惑わせる猫
混みあいはじめた電車を降りて、地元に着いた頃には、月は浮かんでいても暗くなっていた。これならどっちみち、桃寧を家まで送ると俺はまた言い出していたかもしれない。もうじき初夏で、夜の肌寒さもそろそろなくなってきたものの、それでも一枚羽織っているのはちょうどよかった。
ちなみに俺はグラタンが食べたいと普通に好物を伝えていて、帰宅の前に、つきあいはじめた車道沿いの道にあるスーパーにふたりで立ち寄った。
一緒にスーパーの買い物とか新婚みたいだなあ、とほうけたことを思っている俺の隣で、桃寧は定番のマカロニやベーコンのほかに菜の花なんかも買っている。「デザートは作る時間ないから、買っちゃっていい?」と訊かれて、「おう」と俺は答える。
「水雫くん、何がいい?」
「グラタンは俺が決めたし、桃寧が食べたいのでいいよ」
「えー、迷うなー。何がいいかな」
そう言いながら、スイーツコーナーで桃寧は目をきらきらさせる。ダブルシュークリームといちごのタルトで迷っていたけれど、最後にはタルトに決まった。
会計を済ますと、「持つよ」と俺はエコバッグに入った食料を桃寧の手から取って、「旦那さんみたい」と言われておもはゆくなる。両手が空いた桃寧は、俺の左腕にくっついた。何となく瞳を触れあわせ、照れ咲いを絡めていると、次第に道に明かりが減ってきた。
大きな公園に面したT字路に行き着き、向こうに渡ったら住宅街が広がっている。横断歩道を渡り、「私の家はこっち」と言う桃寧の案内におとなしくついていった。
『花村』という表札の家の前で、俺たちは一度立ち止まる。門扉があって、洗濯物が干せるくらいの庭、そして玄関がある。家の中には明かりがついていて、「誰かいるみたいだけど」と言うと、「弟じゃないかな」と桃寧は言った。
弟……。そうだ、弟がいるんだった!
何だ、ふたりきりではないのか。あれだけ焦ったくせに、そうではないと分かると残念な気持ちが滲む。もちろん顔には出さずに庭に踏みこみ、桃寧は俺にくっついていた腕をほどくと、バッグから鍵を取り出した。メッセアプリのアイコンになっている、ピンクのうさぎのマスコットがつながっている。
かちゃ、と鍵をまわしてドアを開けると、「どうぞ」と桃寧に言われて俺から家に入った。何か、当たり前だけど、桃寧に感じることがある匂いがする。「ただいまー」と桃寧が声をかけると、左手のガラスのはまったドアが開いて、「おねえちゃんっ」と弾んだ声をあげて、セミロングをツーサイドアップにした女の子が現れた。
ん?
女の子?
「あ、夢月。おとうさんとおかあさん、やっぱり仕事?」
「うん。お腹空いたよー」
「待って、すぐ作る。グラタンだから」
「わあいっ、グラタン大好き! ──で、その隣の人は?」
「今日、彼氏連れてくるかもとは話してたでしょ」
「へーえ、この人がおねえちゃんの新しい彼氏かあ」
女の子は悪戯っぽい光のある大きな瞳で俺を見つめ、艶のある唇をにんまりとさせる。しっとりした白い肌や小さな鼻、小柄な軆は桃寧に似ている。これは──どう見ても妹だ。何か聞き間違えてたかな、と当然のように納得しようとした俺に、彼女はにっこりとして頭をぴょこんと下げた。
「初めましてっ。弟の夢月です」
………。
弟。
弟って言ったぞ。言ったよな? 弟!?
「え、えと……え、弟?」
「ああ、夢月は男の子の格好あんまりしないの」
そんなことをさらっと言われてもですね。しかし、桃寧にとっては当たり前なのか、動揺する俺にきょとんとしている。
「え、と……性同一──」
「違うよーっ。僕は男の娘だよっ」
「お、おと……このこ、とは」
「はあ? 知らないの? いまどき、AVのジャンルにもあるよ?」
「え、えーぶい……そんな、持ってねえわっ」
スマホでこっそり観ることはある。しかし、俺が好きなジャンルは──いや、そんなことはどうでもいい。
「おねえちゃん、こいつ絶対、今嘘ついたし」
夢月くんはそう言って、俺になぜか冷ややかなまなざしを向ける。何だ。持っていると言えば正解だったのか。基本的な話、未成年では所持できないだろ。
「もう、夢月。ごめんね、水雫くん。やっぱりびっくりするよね」
「ほんとに、弟……?」
「うん。中学生になってから、夢月はこうなの」
「今、いくつ……?」
「十三歳だよ。中二」
桃寧の前に夢月くんがそう答えて、俺は改めて彼──なのか彼女なのかを見た。ツーサイドアップ。黒目がちの瞳。艶やかな唇。服装はよく見るとラフだけど、スカートはスカートだ。伸びる脚もすらりとして、すね毛などない。おまけに淡いピンクのペディキュア。徹底的に、美少女だ。
かわいいけども。マジで、かわいいけども! 声変わりもしていないのか、声すらもなめらかだけども!!
分からん。
ただそう思い、「あの、上がっていいかな」と桃寧に視線を戻した。「うん」と桃寧は微笑み、「ほら、夢月、通してあげて」と仁王立ちだった夢月くんを一歩引かせる。「おねえちゃんの彼氏なんだから、もっとレベル高くていいのにー」と夢月くんはずけずけ物申して、「私はこの人がずっと好きだったの」と桃寧は頬を染める。
「ずっと……?」
「うん。あ、中学のときからだけどね」
「じゃあ、今までの彼氏は?」
俺がどきっとしてしまう。確かに、俺を想っているのなら、なぜ彼氏をこれまでに持ったのかと思ったことはあった。桃寧は首をかたむけて、「水雫くんとつきあえるなんて、思ってなかったから」と俺とちらりと見て、恥ずかしそうに言う。
「……忘れたかっただけかも」
夢月くんは桃寧をじっと見つめて、それから、「ふうん」とおもしろくなさそうにつぶやいた。それから俺を見たけど、何も言わずにさっき出てきたガラスのドアの中に入っていった。
何だよ、と俺がたたずんでしまうと、「ごめんね」と桃寧に言われてはっとそちらを見る。
「ちょっと気紛れな子なの。いい子なんだけどね」
「何か、猫みたい……だな」
「そうかもね。苦手かな」
「いや、まあ、桃寧の弟なら仲良くしないといけないよな」
桃寧は俺の言葉ににこっとして、「ありがとう」と俺を家の中に招いてくれた。夢月くんが入ったドアの向こうはリビングだった。黒いソファが木製の座卓を囲って、その奥の室内の角に大きなテレビが置かれている。右手にはダイニングとキッチンが広がっていて、「適当に座ってて」と桃寧は俺の手からエコバッグを引き取るとキッチンに立った。
俺はソファに座ろうとしたが、夢月くんが腹這いに寝そべってスマホをいじっていて、スペースがない。
「……あの」
「んー?」
「座りたいのですが」
「床に座ればー?」
こちらを一瞥もしない。くそっ、マジで猫だな。正直ちょっと怖いので、俺はおとなしく床に腰をおろそうとした。すると突然夢月くんは俺に顔を上げ、「ふふっ」とおかしそうに咲った。
「おにいちゃんさあ」
「はい?」
「素直に言うこと聞いて、下僕みたいだね」
俺は表情を凍てつかせ、これってののしられたんだよな、と静かに夢月くんの言葉を反芻した。こいつは女の子じゃない。男なのだ。そう思うと、何か言い返したくなったが、そこは桃寧に免じてこらえる。
「おにいちゃん、って」
「ん? おにいちゃんでしょ」
「いや、俺は──」
「おねえちゃんの彼氏なら、僕にはおにいちゃんだもーん」
何だ何だ何だ。これは懐いているのか? 分かんねえ。何を考えているか、まったく分かんねえ。ガチで猫か、こいつ。
どうしたらいいのか固まっている俺に、夢月くんは起き上がると「ここ」と隣をぱんぱんとたたいた。
「……え、」
「座っていいよ。ソファに座りたいんでしょ」
何だか本当に、上座に許された下僕みたいだ。しかし突っ立っているわけにもいかないし、おずおずと夢月くんの隣に座る。すると夢月くんはひょいと俺を覗きこんできて、その髪から桃寧の匂いとはちょっとだけ違う──フローラルっぽい香りをこぼす。
「おにいちゃんは、おねえちゃんを大事にしてくれる?」
その薔薇のような香りにぼうっとしかけた俺は、夢月くんの質問にはたと我に返る。
「お、おう」
「ほんと?」
「ほ、ほんと」
「約束する?」
「するよ」
「そっか。じゃあ、おねえちゃんと仲良くね? 泣かせたりしたら、怒るよ?」
どうやら、今までの彼氏と俺の違いが、まだいまいち腑に落ちていないようだ。確かに、何度も桃寧は彼氏に心変わりされてきた。姉想いではあるんだな、と思って「はいはい」と苦笑いしつつうなずくと、夢月くんは俺に顔を近づけて──キスできそうなくらい近づけて、思わず肩をこわばらせる俺に、蠱惑的なまでの美しさで微笑んだ。
「おねえちゃんを泣かせていいのは、僕ひとりだからね」
【第七章へ】
