さいれんと・さいれん-17

好きなんかじゃない

 俺はとぼとぼと一階に降りると、桃寧には「まだ夢月寝てて、莉波さんはそれにつきあうって」と嘘をついた。「やっぱりあの子は寝てるかあ」と桃寧は肩を竦め、「じゃあふたりで食べようか」と微笑んだ。乾燥した心に桃寧の笑顔は霧雨のように優しい。俺はこくんとして、すでに桃寧が昼食を用意したテーブルの席に着いた。桃寧は正面に座り、ふたりで喉越しが涼しい素麺とさくさくの天ぷらを食べた。
 ……ああ。また味が分からない。さっきの夢月の浮かされた表情が脳裏に焼きついて、股間がまだむずむずする。
 エロかった、と思った。野郎同士だったけど、初めてじかに見たセックスだから刺激的にエロかった。特に、夢月は中学生とは思えない艶だった。そういえば、夢月はどうやってあんなにうまいキスや手つきを覚えたのだろうと思っていたが、もしかして手ほどきしたのは莉波さんなのだろうか。そう思うとみぞおちがもやもやして、その黒さに軽い吐き気がした。
 莉波さんは十五時頃に何食わぬ顔で花村家をあとにして、それから夢月も降りてきた。どんな顔をすれば、と俺は狼狽えたものの、夢月はいつものように俺にべたべたと甘えてきた。俺はそれに流され、肩に頭をことんと乗せてきた夢月の髪を撫でたりしてしまった。フローラルの香りがふわりとただよう。
「おにいちゃん」と夢月は俺の腕に腕を絡めてしがみつく。俺は何も言わなかった。夢月も何も言わなかった。
 俺が好きって言ったのに、ほかの男に抱かれてたんだな。そんな言葉を投げたくなるのが自分でわけが分からなかった。まるで嫉妬ではないか。俺は夢月の長い睫毛やすらりとした脚を見て、俺のもんじゃないんだ、ということをひどく感じた。
 夕食も花村家で食べさせてもらい、俺は二十一時ごろに帰宅した。ベッドに横たわり、昼間の夢月の媚態を思い返した。すると性器がぴくんと反応したので、俺はパンツと下着に手をさしこんで自分でこすってみた。
 夢月の濡れた瞳。甘い喘ぎ声。熱っぽく赤い頬。華奢な腰つき。「おにいちゃん」と俺を呼んだときの涙。
 手の中で性器は太さを増して脈打ち、どんどん神経が集中してくる。俺はまくらに顔を伏せて唇を噛み、声を殺して右手を動かした。夢月、と何度も頭の中で呼んだ。押し倒してキスしてくるわ、寝こみのちんこをしゃぶるわ、事あるごとにべったり密着してくるわ──なのに、触れた唇の柔らかさ、口の中の熱さ、重なった素肌のなめらかさが勝って、俺はどんどん硬くなっていく。
 そして、ついに夢月の名前を口からもらしながら、べったりと射精してしまった。
 次第に頭の中が覚めて、冷静になってくる。いわゆる賢者タイム。俺は息をついて、俺は夢月をどう想ってるんだろう、と考えた。桃寧から心変わりなんてしたくない。桃寧のことが大好きな気持ちは変わっていない。なのに、俺は桃寧でなく夢月で抜いてしまった。俺は、夢月とセックスしたいのだろうか。
 莉波さんに翻弄され、卑猥に乱れていた夢月がよぎる。俺は莉波さんみたいなセックスはできないだろう。童貞だし。でも、あれより優しく抱くことはできる気がする。
 俺の彼女は桃寧だ。夢月とのセックスなんて夢想している場合ではない。桃寧とせめてキスは済まさないと。桃寧と進展したら、夢月に惑わされることだってなくなるはずだ。
 夏休み。塾とかいろいろいそがしいかもしれないが、なるべく桃寧と過ごそう。そして、できる限り彼女に近づいて触れてみる。夢月に揺らめいている場合ではない。
 どうせ夢月には莉波さんがいる。だから俺も、桃寧のことだけ考えていればいい。桃寧の身も心も手に入れて、俺は今度こそきちんと彼氏の座につくのだ。
 杏梨は夏休みも朝早くから部活に出ていってしまう。そして帰宅するのは夕方なのだから、ほんと元気だなと思う。
 俺はというと、桃寧と一緒に塾に通いはじめた。十三時から十八時まで、みっちり五時間だ。そのあとは、桃寧の料理を食べたり、そのまま帰宅したりもする。その日は家で夕食を取ることにして、十八時半くらいにマンションに着いた。
「ただいまー」とドアを開けると、ちょうどバスルームから出てきた杏梨と鉢合わせた。タオルで濡れた髪をわしゃわしゃ拭きながら、「おかえり」とそっけなく言ってくる。「おう」と俺が答えると杏梨はとっとと部屋に入ってしまおうとしたが、「あ、あのさっ」と俺は声をかけていた。杏梨は一応足を止めて、うざったそうな目を向けてくる。
「何だよ」
 俺はスニーカーを脱ぎ、「訊きたいことあんだけど」と家族共通のシャンプーの匂いがする杏梨に近づく。
「何」
「夢月、ってさ」
「夢月」
「つきあってる奴がいるとか、そういううわさある?」
 杏梨の瞳に、怪訝と不審が混ざった色がありあり浮かぶ。
「何で兄貴がそんなの気にすんだよ」
「……いや、まあ。どうなのかなって」
「別にそんな話は聞いたことないな」
「そうなのか」
 ほっとしたような声が出てしまった俺に、「あいつにそんなに興味あるのかよ」と杏梨はもはや蔑む口調で言う。
「いや、俺……じゃなくて、桃寧が心配してたから」
「おねえさんが」
「そう。夢月は、そのー……見た目はいいからな。変な虫がつかないか姉貴は心配なんだよ」
「ふうん……?」
 俺は杏梨から目をそらし、嘘だけど、と心でつけくわえる。
「あれ」を目撃し、一週間ほどだろうか。夢月には俺を避けるようになっている節があった。見てしまったその日は、まだ態度は変わらずべたついてきていた。しかし、こちらの表情がどうしてもこわばってしまうのを見ているうち、俺が家に来たら、部屋に引っこんでしまったり、隣にいても黙っていたり──目も合わせようとしなくなった。
 それは俺にとって好都合なはずだ。やっと念願叶って桃寧とふたりで過ごせる。なのに、俺のほうから夢月を拒んだのではなく、夢月から明らかに俺を拒絶しはじめた態度に、身勝手ながら何だか傷ついてしまっている。
 俺が好きだ好きだ言っていたが、やはり莉波さんとつきあっているのだろうか。そんなふうに思いはじめてきた。俺に構ってきたのも、莉波さんとの親密を桃寧に感づかれないダミーだったとか。なぜ桃寧に隠すのかはよく分からなくも、男同士なわけだし、当人としては気になるのかもしれない。桃寧のことが好きだとは以前きっぱり言っていたし、偏見されたりしたらショックだと怯えてしまってる可能性もある。
 夢月につきあっている奴の存在の話はない。とはいえ、周りには隠していたからこそ、俺に知られて気まずくて避けはじめたという線は捨てがたい。やはり、夢月は莉波さんとつきあっているのか。徐々にそう認めざるを得なくなってきて、俺は確かに、胸の中が腫れて触れないぐらいに痛むのを感じた。
 考えこむ俺を観察した杏梨は、「夢月は」と髪を拭いていたタオルを肩にかける。
「兄貴のこと話すとき、何か嬉しそうで」
 俺は杏梨に目を向けなおす。
「あたしにはそれがぜんぜん分かんねえとは思うよ」
 俺は一瞬きょとんとした。が、やがて少し咲ってしまうと、「そうか」と言って杏梨の頭を撫でそうになった。けれど、振りはらわれるのがオチなので、そこは抑える。めずらしく、杏梨なりに俺を励ましてくれたみたいだ。「あたしの友達不幸にすんなよ」と残すと、杏梨は部屋に入ってしまった。
 不幸にするな、か。まったく、俺は夢月に対してどう接していいのか、本当に分からなくなってくる。桃寧はかわいがってほしいという。咲世は嫌いだと拒絶しろという。杏梨は不幸にするなという。そして、俺自身は──いざ夢月に避けられると、ショックを受けてあれこれ悩んでいる。
 俺は桃寧の彼氏だ。桃寧に避けられたら由々しきことだが、その弟に嫌われても打撃なんてさして受けなくていい。
 むしろ、あんなに俺の貞操を狙っていたやばい奴、近づいてこなくてよかったではないか。莉波さんとつきあっていたって、俺には関係ない。好きと言われてキスされたのも、気にしなきゃいい……
 重苦しいため息がもれる。夢月のあの黒い瞳の呪縛から解放されたのに、どうしてぜんぜん嬉しくないのだろう。それどころか、目ぐらい合わせてくれたっていいじゃないかと思う。
 俺のこと、絶対に落とすとまで言っていたくせに。「その程度かよ」と低く苦くひとりごちて、俺は唇を噛みながら自分の部屋のドアを開けた。

第十八章へ

error: