さいれんと・さいれん-16

おにいちゃん

 リナちゃん。……え。えっ? 待て、こいつどっちだ? というか、マジで何者?
「モモはキスのとき、ああいう顔するんだなー」
 声は男だ、と思う。……たぶん。
「どうやって入ってきたの? 夢月が出たの?」
「いつもの合鍵で」
「それ、勝手に使うのやめてって言ってるじゃない」
「いいじゃん、別に。俺に隠すようなもの、この家にはないだろ」
 俺。俺って言った。男なのか?
「今の瞬間は、リナちゃんには見てほしくなかったよ」
 いや、男で「リナちゃん」ってないだろ。何なんだ。どうなってるんだ。俺が次第に混乱しはじめていると、「あ、」と桃寧は頬を染めたまま俺を向いた。
「ごめんね、水雫くん。リナちゃんってデリカシーなくて」
「り、りな……さん? えと……」
「あ、リナちゃんって呼んでるけど、正確には莉波りなみっていうの。男の人だよ」
「そう、だよな。ははは……」
「私と夢月の幼なじみで、近所に住んでるの。私たちのおにいさんみたいな感じかな」
「そ、そっか……そんな人いたんだ」
「リナちゃん、大学生になっていつもいそがしくて、昔みたいにここに遊びに来ないの。昔はよく三人で遊んでたんだよ」
「んー? モモが遊びに来てほしいなら、俺はいつでも邪魔しにくるよ」
 莉波さんはにこにこしてみせて、整ったルックスにどこかナンパな印象が加わる。
「邪魔はしなくていいよっ。せめて、何も見なかったふりで、通り過ぎるとかできないの?」
「いやー、あまりにもふたりがかわいらしくて」
「何言ってるの。──ごめんね、水雫くん。あんまり気にしないで」
「お、おう」
 ぎこちなくうなずき、莉波さんに視線を向けなおした。かちっと目が合って、俺が視線を狼狽させると、莉波さんは腕組みをして小さく失笑した。
 ……くそ、こいつ俺をバカにしてる感じだ。
「で、彼は? 俺にも紹介して」
「見たなら言わなくても分かるでしょ」
「モモの彼氏?」
「そう。立川水雫くんっていうの」
「立川くんね。よろしく」
「……よろしく、お願いします」
 目を細めて笑う莉波さんは、俺を眺めて「ユメが今度の彼氏は何か違うって言ってたけど」と桃寧に目線を戻す。
「確かに初めて見るタイプかも」
「リナちゃん、紹介しなくても、私に彼氏いるって知ってたんじゃない」
「紹介は紹介。で、彼にはまだ『あれ』は言われてないわけだ?」
「心配してもらわなくても、水雫くんは大丈夫! 私たち、春からつきあってるんだよ」
「ふうん……? そりゃめでたいね」
 莉波さんは再び俺に目を向けた。
「じゃあ、彼氏さん。兄貴分からも、モモのことよろしくって言っとくよ」
「はあ……。あ、いや、はい。どうも」
 口調がたどたどしい俺に莉波さんはまた笑い、「ユメの部屋に行ってる」とようやく身を引くと、ドアも閉めてしまった。俺も桃寧も思わず大息し、顔を合わせると困った笑みを交わした。
「ごめんね。リナちゃん、悪気はないんだと思うの」
「そ、だな。びっくりしたけど」
「私もびっくりした」
「ユメ、っていうのは夢月のこと?」
「そう。ムツキは夢に月って書くから」
「ああ……」
「リナちゃん、夢月とのほうが仲いいんだよね。たぶん、夢月も水雫くんに対する以上に、リナちゃんに懐いてるかも」
 そう、なのか。何だか勝手に夢月の頭の中は俺のことでいっぱいな気がしていたが、そうでもないらしい。安堵すべきことなのに、何だろう、どこかが喉の小骨みたいに引っかかる気がした。
 いつのまにか昼が近づいてきた。「お昼ごはん作らなきゃ」と桃寧は立ち上がり、「何作んの?」と俺は尋ねる。「お素麺だけじゃ味気ないから、天ぷらも軽く用意する感じ」と答えたあと、「何か食べたいのあった?」と桃寧は一応訊いてくれる。俺は首を横に振り、「それでいいよ」と微笑んだ。「じゃあ、テレビでも観ててね」と桃寧はキッチンに立ち、夢月もいないことだし、俺は素直にテレビをつけてあまり興味のないワイドショウを眺めた。
 そうして十二時半を過ぎた頃、素麺も湯がいて天ぷらも揚げた桃寧が、「もうすぐお昼できるから、夢月とリナちゃん呼んできてくれる?」と声をかけてきた。「夢月の部屋分かんないけど」とややとまどうと、「階段のぼってすぐ右の部屋だよ」とあっさり説明され、請け合わないわけにもいかなくなる。
 夢月と莉波さんがふたりでいるところに割りこむのは気が進まなかったが、仕方ない。昼飯に来いと伝えるだけだ。ちょっと覗いてその旨を伝えたら、すぐ引っこめばいい。ソファを立ち上がった俺は、ドアを隔てて、一瞬にしてクーラーの恩恵がなくなった廊下に出た。
 そういや二階上がるのって初めてじゃね、と気づきつつ、熱気がこもる階段をのぼっていく。俺は桃寧の部屋に入ったこともない。いや、それは俺こそ、桃寧を家に連れてきたことがないけども。うちは親いるからな、と内心ぼやき、二階にたどりついた。
 のぼってすぐの右、だったか。右を見ると確かにドアがあった。左手にも廊下に面したドアがふたつあり、どちらかが桃寧の部屋なのだろう。いつか入れてもらえるかな、と淡く期待したあと、俺は右のドアと向かい合って深呼吸した。ノックはするか、と手を持ち上げたところで、部屋の中から物音がしたので動きを止める。
「夢月?」
 思わず声をかけると、よく聞き取れない声がした。夢月はもう起きていて、莉波さんと話でもしているのだろうか。というか、呼んでしまったからノックはいいか。
「夢月、開けるぞ」
「やっ、だ、ダメ……っ」
「………、じゃあ開けないけど、」
「いいよー。ええと、名前何だったかな。彼氏くんだよね?」
 莉波さんの声だ。
「ダメ、だよっ……やめて、」
 夢月の口調がおかしい気がする。苦しそうというか、泣きそうというか──
 莉波さんのさっきの様子を思い返し、ちょっかいかけられてんのかな、と首を捻る。仕方ないなあ、と息をつくと、助けたほうがいいと思って、夢月の名前を呼びながらドアを開けた。
 そして、部屋の中を見て、俺はそのまま硬直してしまった。
「あっ……あ、いや、だめ……っあ、」
 ドア一枚がなくなって、その夢月を見て、さっきの声が俺への返事じゃなかったことが分かった。
 上半身は胸がはだけ、下半身は剥き出しにして、四つん這いになっている。おろしたセミロングの隙間で息切れながら、蕩けた瞳を彷徨わせ、切ないぐらいの甘い声で喘いで。そして、そんな夢月の動く腰をつかんで、リズミカルに突き上げているのは莉波さん──
 はい?
 いや、何。何だこれ。
 夢月……が、莉波さんに──
「んっ、あ、あ……だめ、おにい……ちゃん、」
 夢月の熱っぽい声の「おにいちゃん」にどきっとする。そんな俺に余裕でくすくす笑っているのは莉波さんで、「ほら、あの人に気持ちよくなってるところ見せてみろよ」と夢月の耳を咬みながら悪魔的なことを言う。
 夢月は身をよじって、俺に目を向けた。快感に潤んだ瞳や上気した頬はぞくっとしそうに色っぽくて、ほてった声を出す口元には涎がこぼれている。莉波さんは夢月に浅く抜き差ししたかと思うと、ぐっと深く貫き、そのたび夢月の軆がわなないて、シーツにぽたぽたと我慢できない透明な液がしたたる。
「んんっ……あ、ああっ、きもちい……よお」
「ちゃんと自分のしごけよ?」
「ダメ、それいっちゃう……から、」
「いってみせてやれよ。ほら、あんなにお前のことじっと見てるぞ」
 俺は石化して突っ立っていた。理解が追いつかない。何なんだ。何だよこれ。夢月が、莉波さんに、抱かれている……? 待て、こいつらは男同士だぞ──なのに、なのに、どうして俺は、その濃密な夢月の色香にあてられて勃起しかけている!?
 夢月は自分のものをつかんでこすりはじめて、いっそう喘ぎ声をしどけなくさせた。突かれながら、合わせてしごいて、腰を振って、俺のことはもう眼中にない。莉波さんに肌をさすられ、乳首を指先でいじられ、夢月のものが雄々しいぐらいに屹立しているのがちらちら見えた。
「彼氏くん」
 俺ははっとして、莉波さんを見た。莉波さんは意地の悪そうな笑みを浮かべると、夢月の髪を乱暴に引っ張って顔を上げさせた。堕ちるように恍惚している夢月の顔がさらされ、夢月はもう一度俺を見た。
「いや……おにいちゃ、……ないで。見ないで」
「夢……月、」
「おねが、い……僕、」
 夢月の頬にひと筋涙が伝った。俺は目を開き、莉波さんはさもおかしそうに噴き出した。
「お願いする相手、今は俺だよな?」
 そう言った莉波さんの腰の動きが速くなってくる。夢月はびくんと軆を引き攣らせ、もう正体もなく喘いで乱れはじめる。ふたりの結合を助けるローションの水音、腰と腰が破裂するようなぶつかる音、そしてふたりぶんの重みにベッドがきしむ音。夢月は意識も朦朧としているのか、快楽に溺れた表情で艶めかしく息を切らす。そんな夢月の腰を引き寄せ、莉波さんは夢月の奥まで探るように深く突いて──
 おにいちゃん、って。どっちだよ。莉波さんも兄貴みたいなもんなんだろ。「見ないで」なんて泣いても、今の夢月が、俺のことを考える余裕なんて──どう見ても、ない、よな。
「おにい、ちゃんっ……僕、違う……っから、おにいちゃんのこと──」
 もう何て言っているのかもよく聞き取れない。その生々しい声を聞きたくなかった。俺はばたんと強くドアを閉めた。
 夢月。……そう、だよな。そりゃ、あいつなら抱いてくれる男には困らないよな。俺はわざわざ悩まなくてよかったのだ。俺が断ったって、夢月を抱く男はいくらでもいる。
 何をうぬぼれていたのだろう。好きだと言われて信じてしまったのだろう。夢月にとって、俺なんか大して執着する相手ではないのだ。

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