さいれんと・さいれん-2

天使と恋に落ちた夜

 そんなわけで、恐らく咲世の計らいによって、俺は花村と共に下校することになった。さいわいというか、惜しむらくはというか、雨が降っているせいで傘をさすので、並べるほど肩が近くはない。それでも俺は、ばくばくと高鳴る心臓を、嘔吐してしまいそうに緊張していた。
 春の雨はまだ蒸しておらず、空気をひんやりとさせている。霧雨だが、その中を歩くと、さした傘の表面を雨粒が跳ねる音がわりと響いた。あの掲示板が立つ花壇のそばを通ったときには、湿った土の匂いがただよった。
 周りの奴がちらちらこっちを見る気がしたが、よく考えれば、彼氏になったといううわさもないこんな俺が、花村と歩いているのだから当然か。
 いや、そんなことより何かしゃべらなくては。もうすぐ校門なのに、無言記録を更新している。正直、バカみたいに何もないところでつまずいたりしないか気をはらうのも大変だったが、俺は傘をかたむけて花村を見た。
 小さな花柄模様のブルーの傘を差した花村は、しっかり背を伸ばし、綺麗な横顔を見せて隣を歩いている。やっぱそんなに背は高くないんだよなあ、と改めて感じたりする。好きな女の子より背が高いのは、無条件に男としてほっとする。雨のせいか、アシメトリーのサイドの髪の房が軽く跳ねていた。
 俺の視線に気づいたのか、花村がこちらを見た。う、と目をそらしそうになったものの、そうしたら感じが悪いので、曖昧に咲ってみる。すると花村も微笑んでくれて、俺は骨の関節が蕩けるような浮わついた感覚を覚える。
「立川くんって、ペットとか買ってるの?」
「はいっ?」
 ああ、結局俺から口火を切れなかった。というか、いきなりペットの話題って何だろう。
「いや、ええと、何も飼ってないけど」
「そうなんだ。前、ホームセンターのペットショップでずっと犬を見てたから」
 吐血しそうになった。
 見られていた! 花村に!!
 地元のホームセンター内のペットショップで、ショウケースの中のわんこを眺めるのが俺の癒しの時間なのだ。もちろんこれまで、連れて帰りたい出逢いは何度もあったが、親の許可が下りたことはない。
「えと、まあ、犬が好き……なので」
「猫は見てなかったよね」
 もうやだ死にたい。そこまで観察されていたのか。
「猫は何考えてるか分からない感じが……怖い」
「怖いの?」
「怖い」
「猫が怖いって人、初めて見た」
 花村はくすくすと咲って、一応偏見された様子はないので安心する。ちなみに咲世は圧倒的に猫派なので、俺が猫にビビるのを理解できないと言う。
「教室では立川くんってあんまり咲ったりしてなかったから、新鮮で印象に残ってるんだよね」
「それ、中三のとき?」
「そう。今もあのペットショップよく行く?」
「ん、まあ。あのホームセンターが、便利だし」
「そうだよね。中学時代は、友達とフードコートでよくしゃべってたなー」
「本屋が閉店したのはショックだった」
「あ、分かる。私、よく本を予約させてもらって、店員さんとは仲良くなるぐらいだったのに」
 さすが花村。俺はどんな店でも店員と仲良くなるスキルはない。目も合わせないぐらいだ。
「友達と、犬見てる俺を見たのか?」
「ううん、そのときは私ひとりだった」
「そっか。ちょっとほっとした」
「ふふ。あのとき立川くんがずっと見てたコーギーの子犬、立川くんが離れたあともずっとそっちを見てたよ。きっと、立川くんに飼ってほしかったんだろうね」
「親がなかなか許してくれなくて」
「大人になったら、わんちゃん飼いたかったりするの?」
「というか、トリマーになって、犬をひたすらシャンプーしてやりたい」
 花村は噴き出して、「かわいい夢」と言った。俺は思わず頬に血をのぼらせてうつむく。そんな俺に「あ、笑っちゃってごめんね」と花村は微笑を残して言い、「素敵だと思うよ」と言ってくれた。
 花村が穏やかに話してくれるので、俺も次第にどもったり噛んだりせずに話せるようになってきた。もちろん電車の方向も同じなので、傘をおろした車内では急に花村が近くなってどきどきした。
 それでも不思議と話せながら、やっぱりいい子だよなあ、としみじみ感じた。笑顔も、声音も、仕草も、全部かわいい。何でこんなに愛らしい子を、告った野郎どもは、平然と心変わりしたと振ってしまうのだろう。
 俺なら、と思う。
 俺なら、花村から目移りするなんて、そんなことはしたくたってできないのに。
 地元のほうは、曇り空ながら雨がやんでいた。傘をささずに、俺と花村は並んで小さな商店街を抜けていく。
 俺は駅近のマンションだが、花村は住宅街まで歩いての一軒家らしい。「小学校は別だったのかな」と花村は首をかたむけ、「俺は北小だった」と言うと、「あ、私は南小出身」と花村は納得した。
 花村はやっぱり小学生の頃からモテていたのだろうとは思う。ということは、その頃から告られては心変わりされていたのだろうか。そうだとして、彼女の心が無傷だとは思わない。俺なんて、彼氏でもないのに、花村が誰かとつきあいはじめると苦しいのに──
 咲世が俺を花村と一緒に下校させた理由なんて、分かっている。仲良くおしゃべりしただけで別れたなんて明日報告したら、あいつは俺の頭をはたいてくるだろう。
 告白しろということだ。花村とゆっくり話す機会なんてこれまでなくて、そんなことはハードルが高すぎると思えていた。そして、そうやすやすと再び花村とふたりきりになるチャンスがめぐってくるかは分からない。今なら雰囲気も悪くないし、俺もしゃべれているし、花村も俺といて不愉快そうではない。
 告白、か。ついに俺にもそのときか。
 思えば、二年越しの片想いなわけで。振られたら息ができるか分からないが、それでも、花村が告られては振られるのを見ているのはつらいし、いつか花村を一途に見る奴が現れてしまっても、それはそれできつい。
「立川くん?」
 ふと黙りこんでしまった俺に、花村が首をかしげてこちらを向く。俺はそれを見返して、「あの」とびっくりするぐらい小さな声になってしまいながら言う。
「うん」
「花村さん、は」
「うん」
「今、彼氏というか、そういうのは」
 花村はまばたきをしたのち、少し哀しそうに「いないかな」と答えた。その哀しそうな印象で、やはり彼女が傷ついていることを俺は知る。
「そ、だよな。いたら、そいつと帰るもんな」
「そうだね。あ、もし心配してくれたなら、本当にいないから大丈夫──」
「俺、」
 息を吸う。ああ、もう引けないな。こんなに好きな女の子に振られたら、まともに生きているかも分からないのに。ゲージが上昇するみたいに、告白するテンションになってしまう。
「立川くん──」
 足を止めた。花村も立ち止まる。
 商店街は抜けても、こんな、車も人も行き来する車道沿いの歩道。だけど、どのみち静かな場所に誘い出す頭がまわらない。あたりの景色はゆっくり夜になりかけている。
 俺は、息を吐いた。
「花村さんのこと、ずっと好きだった」
 花村は大きな瞳をさらにまぶたを押しあげて見開いた。早鐘の搏動で、もはや気分が悪くなりかけているものの、俺は言葉をつなぐ。
「中学のときから、ずっと……高校だって、ほんとは同じところに行けたらって思って少し意識して受験した」
「………、」
「ぜんぜん、今日までろくに話したことなかったのに、いきなり気持ち悪いかもしれないけど、俺は、」
「……私、」
「うん?」
「………」
「花村──、」
「つらい、……かも、しれない」
 はっと花村を見た。つらいかもしれない。それは──。「あー……」と声をもらし、俺は乾いた笑いをこぼす。
「や、やっぱそうだよなっ。俺とかないよなとは思ったけど、」
「そうじゃなくてっ」
 花村が俺を見上げる。その瞳が潤んで、頬が上気していることに俺は動揺する。
「私、もう慣れたつもりなんだけど」
「え、えと」
「立川くんにほかの人を好きになったって言われたら、こたえる……かも」
 どきんと心臓が深く刺さる。ほかの人を好きになったら。めずらしく花村の声色が震えている。
「立川くんのこと、気になってたことがある……ので」
 ぎゅっと白い手で傘の柄を握りしめた花村に、俺は爆弾を食らった気分で茫然とする。
 何? 俺が気になってた? あの花村が?
「じゃなきゃ、休みの日に見かけても眺めたりしないもん。私、いつも誰かが構ってくれるから、それはすごく嬉しくても、ひとりで教室にいられる立川くんはかっこいいなあって思ってて」
 かっこいい!? 生まれて初めて言われた。
「い、いや……俺は、友達がいなかっただけで。今は、咲世といるの見てるだろ」
「うん。だから、倉持くんは立川くんといられてうらやましい」
「うらやま……しく、なくてもいいと思うけど」
「私が立川くんの隣にいたかった」
 逆に告白されている気がしてきた。が、それはめまいで正常な思考が麻痺しているからだろうか。
 ええと。ええと。ということは、まさかのこれは両想いという奴なのか。俺が花村と両想い! やばい、鼻血を出すのはやばい。
「花村……さん、というか、花村」
 うつむきかけていた花村が俺を見上げる。濡れた瞳と桜色の唇がわなないている。かわいい。かわいい。かわいい。そうだ、繰り返し思ってきたじゃないか。俺なら心移りなんかしない。花村を哀しませたりしない。それだけは自信があると。
「大事に、するよ」
 花村の瞳が揺れる。俺はその瞳をまっすぐ見つめ返す。
「俺はほんとに、花村が好きなんだ。中学のときから、それがぶれたことなんかない。だから」
「立川くん──」
「俺と、つきあってほしい」
 花村の頬に雫がこぼれた。俺は一瞬躊躇ったものの、思い切って腕を伸ばして花村を抱きしめた。お互いの傘が服に触れてちょっと冷たかったけど、構わなかった。花村は俺の胸に顔を埋め、こくこくとうなずいてくれた。
「嬉しい……ありがとう、立川くん」
「うん。水雫でいいよ」
「みずな、くん。私も、桃寧って呼んで」
「桃寧。ほんとに、大好きだよ」
 俺の言葉に、桃寧は俺の背中に腕をまわして、ぎゅっとしがみついてきた。桃寧の柔らかさと温かさが直接伝わってくる。すぐそばを人が歩いていても、気にならないくらい俺はきつく桃寧を抱きしめた。
 夜が降りてくる。車のライトや、通りに並んでいるコンビニやドラッグストアの店先は明るくても、だいぶあたりは暗くなっていた。
 でも、まだ桃寧と離れたくない。たぶん桃寧もそう思っている。だから、人目なんかいいからもう少しこうしていよう。
 初めて恋をした天使のような女の子が、こうして、彼女として俺の腕の中にいる。有頂天としか言えない。そんな天にも昇るような俺は、桃寧のそばに待機している小悪魔の存在を、まだ知る由もなかった。

第三章

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