甘やかな始まり
すっかり夜だった。桃寧のことを送ったほうがいいかと気にしたものの、「何もおもてなしできないから」と彼女は首を横に振った。おもてなしというか、桃寧なら絶対に痴漢だの変質者だのもたかってくると思うのだが。それを言うと、「じゃあ、途中まで弟に来てもらうね」と返されてしまった。
まあ、彼氏歴一時間足らずの男を家に近づけるような女の子でもないか。そう納得したので、俺はおとなしくマンションへの角で桃寧と別れた。
念のため桃寧の背中を見送り、一度振り返った彼女は、俺がいるのに気づくと、嬉しそうに手を振ってくれた。ああ、かわいい。完全に色ボケてそう思い、桃寧の小さな背中が見えなくなってから、俺はマンションへと歩き出した。
歩きながら、さっき桃寧と連絡先を交換したスマホをにやにやと眺める。ついに俺に「彼女」の連絡先が登録されたのだ。しかも、その彼女はあの花村桃寧。報われない片想いだと思ってきたが、ついに報われた。長かった、としみじみ感じて、スマホをしまおうとしたが、はたと気づく。
そうだ。桃寧とつきあうことになった。それは、何もかも親友の咲世のおかげだ。報告して、礼を言っておかないと。あと、お前も年上のいとこへの片想い頑張れよ、ぐらい言おう。まあ家着いてからでいいか、と俺は自宅のあるマンションに急いだ。
「あー、やっと帰ってきた」
暗証番号を入力しないとエントランスに入れないマンションの三階の308号室、さらに玄関をドアはカードキーで開ける。「ただいまー」と言いながらドアを引くと、そんなかわいくない声がした。
スニーカーを脱ぎながら、俺は部屋から顔を出すぶかぶかのトレーナーにレギンスを合わせている妹の杏梨に目を向ける。
「おっせえし。夕飯、兄貴待ちなんだけど」
俺はみっつ年下の杏梨を無言で眺めた。
スポーツ大好きのこの妹は、まあしなやかな軆もしているし、顔だって眉を整えたりアイプチとやらで目を大きく見せたりして頑張っているほうだが、何しろ言葉遣いが悪い。あと、家だと前髪をくくってしまっているので、見た印象はガキ臭い。俺は前髪がないと生きていけないのに、杏梨といい咲世といい、前髪がうざいってどういう感覚なのだろう。
俺にじろじろ見られて、ストローで紙パックのレモンティーを飲んでいた杏梨は、怪訝そうに眉を寄せる。
「何だよ」
「……お前、ほんとかわいくないなあ」
「はあっ?」
「そんなんで彼氏できんのかよ」
「男とか面倒臭いって、兄貴見てると思うんだよ」
「何で俺が面倒臭いんだよ」
「高校生になっても、親に犬飼いたいとか言ってるあたりが、面倒臭い。女子かよ」
「お前より女子力があるんだよ」
「それ自分で言うとかキモっ」
「別にお前にどう言われようと、もうどうでもいいけどな。ほんとどうでもいいわ」
「ちっ、えらそうに。早く着替えてダイニング来いよな」
杏梨は俺に背を向けると、「かあさん、とうさん、兄貴帰ってきたー」とか言いながら奥に行ってしまった。とうさんも帰ってきてんのかよ、とさすがにちょっと焦りつつ、俺は家に上がると、杏梨の部屋の隣の自分の部屋に入った。
カーテンもベッドもグリーンでまとめた部屋で、ほかにはつくえや本棚がある。清く正しく桃寧を想ってきた俺は、エロ本もエロDVDも所持していない。いや、まあスマホで無料動画を観ることは認める。
でも、ある意味そんなコレクションくらいこっぱずかしいのが、わんこ日めくりカレンダーを、めくっても捨てずにスクラップしているのが、ここ十年ぶんくらい溜まっていることだ。だが桃寧にはそのへんは知られてしまっているわけで、やはり俺の部屋に死角はない。
いつでも呼べるぞ、とひとりうなずいてから、制服を着替えて夕食の匂いがただよってきているダイニングに向かった。
白身の焼き魚と春キャベツが大盛りの野菜炒め、それから白飯と味噌汁と漬物だった夕食を食べ終えると、「お風呂入るー」と言った杏梨も隣の部屋にいないことだし、俺は咲世に通話をかけた。意外とすぐに『もしもし』と反応した咲世に、「俺だけど」と応じると『すごかったなー』といきなり言われた。
「は? 何が?」
『いや、お前と花村。道端で抱きあってるの見たぜ』
咳きこんでしまった。いや、駅から商店街を抜けたあたりで、無論地元が同じ咲世が目撃していても、おかしくはないけれど。
「こ、声をかけろよ」
『かけてよかったのかよ』
「………、いや、かけなくてよかった」
『だろ。で、あれでまさか、うまくいかなかったとかじゃないよな?』
「えと、……はい、つきあうことになりました」
『絶対振られると思ってた』
「何だよ、それっ」
『嘘だよ。振られると思ってたら、お膳立てなんかしねえし』
「……ほんとに?」
『ほんとに。花村、中学のときはお前のことたまに見てたからなー』
「何で、それ言ってくれねえの?」
『信じたのかよ』
「……信じませんでした」
『まあ正直、俺を見てんのかお前見てんのか、よく分かんなかったから、言わなかった。お前といるときに視線感じてただけだから』
「俺、ぜんぜん気づかなかった」
『にぶいよなー』
むうっと仏頂面になりつつも、ここはやり返さずに「お礼言いたくて」と素直に下手に出る。
『礼はいいから何かおごれ』
「ホームセンターのフードコートで何でもおごる」
『安っぽいな。いいけど。試験勉強でもするとき、ランチセットでもおごってもらう』
「ん。ありがとな、ほんとに」
慣れ親しんだ親友に改めて礼を言うのも照れくさかったが、そこはちゃんと伝える。咲世は含み咲ったあと、『で、あのあとキスくらいもうしたわけ?』とか言う。
「してねえよっ。もっと、大事にするし」
『大事に、ねえ』
「家まで送るのも、部屋にあげてもてなせないからって断られたんだぞ。キスとか、そんな、したら振られる」
『もう振られる心配かよ。それより、お前が振ることにならないといいけどな』
「それはない」
『言い切りました』
「いや、ないだろ。何でみんなほかに好きな奴できたとか言って、あの子を振るんだよ。わけ分かんねえんだけど」
『それでも、何が出てくるか分かんねえとは構えとけよ』
「大丈夫だよ。実らないと思ってても、ずっと桃寧のこと好きだったんだ」
『ももね』
「あ、名前で呼び合うことになった」
『やっぱ花村のほうが慣れてるよなー』
「俺から水雫って呼べって言ったんだよ」
『そうなのか』とやや意外そうな声で咲世はつぶやき、『ま、とにかくおめでと』と続けてくれる。
『あれだけいじいじしてたお前にしては、よくやった』
「告らないと俺のこと蹴たくってただろ」
『そうだろうな』
「……いろいろ、ほんとに咲世のおかげだ。ありがとう」
『はは、お前に女の経験で先越されるとはなー』
「お前も、年上のいとことうまくやれよ」
『そうだなー。ガキ扱いだけでもやめてほしいんだよなあ』
「咲世ってガキかな」
『あいつにとっては子供なんだろうよ。「背が伸びたねー」とか言われてマジできつい』
「親戚のおばちゃんみたいだな」
『おねえさんだっつーの』
笑いあったあと、「じゃあ、これからも相談とかは乗ってくれ」と俺が言うと、『のろけは知ったこっちゃねえけどな』と咲世は言い返して、俺たちはまもなく電話を切った。いい親友を持った、と感慨深くなりつつスマホをおろすと、メッセ着信がついていることに気づく。
もしやと慌てて通知を開くと、桃寧からだ。
『みずなくん、こんばんは。
今日は本当に嬉しかったです。
これからよろしくお願いします。
今日は家事とかしなきゃいけなくて無理だったけど、いつか家にも遊びに来てね!』
俺は思わずにやけてしまい、いつかは家にも遊びに行けるんだな、とそこにもほっとした。うんと迷って返信を作っているうちに、けっこう時間が経ったようで「風呂あがった」と突然杏梨が部屋のドアを開けてきた。そして、にやにやいそいそとスマホをいじる俺に、「うわ、気持ち悪」と吐き捨てて去っていく。
俺は思わず舌打ちしてしまったものの、桃寧のピンクのうさぎのぬいぐるみのアイコンを見て心を鎮め、ようやくメッセを送信すると、風呂を取られないうちに立ち上がった。
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