さいれんと・さいれん-20

裏切ったのは

 朝、目が覚めると夢月はいなくなっていた。時刻は昼が近くて、杏梨によると、とっくに帰ってしまったということだ。
 こいつ昨夜俺と夢月が何してたかは分かってるんだろうな、と思うと恥ずかしくて軽口もたたけない。さいわい、杏梨もその件で俺を揶揄うことはしなかった。俺は昼飯のざるうどんを食べると、塾に行くために桃寧と待ち合わせている角に向かった。
 今日もまばゆい快晴で、蝉が異常なまでにうるさい。たまに風が抜けてもぬるくて、軆じゅうに汗が滲んだ。
 桃寧はすでに俺のことを待っていて、「ごめん」と言いながら俺が駆け寄ると、何やらはたとした様子で顔を上げた。「あ、うん」とどこか上の空で答えられ、何かあったかと訊こうとしたものの、俺のほうも桃寧を直視するのが気まずくて言えなかった。「行こっか」とだけ言うと、桃寧は無言でこくりとして俺の隣を歩きはじめる。めずらしくぼんやりしている感じの桃寧に、昨夜の夢月の言葉がよみがえった。
『おねえちゃんは、今頃、おにいちゃんを裏切ってるんだよ』
 夕べ、桃寧は何をしていたのだろう。気になってもやもやしても、俺こそ桃寧を裏切っていたので声が出ない。いつになく空気が重くて、これやばい雰囲気じゃね、と急速に不安になってきた。夢月の口に出してしまった俺に、不安になる資格なんてないのだけど──でも、桃寧のほうが俺を裏切ることをするなんてあるのか? 誰かを傷つける行為を桃寧がするとは思えない。
 こんなに暑い中を歩いているのに、気持ち悪い冷や汗が伝っていった。どうしよう、と桃寧にかける言葉を見失っていると、不意に桃寧が「水雫くん」と何か我慢するような声で俺を呼んだ。
「な、何?」
「話、が……ね。あって」
「話?」
「塾が終わったあと、今日は私の家に来てもらえる?」
「それは、いいけど。何、話って」
「……あとで話す。ごめんね」
 桃寧の思いつめた横顔を見つめた。まさか、俺と夢月のことじゃないよな。そうだったらどうする。ばれているなら確実に死亡だ。冷静になれず、桃寧の表情から心を読み取ることができない。頭がぐるぐる堕ちていく。
 頼む、昨夜のことがばれているとか、それだけはやめてくれ。そうだったら、俺は男として最低だと桃寧に烙印を押される。とっくに最低なのだけど、桃寧の口から「最低な人だね」と言われたら──ほんとに、死ぬ。
 五時間、ほとんど頭に入ってこない授業を受けた。俺はちらちらと桃寧を見て、桃寧も同じように俺を盗み見ていた。絶対、夢月とのことだ。間違いない。そう思いこんできて、絶望的な気分になった。
 授業が終わると、俺も桃寧も集中力散漫を講師の先生に軽く怒られた。ふたりして謝り、並んで塾の入った建物を出る。帰り道も言葉少なだった。頭の中はごちゃごちゃしすぎて真っ黒だった。何でちゃんと夢月を拒否らなかったんだ、といまさらすぎることで自分を責めていると、茜色が透き通る夕暮れと物哀しいひぐらしの声の中、花村家に着いていた。
 家に入ると、「私の部屋に来て」と言われたので驚いた。桃寧の部屋に招かれるのは初めてだ。いや、しかし昨夜のことを話すとしたら、夢月が現れるかもしれないリビングでは話しづらいだろう。いよいよフラグじゃん、とめまいを覚えながら、俺は桃寧のあとを追って彼女の部屋に踏みこんだ。
 柔らかいオレンジ色のカーテン、花柄の黄色いシーツのベッド、足元は赤のタータンチェックのキルトが絨毯のように敷かれている。全体的に暖色で彩られた部屋だった。かわいい、と思いつつ本棚やクローゼットも認めていると、明かりとクーラーをつけた桃寧はベッドサイドに腰かけてふうっとため息をついた。
「ごめんね」
「えっ」
「いきなり部屋とか言い出して。初めて来るよね」
「そ、そうだな。かわいい部屋じゃん」
「ありがと。水雫くんも座って」
 どこに、と思って、隣はその資格があるのか分からなかったので床に座ろうとした。すると、「え、ベッド座っていいよ」と桃寧はびっくりして言う。
「え、でも」
「隣に座っていいよ。……座ってほしい」
 しゃがみかけていた俺は、桃寧を見つめて、何も言わずに立ち上がってその隣に腰を下ろした。桃寧も視線をうつむけて、いっとき何も言わなかった。だけど、ふと心を決めたような吐息をつくと顔を上げる。
「昨日ね、私、この家にひとりだったの」
「え、あ……うん」
「夢月は友達の家に泊まっちゃって。親も相変わらず遅くて。そしたら、ちょうどよくリナちゃんが遊びに来てくれたの」
 桃寧を見た。その名前が出てくるとは思わなかったのだ。
「今ひとりだって話したら、親が帰ってくるまで一緒にいてやるって言われて。そういうこと、別に初めてじゃなかったから私も甘えさせてもらった。それで、この部屋でリナちゃんに勉強見てもらったりしてたんだけど」
「……はあ」
「そしたら、リナちゃんが急に、私のことがずっと好きだったって……告白、してきて」
 思いがけない展開に、思わずぽかんとした顔になってしまった。何だって? 莉波さんが桃寧を好き? いや、莉波さんは夢月と──
「それで、ちょっと無理やり……に、このベッドに押し倒されて」
「えっ。だ、大丈夫だったのか」
「すごく嫌がったら、どうにか放してくれた」
「そう、か……」
「リナちゃんのことは大好きだよ。でも、そういう人ではないの。私のそういう対象は、その、水雫くんだけだから」
「桃寧……」
「水雫くんしか、もう考えられない」
 あ──……。そうか、『裏切ってる』って、そういうことか。きっと夢月は、桃寧が莉波さんになびくと見て、あんなことを言ったのだ。しかし、桃寧は莉波さんを拒否した。すごく嫌がった。なのに、俺は夢月と──
 これガチで俺が最低な野郎じゃねえか、と愕然としていると、桃寧が俺の手に手を重ねてきた。どきんと桃寧を見る。桃寧も俺を見つめ、どこか泣きそうな瞳になった。
「水雫くん……」
「は、はい」
「私、……その、水雫くんのものになりたい」
「えっ」
「ちゃんと、軆も水雫くんと結ばれたい」
「え、ええ……と」
「水雫くんは、私とそういうことするのは、嫌……かな」
 急いでかぶりを振った。「じゃあ」と桃寧は俺の指に指を絡める。
「私のこと、抱いてくれる……?」
 そう震える声をこぼした桃寧の唇を見つめた。
 ああ、俺、かっこ悪いな。女の子のほうに言わせて、むちゃくちゃかっこ悪いな。
 情けなくなりながら、俺はそっと桃寧の髪を撫でた。桃寧が長い睫毛を伏せたのを見て、俺は自然と彼女と唇を重ねていた。柔らかい感触にどきどきしながら、俺は不器用なキスをする。桃寧が俺のTシャツをつかんで、小さく口を開けた。俺はそこに舌をさしこみ、桃寧の口の中をたどりながらその軆に重みをかけ、ベッドに押し倒そうとした。
 その瞬間だ。俺の脳裏にまたたくものがあった。あの赤い光じゃない。警告じゃない。なのに、俺はとっさによぎった──夢月の笑顔に、思わず動きを止めた。そしてそのまま、桃寧と溶け合っていた唇をちぎっていた。
 何で。何で何で何で。どうしてこんなときに、夢月のこと──
「水雫くん……?」
 細く名前を呼ばれて俺は我に返ったが、続ける気にはなれず、ただ桃寧を抱きしめた。
「急がなくていい、から」
「え」
「何か……嫌じゃん、莉波さんのことがあって、そういう大事なことするのってさ」
 ああ、くそ。俺は最低だ。嘘ばっかりだ。
「俺は大丈夫だから。ちゃんと桃寧が好きだし、大切にしたい。そういうの、も……こんなかたちじゃなくて、ちゃんとしたい」
「水雫くん──」
「ずっと桃寧が好きだよ。大丈夫、離れていったりしない」
 ありえないほどひどい言葉を吐いているのに、桃寧は俺にしがみつくと安堵したみたいに泣き出した。
 違う。違うんだ、桃寧。俺は桃寧に触れる資格がもうない。それだけなんだ。君を大事にしてるわけじゃない。大事になんて、ぜんぜん、できてない。
 外が真っ暗になるまで、桃寧は俺の腕の中で泣いていた。俺は心から自分の首を断罪してしまいたかった。自分がこんなにむごい奴だなんて知らなかった。誰かを裏切る人間だなんて思わなかった。平然と嘘をつけることなんか知りたくなかった。俺は桃寧の温もりと柔らかさを抱きしめながら、心の中で何度も「ごめん」と謝った。けして、口に出すことはできなかった。
 ずいぶん長いあいだ泣いていた桃寧は、泣き疲れてうつらうつらしはじめた。俺は彼女を寝かせて帰ることにした。きっと、昨夜すごく悩んで、よく眠ることもできなかったのだろう。俺が夢月を抱いて眠っている頃、桃寧はひとりで傷ついていた。そう思うと罪悪感が心臓を突き刺した。
 桃寧が寝息を立てはじめ、帰るのはいいけど鍵どうしよう、とか思いながら俺は部屋を出ようとした。すると、「おにいちゃん」と低い声がしたのでびくっと顔を上げる。
 階段の明かりが灯る中、夢月が自分の部屋の前で、ドアにもたれてこちらを見つめていた。いつものかわいらしい男の娘だけど、見たことのない怖い顔をしている。俺が夢月の名前を呼びかけたとき、先に言葉をたたみかけられた。
「やればよかったのに」
 いつもの愛らしい声でもなかった。俺がたたずんでしまうと、夢月は顔をそむけてつぶやく。
「そしたら、僕だって……」
 僕だって──何、だよ。
 俺がそう問う前に、夢月は身を返して自分の部屋に入っていった。俺はずいぶんそこを動けなかった。桃寧の安らかな寝息が遠くて、ドア一枚なのに夢月も遠くて、自分は今ひとりなのだと痛いほど感じた。

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