さいれんと・さいれん-12

雨の日々が始まる

 梅雨入りして、じとじとした霖雨が始まった。
 夢月に押し倒されたのはまだ先週だったけど、俺はその日、桃寧と買い物して花村家にお邪魔することにした。桃寧の夕食の誘いを断るのも悪かったし、いつか踏みこまなくては怖気づくばかりだ。「ただいま」と桃寧が家の中に声をかけると、「おかえりー」という声がリビングから返ってくる。
 夢月の声だ。その声を聞くと、今の空模様みたいに胸がざわついて不安になっても、何とか持ちこたえる。「上がって」と桃寧ににっこり言われ、「おう」と今日もエコバッグを提げる俺は彼女に続く。
 リビングにいた夢月は、今日は髪をポニーテールにして、床に座ってストレッチのような体操をしていた。俺のすがたに気づくと、ぱたぱたとまばたきをする。「よう」という挨拶しかできなかった俺に、「おにいちゃん、来てくれたんだっ」と夢月はぱあっと笑顔になった。
 ああ、もう。その笑顔はかわいいし、伸ばされた脚は白いし、汗ばんだうなじはエロいし、何なんだこいつは。
「夢月も水雫くんに会いたがってたんだよ」
 そんなことを言いながら、桃寧が俺を覗きこんでくる。俺は慌てて桃寧に視界を移し、「そ、そっか」とどもってしまう。
「おにいちゃん、先週は一回しか来てくれなくて寂しかったー。しかもあの日、ごはんの前に帰っちゃったし」
 夢月はぬけぬけとそんなことをほざく。全部お前の仕業だろうが、と俺は内心で突っこんでおいた。
「仕方ないでしょ、あの日は水雫くんのおとうさんが自転車とぶつかって怪我しちゃったんだから」
 ちなみにそういうことになっている。すまない、桃寧。
「ふうん……? おとうさんが怪我ねえ」
 何やらふくみのある口調で夢月は言ったけれど、「じゃあ、洗濯機かけたら夕ごはん作るね」と桃寧は引っかかった様子もなく俺の手にあるエコバックを取った。そしてそれをキッチンに置くと、家の中の洗濯物を集めにいってしまう。
 俺は夢月とリビングに取り残され、ため息をつくと平静を努めて夢月を見た。
「運動してんの?」
「ん。ストレッチは毎日やってるー」
「よく続くな」
「軆は柔らかいほうがいいでしょ? いろいろと」
 いろいろ。いろいろって何だろ、と俺は本気でにぶく思ったが、あんまり気にしないほうが良さそうなのでスルーした。
「俺の妹も家でよくやってる」
「ああ、杏梨ね」
「……やっぱ知ってたのかよ」
「こないだ、おにいちゃんのこと訊かれたから。それまでは、同じ名字だなあってくらいだったよ」
 それは──俺が何となく杏梨に夢月について尋ねたから、つながってしまったのか。墓穴じゃん、と情けなくなり、俺は夢月のかたわらにしゃがみこんでうなだれる。
「おにいちゃんと杏梨って、タイプ違うよねー」
「仲悪いしな」
「そうなんだ。僕はおねえちゃん好きだけどなあ」
「……好きなのか?」
「好きだよ」
 俺はストレッチを再開する夢月を眺める。じゃあ、どうして桃寧から彼氏を奪う? 何度も何度も、それを繰り返す? そう訊きたいけど、何となく声にならない。
「おにいちゃんも、おねえちゃんが好き?」
 ほとんど床についていた上体を起こし、夢月は俺をかえりみる。首筋が汗ばんでうっすら光っている。
「そうだな」
「僕のこと、やっぱり邪魔?」
「………、邪魔、という言い方はきつかったと思う」
 夢月は長い睫毛をしばたく。
「弟……ってか、妹? としてなら、お前のこと、ちゃんと受け入れなきゃいけないと思ってる」
「受け入れるって、僕の気持ちを?」
「何の気持ちだよ。お前、俺に気持ちなんかないだろ」
「あるよーっ。僕、おにいちゃんのこと好きだよ」
 そうしてまた、黒い瞳でひたと俺を見つめてくる。う、とすくみそうになりながらも、俺は冷静さにすがって言葉を続けた。
「俺のこと好きとかじゃなくて、桃寧から取りたいだけなんだろ」
「そんなことないよ。僕もおにいちゃんのこと好きになっちゃったもん」
「あのなあ……」
「おねえちゃんの彼氏って、いつもかっこいいから欲しくなっちゃうの。だから、好きですって言ったら、おねえちゃんの彼氏はいつも自分も好きになったって言ってくれる。取るっていうか、彼氏が僕を選んでくれるだけだよ」
「いや、でも……その、好きと伝える前に、いろいろやってんだろ」
 自分で無意識に「いろいろ」と吐いて、初めて夢月のストレッチが行為のとき柔軟に動くためではないかと気づき、何とも言えないめまいがした。
「まあ、それは駆け引きを有利にはしたいからね」
 俺は眉をひそめ、「それが俺の中でダメなんだよ」とつぶやく。
「俺、桃寧のためにこの家にはちゃんと遊びに来たいしさ。お前がそういうの仕掛けてくるのは、マジで困るんだ」
「じゃあ、えっちなことしなきゃ、逆に僕とつきあってくれるの?」
「お前とつきあうとかはない」
「だったら、僕はおにいちゃんを振り向かせるためにえっちなこと頑張るよ」
「頑張らなくていい。俺のことはあきらめろっつってんだ」
 俺の視線を受け止め、夢月は次第に駄々っ子のような面持ちになる。
「……やだよ。好きなんだもん」
 そう言った夢月の瞳がうるうると濡れてくる。俺はその瞳からうまく視線を引き剥がせなくなる。不意に夢月は俺の手をつかみ、「おにいちゃんが好き」と甘えた声を出した。
 おにいちゃん。その呼び方が急に背徳的に聞こえて、また心臓が暴れてくる。
「僕、おねえちゃんよりおにいちゃんを気持ち良くしてあげられるよ?」
「気持ちよく……とか、そんなん、」
「僕としちゃおう?」
「はっ? いや、」
「おにいちゃんを気持ち良くしてあげたい」
「待て、」
「えっちなことしたい」
「夢月」
「好きなんだもん。どうしたら僕のこと見てくれるの? ねえ、寂しいよ。おにいちゃんがおねえちゃんばっかり見てるの、寂しいんだ」
 ゆらり、と夢月の顔が近づいてきて、俺の息遣いが弱く震えた。だが、そのときまたあの回転する赤い光が頭でまたたいた。音のないサイレン。俺はそれではっとして、ぎりぎりで夢月を押し返した。夢月は意外とあっけなく向こう側に尻餅をつき、俺は大きく息を吐く。
「マジで……っ、こういうの、やめろ」
「おにいちゃん……」
「そうだよ、俺はお前の兄貴みたいなもんなんだ。だから、こういうのはダメだ」
「………」
「俺のことはあきらめろ。……まあ、本気で好かれてるとも思ってないけど」
「好きだよっ。おにいちゃんのこと、僕──」
「お前だったら、かっこいい彼氏でもかわいい彼女でも作れる。俺はそれなら応援してやるから」
 俺はそう言うと、深呼吸して、夢月の頭に手を置いてぽんぽんとしてやった。初めて、俺から夢月に触れた。夢月の顔色が、なぜか蒼ざめるほどに泣きそうになっていく。
「おにいちゃん……」
「ん?」
「……ど、して」
「え」
「何で、おにいちゃんは、おねえちゃんの彼氏……なの」
 俺は少し首をかしげ、夢月を見つめた。そんなこと、訊かなくても──そう言おうとしたが、その前に、夢月はぱっと頭の上の俺の手をはらった。
「……のとこ行ってくる」
「えっ?」
 俺の訊き返しに答えず、夢月は顔を伏せて立ち上がると、ポニーテールをひらりと揺らしてリビングを出ていった。
 何? どこに行ってくる? 聞き取れなかった。おねえちゃん、ではなかったと思うが──まもなく、玄関のドアが閉まる、ばたん、という音がした。
 俺がリビングでぽかんとしてしまっていると、階段を降りてくる足音が聞こえて、開けっ放しになっていたドアからパジャマっぽい服を抱えた桃寧が顔を出した。「あれ、夢月は?」と問われて、「よく分からん……」としか俺も言えなかった。
 本当によく分からなかった。いや、もしかしたら俺の拒絶が本物だと伝わったのか。それがショックで友達のところに行ったとか。友達。まさかここで杏梨じゃねえよな、と勘繰ってしまったが、かといってさすがに俺はそこには口出しできない。
「何か……出かけた、みたいだったけど」
「え、すぐ戻ってくるの?」
「ど、どうだろ。友達のとこ行ったのかも……」
「えー。今日はすき焼きだから、人数多いほうがいいのに」
 そんなことを言いながら、桃寧は洗濯物と共に引っこんでしまう。桃寧もちょっとのんきすぎるだろ、とちらりと思ってしまい、慌ててその毒めいた考えを打ち消した。しゃがんだままだった俺は、ソファに移動して桃寧の料理と夢月の帰宅を待つしかなかった。
 しかし、その日は結局、夢月は帰ってこなかった。俺は念願だった桃寧とふたりきりという状況なのに、なぜか落ち着かなくて楽しめなかった。
 夢月の絶望的と言ってもいいような顔が消えない。傷つけてしまった。それをひりひりと感じた。そうしたかったわけじゃない。ただ、俺は夢月とはつきあえない、好きなのは桃寧だと分かってほしかっただけなのに──あの愛らしい瞳を、外で強くなっている雨のように、暗く重く落ちこませてしまった。

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