焼けるような海
雪理がどう言ったのかまでは声が細くて聞こえなかったが、親父は渋っているように見えた。首を横に振って歩き出してしまい、引っ張られた雪理は足元をもつれさせる。
雪理は、親父にまだ訴えたい顔をしていたが、それが怖いらしくてどうやら声が出ていない。
やばい。ふたりが砂浜に出なかったら作戦も何も──
そのとき、雪理がめまいを覚えたようにがくんと膝を落とした。演技か本気か分からなかった。親父ははっと立ち止まって雪理を覗きこみ、ついできょろきょろしたので俺は慌てて隠れる。
「大丈夫ですか?」と知らない声がして、盗み見ると、供花を抱えた通りがかりの老夫婦が声をかけていた。
「ああ、こりゃいかん。顔真っ赤だよ」
「熱中症って奴かな? 冷たいものを摂ったほうがいいよ」
「海の家でかき氷出してるから、それでもあげなさい。三百円だから」
どこのじいさんとばあさんか知らないが、よし、と小さくガッツポーズをしてしまった。「分かりました」と親父は素直に老夫婦に礼を言って、どうやら演技ではなさそうにふらつく雪理を支えながら霊園を出ていく。
「この暑い中だものねえ」とか何とか言いながら、老夫婦は自分たちが参る墓へとゆっくり歩いていく。念のためそのふたりが通り過ぎてから、俺は雪理と親父を追った。
雪瑠のスマホを呼び出すと、すぐに応答が来た。
『颯乃。まだお墓?』
「今やっと出た。雪理が熱中症っぽい」
『え、走れるの?』
「分かんねえ。無理かもしれない」
『帰っちゃいそうとか?』
「いや、海の家で休んでくかも。ただ、今の雪理にぶつかっていったら、親父切れるぞ」
『マチくんにすぐ未都さんに言っといてもらう。じゃあ、雪理の回復を待ったほうがいい?』
「そうだな」と答えながら、俺は雪理と親父が海岸沿いの道に出たのを確認する。
「あ、この道なら、雪理たちたぶん海行く。今、堤防の階段探してるな」
『どの階段?』
「近いのはおでんの裏」
『了解。じゃあ、とりあえず僕たちは合流しよ』
「雪瑠、今どこ?」
『浮き輪貸し出し中のそば』
「分かった。すぐ行く」
俺はスマホをタップで切って、雪理たちがおでんの裏の階段をのぼっていくのを確認しておいた。それから堤防を見渡し、ドーナツ状のものが並んでいるところが見えたのでそちらに向かう。
途中、階段で堤防を越えておいて、俺は無事雪瑠と町田と合流できた。町田が未都さんに「いったんストップ」の連絡は入れてくれていた。俺が雪理たちがさいわいこちらに来ることになったのを伝えると、「そのおじいちゃんとおばあちゃんに感謝しないとね」と雪瑠もほっと息をついていた。
ついで、雪瑠のスマホが鳴って、「未都さんだ」と言いながら雪瑠は画面をスワイプして応答する。どうやら、未都さんが雪理と親父のすがたを確認したらしい。海の家で雪理はまず寝かされ、親父が付き添っているそうだ。
「そう、だね。──うん。確かにそうかもしれない」
雪瑠と未都さんは何やら短く電話で相談し、「よろしく」と雪瑠は言って電話を切った。そして俺と町田を見て、「少し計画変える」と言った。
「未都さんにおとうさんに接触してもらう」
「え、何で」
「熱中症で休んで、やっと回復して、次は海を散歩なんて、おとうさんはさせない気がする」
「あー」
「雪理も、やっぱりおとうさんに強く言えてなかったって、颯乃見たんでしょ」
「そうだな。すぐ車に行って帰りそうだ」
「だから、未都さんにおとうさん惹きつけてもらう。もしそれでおとうさんの目をそらすことができたら、雪理を連れ出す。それが無理だったら、今回はあきらめよう」
「あきらめるのかよ」
「未都さんの顔は見られるんだ。ただの逆ナンだったで終わらせておいたほうが、おとうさんも次の外出を警戒しない。僕とか颯乃がちらついて、探ってるのがばれるよりは」
「……うまくいくかな」
「分からなくなってきた。最悪の場合、雪理をすごくがっかりさせちゃうけど。それは、颯乃が家で話をしてあげて」
俺はさくさくという足音を見つめ、「分かった」とうなずいた。周りは楽しげに笑って波と戯れて、いろんな屋台からのおいしそうな匂いが海風に乗っている。
海の家付近で一度未都さんに再会した。「あたしも母親の客を、生き写しだから店につなぎとめられてるんだ」と未都さんは化粧を直し、一度雪瑠をぎゅっとして何かささやいてから、海の家に向かっていった。
それを見守った雪瑠は、不意に泣き出すような息を吐いて、しゃがみこんだ。
「雪瑠、」
「無理だ」
「えっ」
「きっと、今日は無理な気がする」
「いや、未都さん今行ったぞ」
「『一瞬だけだ』って言われた」
「一瞬って」
「おとうさんの気を惹けるのがだと思う。未都さんも分かってるんだ。子供に投影してまでひとりの女にすがりついてる男は、ほかの人間なんて見えなくなってること」
「じゃあ、」
「僕、ちょっとだけ、行く。未都さんが一瞬だけくれるから、雪理の目だけでも見たい」
「でも、もしかしたら親父が、」
「雪理に会いたい。顔だけでも見たい。絶対、僕のところに連れ去ってくるんだけど。今日は無理なんだ。次がいつかも分からない。でも、今そこに雪理がいるんだ。だったら僕は──」
町田が「行けばいいじゃん」と雪瑠の肩をたたいた。俺もそうすべきなのだろうけど、予想以上に、雪理を今日ここで連れ去れないことに愕然としてしまっていた。
雪理を助けられると思ったのに。あの閉塞した家から。あのベッドのきしみから。あの忌まわしい男から。
なのに、何もできずに雪理をまたあの檻に帰してしまうのか。忌まわしい有刺鉄線でがんじがらめの檻。そんなの──
「颯乃」
雪瑠を見た。俺はよほど泣きそうな顔をしていたのか、雪瑠は優しく頭を撫でてくれた。
「雪理のそばに離れないでいてあげてね」
「……ごめ、ん」
「どうして謝るの?」
「雪理を、助けたかった」
「助けられるよ」
「雪理はもう壊れそうなんだよ」
「うん」
「早くしないと……」
雪瑠は俺の頭をぽんぽんとして、「雪理は僕が助ける」と力強く言った。それから、身を返して俺と町田から離れていった。雪瑠のすがたが混雑に飲まれていきそうなのを、俺は何とか視野につなぎとめた。
未都さんは、確かに一瞬を雪瑠に与えたみたいだった。親父がおそらく目をそらしたそのとき、雪瑠は海の家の前に立っていて、中の誰かに向かって微笑んだ。その瞳に映っているのが誰なのかは明らかだった。
そしてすぐ小さく手を振った雪瑠は、一瞬で、こちらに駆け戻ってきた。はっとした俺は慌てて雪瑠の突進を受け止め、すると雪瑠はぎゅうっと俺にしがみつき、どくどくと涙をあふれさせはじめた。何度も「雪理」という片割れの名前と共に、苦しげな嗚咽をもらした。
俺も泣きそうだった。何で。何で。何で! ふたごなのに。こんなに大切な片割れだと想いあっているのに。
俺がそれを一番知っている。どうして、こんなに悲痛なふたりが数年ぶりに会えたと思ったら、ひとまばたきを重ねるぐらいしかできないのだ。
町田が「騒がれる前に」と俺たちをうながしてくれて、俺は雪瑠の肩を抱きながら、雪瑠は俺の肩に顔を伏せて、その海をあとにした。
まだまだ蝉が鳴いていて、青い空へとたゆまず波音が押し寄せていた。俺たちも熱中症になりそうに汗をかいていて、その匂いが潮に混ざっていた。抜ける風も、流れる涙も、ひどくからい味がした。
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