さいれんと・さいれん-22

緑になるまで

 夢月ときちんとつきあいはじめる前に、俺は桃寧と別れなくてはならなかった。「僕も説明するよ」と夢月は言ったけれど、俺ひとりで大丈夫だと強がった。
 夢月には自分の部屋にいてもらって、俺は桃寧の部屋の前に行った。念のためノックすると、「入っていいよ」と桃寧の声が返ってきた。俺は一気に緊張しつつ、ドアを開けて桃寧の部屋に踏みこんだ。
 桃寧はこちらに背を向けてベッドに横たわっていた。「帰っちゃったかと思った」と振り向かないまま言われて、「あ、ごめん」と俺は謝ってしまう。
 そのまま、沈黙が流れる。俺は息を吸い、あの言葉を言おうとした。あの、桃寧にとって呪われた言葉。ほかに好きな子ができた。しかし、俺がそれを言う前に、桃寧がつぶやいた。
「好きな人、できちゃった?」
 ずきっと心臓がすくんだ。俺は桃寧の後ろすがたを見つめ、もしかして全部聞いていたのか──あるいは見ていたのかと思う。そうだとしたら、もはや言い訳も何もない。
「……ごめん」
 桃寧の肩は動かなかった。ただ、小さなため息が聞こえた。
「いつも……」
「えっ」
「いつも、心変わりして好きになったのが誰なのかは、教えてもらえないの」
「………、」
「水雫くんも、かな」
 手を握りしめた。言ってしまったら、姉弟の仲にひびが入る。確実に。でも、せめて桃寧に対して真摯であるなら、言わなければならない。
「いや、……夢月だよ」
 桃寧は動揺の微動もしない。ただぽつりと、「やっぱり、そうだよね」と言った。もしかして桃寧は、さっきの俺と夢月を見たどころか、最初から夢月の行動を知っていたのだろうか。
「夢月は悪くないんだ。怨むなら俺にしてくれ。俺が心変わりしたのが悪いのは間違いない」
「……かばうんだね」
「あ、……ごめん」
「………」
「ほんとに、ごめん。約束したのに。結局、俺も桃寧を裏切った」
 桃寧がやっと身動ぎして、軆を起こして俺を振り向いた。桃寧は瞳を赤く腫らして、大粒の涙をあとからあとからこぼしていた。
「桃寧──」
「裏切ったことを償ってほしいの」
「あ、……うん。できることなら何でも」
「じゃあ、水雫くんは──」
 桃寧は少し視線を下げたのち、言葉を続けた。
「罰として、私の弟をずっと大切にしてあげてください」
 俺は桃寧をほうけて見つめた。桃寧は痛々しく泣きながらも、優しく微笑んだ。
 ああ、やっぱりこの子は女神で、天使で、聖女だな。彼女の広い心に俺まで泣いてしまいそうになる。涙声にならないように、どうにか「分かった」と今度こそ誓った。すると桃寧は「ありがとう、水雫くん」と噛みしめるように言う。そんなの俺の台詞だけど、きっとこちらがそう言うのは残酷だから、俺は黙って桃寧の部屋を出た。
 夢月の部屋のほうを見ると、ドアに隙間があって、夢月がこちらを覗いていた。俺が笑顔を作ると、夢月はそろそろと部屋を出て俺に駆け寄ってくる。
「おにいちゃん──」
「今日は俺の部屋に泊まる? それとも、夢月が部屋に泊めてくれる?」
 そんなことを言ってみると、夢月はらしくなく白い頬を染めて、「おにいちゃんの部屋に行きたい」とささやいた。俺は咲うと、「じゃあ一緒に帰ろう」と手をつなぐ。夢月はそのつながった手を見てから、きゅっと握り返してきて、「うん」とうなずいた。
 その夜、俺と夢月は俺の部屋のベッドで結ばれた。夢月の軆の中はすごく熱くて、俺を締めつけてきて、バカみたいに何度もいってしまった。夢月も俺の射精を感じ取るたび切なく反応して、硬さがなかなか落ちないくらい繰り返し達していた。
 俺は夢月の軆にいっぱいキスをして、優しく抱きしめて奥を彷徨う。夢月は懸命に声を抑えていたけれど、たまにかわいい声をもらして、特に甘く喘ぎながら「おにいちゃん」と呼ばれると、俺は爆ぜてもすぐにまた勃起を取り返した。夢月にそう呼ばれるのが、すっかり特別になっている。
 快感の白波が意識を朦朧とさせても、俺たちは愛し合っていた。クーラーもつけず、汗をかいて、このまま溶けてひとつになってしまいそうだった。カーテンの向こうに黎明の気配がしてきた頃、やっとシーツに倒れこんだけど、それでもまだじゃれあって咲っていた。
 夢月の無邪気な笑顔に、まだ十四歳になるかならないかの子供なんだよな、なんて初めて思う。「好きだよ」ともう何度目なのか分からない言葉を贈り、すると夢月は「僕もおにいちゃん大好き」と俺の胸に頭を乗せて睫毛を伏せる。
 さらりと流れた髪からは、やっぱりあのフローラルの香りがして、俺はいつまでもこの匂いに心身を蕩かされていたいと思った。
 ──そして夏休みが明けて、二学期が始まった。
 弟とつきあうことになったわけだし、塾も一緒だから、あのあとも俺は桃寧と顔を合わせていた。「学校始まったら、心変わりした俺を桃寧が振ったことにしてもいいよ」と言っていて、桃寧は少し考えたあと、「そうしたほうが水雫くんにとって楽なら」とこんな俺をまだ思いやってくれた。俺は心変わりを責められるのは仕方ないと覚悟している。だとしたら、桃寧が振ったというより、やっぱり俺が別れを告げたことにしたほうが、周りからの攻撃は俺に集中して桃寧へのダメージは少ないだろうか。
 桃寧にそう言ったら、彼女はむしろ「じゃあ私が振ったことにしよう」と言うだろうと考えたので、理由は黙って最終的には俺が通例の彼氏のように桃寧を振ったと事実に沿うことにした。もちろん俺は桃寧を想う野郎どもに殴られそうになったし、桃寧の友人たちには軽蔑の目を向けられた。しかし、桃寧が「水雫くんはちゃんと今までの人とは違ったから」と具体的な説明はしなくてもかばう発言をして、実際に俺とは友人になってみせてくれたので、やがて周囲は沈静していった。
 俺が心変わりした相手が夢月であることは、咲世だけには話した。ぶん殴られても受け入れようと本気で思っていた。しかし咲世は「やっと自覚したか」とあきれた苦笑をして、放課後にファミレスで向かい合った俺の額を小突いてきた。俺は額をさすり、「分かってたのか」と問い返す。「あれだけ弟のことばっかり気にしてたら、誰でも察するんだよ」と咲世は肩をすくめ、「花村はお前と別れて、幼なじみと大丈夫なのか」とそこまで気にかけてくれた。俺はうなずいた。
 莉波さんは、宣言した通り桃寧に夢月のことを話した。しかし桃寧は、「夢月から話を聞くまで信じない」と突っぱねたらしい。俺も同席して、夢月はたどたどしく桃寧に真実を話した。莉波さんが夢月を使って桃寧と彼氏を引き裂いていたこと、夢月も莉波さんに恋愛感情と懾服心が勝って逆らえなかったこと、誘惑に気持ちなんてなくて桃寧に対して常に心苦しかったこと。桃寧は、俺が夢月を助けなくても、莉波さんより弟の話を信じた。「つらかったね」と桃寧は夢月を抱きしめ、「おねえちゃん、ごめんなさい」と夢月もようやく桃寧にその言葉を伝えられた。
「花村強いなあ」と咲世は感心し、「あの子はほんとに、俺なんかにはもったいなかったのかもしれない」と俺もつぶやいた。「やっと花村の人気が分かった気がするぜ」と咲世は笑ったが、それでも好きなのは年上のいとこに変わりないみたいだった。
 ちなみに、俺と夢月がつきあいはじめたことは、必然的に妹の杏梨にも知られた。夢月は初めは杏梨には俺を落とすために近づいたそうだが、よく話すようになってその男らしい態度に信頼が芽生え、今ではふたりは親友になっている。杏梨も夢月の痛ましい相談を受けているうちに、何とかしたいと思うようになったみたいだ。
 なので、俺が男とつきあいはじめたなんて知ったらもっとも蔑みそうだった杏梨が、かえって家族の中で理解者になって、まだ本当のことを話していない両親とのクッションになってくれている。「ありがとな」とある日俺が言うと、杏梨はレモンティーを飲みながら、「あたしは夢月の味方なだけだし」と相変わらずかわいくないことを返してきたけども。
 そうこうしているうちに、あっという間にカレンダーは十月に入った。たまに気紛れにやってきていた台風の季節も過ぎ、やっと秋晴れが続くようになった。日中はまだ暑さの名残があれど、澄み切った虫の声が鳴り響く朝晩は涼しく、エアコンもいらない。
 学校では勉強が大変で、塾でも模試やら何やらあって、落ち着いた休日がなかなかなかった。あちらこちらの街路樹では紅葉も始まった頃、久しぶりに予定のない日曜日が見つかったので、俺は夢月とデートすることになった。
 それまでにも会っていたものの、お互いの部屋でいちゃついているくらいだった。俺が「デート」という単語を出すと、夢月はびっくりしたようにまばたき、それから「嬉しい」とはにかんで咲った。あまり羞恥心のない魔性の男の娘だった夢月だけど、最近は恥じらうような様子を見せるときがあり、俺はそのたび胸の中で「かわいい」と連呼してしまう。
 あの日、女の格好が莉波さんの強要ならやめてもいいようなことは言ったが、結局夢月は女装を続けている。「だって、こんな僕がかわいいんでしょ?」と夢月は俺にくっついて、「かわいいです……」と俺は頭を沸騰させながら正直に答えるほかなかった。
 デート当日、俺は白いシャツとジーンズで夢月を家まで迎えにいった。無意識の服装だったけど、まだ夢月は準備をしているとかでドアを開けた桃寧に、「すごい本気の格好してる」と揶揄われて、そういうふうに見えるのかと慌ててしまった。
「大丈夫、かっこいいから」と桃寧になだめられていると、「おにいちゃんっ」と夢月の愛らしい声がした。ちなみにこのあいだ夢月は声変わりが来ていたけど、そこまで急激に低くなることはなかった。家の中を振り返った桃寧は、「夢月かわいい」と微笑んで、「えへへ」と夢月の照れ咲いが聞こえる。
 かわいいのか、とどきどきしていると、「いってらっしゃい」と言った桃寧の代わりに夢月が顔を出した。髪型はいつも通り美少女の定番であるツーサイドアップで、ピンクのリボンがあしらわれた白の姫袖のブラウスに、同じくピンクのレース生地のスカートを合わせている。足元はチョコレート色のムートンブーツ。何だこの「かわいい」の体現は、と思っていると、「いってきますっ」と夢月は桃寧に笑顔を向けたのち、ドアを閉めて俺を見上げてきた。
「おにいちゃん?」
 アホみたいに見蕩れていた俺に、夢月はきょとんと首をかしげる。
「あ、いや……うん、かわいい」
 自分で何を言っているのが分からないまま言うと、「ほんと?」と夢月は瞳をきらきらさせた。そんなに濃くはなくても、化粧もしているみたいだ。
「おにいちゃん、かわいいもの好きだよねー」
「……かっこ悪いのは分かってます」
「ふふ、そんなことないよ。でも、犬には嫉妬するー。おにいちゃん、犬の写真見てるときほんと幸せそうだもん」
 夢月には何も隠したくないと思ったので、俺は自分がわんこに癒されてきたことは話して、例の日めくりカレンダーのスクラップの存在も教えていた。俺がわんこを語ったそのときも、夢月はちょっとだけむくれてしまったので、そのあといっぱいキスをしてあげなくてはならなかった。すると夢月はやっとご機嫌になって、俺って恋愛対象としては猫が好きなのかなあとか考えてしまった。
「でも」
 そう言って夢月は俺と手をつなぎ、大きな黒い瞳で俺の瞳を覗きこんでくる。
「そういう、おにいちゃんの優しいところが好き」
「優しい、のかな」
「うん。きっといいトリマーさんになると思うなー」
「なれるかな」
「ならなきゃ。お仕事はちゃんとしてくれないと、僕、お嫁に行ってあげないよ?」
 俺は夢月を見つめ、その手を握り返すと「夢月はウェディングドレスもかわいいだろうな」と言った。「うん、いつか絶対着てみたい」と夢月は俺の肩に寄り添う。夢月のウェディングドレス。きっと本当にめちゃくちゃかわいくて、俺はそのすがたをひとりじめしたくて、結婚式にむしろ誰も呼びたくなくなるかもしれない。
 どんなに女の子に見えても、夢月の性別は男だし、あっさり結婚式といかないのは分かっている。それでも、ずっと夢月の隣は俺のものにしておきたい。まさか自分が同性とここまで本気の恋に落ちるとは思っていなかった。自分がゲイになったとは感じない。何というか、こういう言い方は甘ったるい漫画みたいだけど、夢月だけは性別を超えるほど特別なのだ。
 俺たちは手をつないだまま歩き出し、何度も瞳を重ね、笑みを絡める。この夢月の笑顔が俺のものになったなんて、まだ信じられないときもある。けれど、それは夢月だって同じなのだろう。俺に微笑まれて、触れられて、キスされて、夢月はその瞳を濡らして「幸せ」と夢を見ているみたいにつぶやく。
 夢月とこんなふうに一緒にいても、触れあっても、深くつながったって、もうあの無音の赤い光がちらつくことはなかった。俺たちは、やっと穏やかなふたりになったのだ。だから、その幸せを俺は大切にしていく。いつまでも。いつだって。この恋にもう警告はいらない。立ち止まることなく、このかわいい男の娘に永遠の愛を誓い、こんなふうに並んで歩いていく。
 横断歩道を渡るとき、夢月の手を引きながら晴天を見上げた。空色も信号も青。頭の中はオールグリーン。さわやかな秋の風にあの愛おしい香りを感じ、俺は心が溶けるほど思いきり深呼吸した。

 FIN

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