさ、夜だと電車止まってんじゃん? どうやってここに来るんだよ」
「う……」
「未都さん、イジメないでよ。颯乃、遠慮せずにタクシーで来ていいよ。僕が出すから」
「かなりかかるんじゃねえの」
「お金がかかるからって、家のそばで時間をつぶす危険を冒すほうが僕は嫌だよ」
「何かごめん」と俺がうなだれると、「いいんだよ」と雪瑠は苦笑する。
「ほんとは、僕があの家に自分で近づかなきゃいけないのに。全部颯乃に任せてごめんね」
「それは構わないよ。つか、雪瑠は近づかなくていいから。雪瑠まで監禁されたら、最悪じゃん」
「今の雪瑠なら、親父を隙をついて殺しそうだけどな。首絞める力はあるだろ」
「……まあ、あるけど。力はあるけど、……怖くないかは分からないよ」
「いや、そんなんしなくていいし。未都さん、ほんとあの親父気違いなんで、かわいい彼氏を傷つけさせないでください」
「はいはい。まあ雪瑠、あたしはその親父が死ねばいいと思ってるだけだよ」
未都さんの言葉に雪瑠は咲って、「それは僕も思う」とシャンパングラスにお菓子を盛りつける。
死ねばいい。確かにそれが一番手っ取り早くはある。殺せるかなあ、とカウンターに頬杖をついて脚をぶらつかせる。あいつ俺には容赦なく反撃してくるよな、と思う。それで俺が死んだらデッドエンドだ。
早く行動したほうがいい。それは痛いほど分かっていても、やっぱりチャンスを待たないわけにもいかないのだ。
カレンダーは八月になっていた。日中は蝉が耳をかきむしり、アイスを食べながら眺めるテレビは、熱中症に注意するよう毎日呼びかける。太陽が青空から照りつけ、ぬるい風も重たく停滞して、軆には勝手に汗が滲む。
親父は仕事に行っていて、お袋も買い物に行った隙に、俺は二階に上がって雪理の部屋のドアをノックした。すると、いつもは音もなくドアの前に来るのが、めずらしく駆け寄ってくる足音がした。まあ、お袋もいないから危険はないけれど──
「颯乃」と声がして、その声がわりとはっきりとしていて、雪瑠の声にも近いことに驚く。
「どうしたんだよ。何かあった──」
「昨日、おとうさんに言われたんだ。お盆、仕事休みだから一緒にどこか行こうって」
「えっ、マジで」
「うん。二十歳にもなったから、外に出るようにして、家も出ていこうって。……それは、怖いけど。おとうさんにこの家から連れ出されたら、颯乃とも雪瑠ともまた離れる」
「そう、だよな。え、けっこうすぐに?」
「ちょっとずつとは言われた。こないだ颯乃に会っちゃったのが、やっぱりおとうさん許せないみたいで」
「あー……」と俺が失敗した声を出すと、「でも」と雪理は言葉を続ける。
「そのおかげでしばらく外出が続くかもしれないから」
「そうか。チャンスだよな。とりあえず盆? 来週の週末くらいか」
「うん。だから、その、よかったら」
「よくなくても何かやるよ。分かった、雪瑠と相談しておく。どこに行くかは決まってないんだな?」
「もしかしたら、おかあさんのお墓参りかも。連れていきたいって言ってた」
「墓参りか。場所って分かるか」
「雪瑠が知ってる。憶えてたらだけど。中学生になる前、ふたりで連れていかれた」
「そっか。分かった、とりあえず雪瑠といろいろ決めておく。じゃあ──雪理は、とにかく普通にしてろ」
「うん」という雪理の声に張りがあって、俺は思わず笑顔になってしまう。雪理もこのドアの向こうで、わずかでも笑みを浮かべているのだろうか。だったら、すごく嬉しい。
あの日、雪理はもう咲えなくなってしまったように見えた。
「颯乃」
「ん」
「雪瑠に、会えるかな?」
ちょっと不安が混じって震える声に、会えるよ、と即答しようとした。が、外出の一度目からかっさらうことにするか分からない。けれど──
「雪瑠も、雪理に会いたいと思うから。きっとそうできるように考えてくれるよ。俺も考えるし」
「そっか。颯乃には会える?」
「雪瑠よりは、俺が雪理を親父から引き離すと思う」
「じゃあ、」
「いや、場所によっては俺が出たら親父が警戒するかな」
「……そ、そうだよね。僕が、自分で逃げたほうがいい?」
「え、できるのか」
「自信は、ない。おとうさんが大きな声出したら、怖くて、言う通りになるし。でも、それしかないなら、頑張ることはする」
「じゃあ、その線も雪瑠と相談するよ。雪理が無理はしなくていいようにする」
少し、沈黙が流れた。
俺はドアを見つめ、小さく息をついてドアノブに触れた。何となく動かしてみたけど、やっぱり開かない。が、中から動かしたのか、かちゃ、とドアノブがおりるだけする。
「ほんとは」
少し落ち着いた声の雪理のつぶやきが聞こえた。
「ここを出ちゃいけない、って言われてきたから、怖い。誕生日も、数年ぶりに家を出してもらったのに、頭がぐるぐるしてて。やっと家だとか思っちゃってて。せっかく颯乃に会えたのに、早くこの部屋に閉じこもりたくて、落ち着きたくて、何も判断できなかった」
「雪理……」
「ほんとにおとうさんを逃げられるのか、何にも自信はないんだ。結局すぐつかまって、ここに戻ってくる気しかしない。いくら颯乃と雪瑠が頑張ってくれても、おとうさんに勝てるわけないとか思っちゃうんだ」
「………、うん」
「ごめんね」
「いや、そうなっちまうと思う。俺には、想像つかねえし。七年も閉じこめられるとか」
「七年だっけ」
「十三からだろ。こないだ二十歳で」
「……そっか。そうだね。もう、そんな計算も分からない」
雪理の声がいつものような陰りを帯びてきて、でも、無責任に明るく考えて元気を出せなんて言えない。けれど、その声に涙が滲んでくる前に俺は声をかける。
「それでも、本当にずっと、閉じこめられてるのは嫌だろ? 仮にここを出ても、変わらずに親父には縛られてるなんて嫌だろ?」
「う、ん」
「それでいいと思うのか?」
「思わない、よ。雪瑠に会いたい。颯乃にも会いたい」
「じゃあ、俺は雪理のその気持ちを助けられるように頑張る。こんなの、間違ってるんだ。おかしいんだ。だから、雪理はこの家を出ていって、捨てちまっていいんだ。俺と逃げていいんだ」
「颯乃と……」
「俺も雪理が出るときには、一緒にここを捨てる」
「いいの?」
「雪理と雪瑠と一緒にいたいんだ。親なんかどうでもいい。俺は雪理と雪瑠のほうが大事だ」
鼻をすするのが聞こえて、「うん」と答える声には嗚咽で揺れていた。でも、いつもの哀しい嗚咽ではないのは分かった。
雪理の頭を撫でたいと思った。もちろん、そんな手は伸ばせないけど、できるならこのドアを蹴破って雪理を受け止めたかった。
どうしようもないドア一枚があっても、「俺は雪理のそばにいるから」とだけ何とか言うと、雪理は何度も「うん」と震えた声でだけど応えてくれた。
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