さいれんと・さいれん-7

甘える小悪魔

 初めて桃寧の手料理を食べるのに、まったく味が分からなかった。
 菜の花と空豆が入った春らしいグラタンだったのは憶えているけれど、味が思い出せない。食べながら、視線がうろうろしてしまったせいで、「おいしくなかったかな」なんて桃寧に不安そうな顔をさせてしまった。すると、うまいよ、と俺が言う前に「おいしいに決まってんじゃんっ」と桃寧の隣にいる夢月くんが元気よく言った。「そうかなあ」と桃寧はまだ気がかりそうに自分のグラタンを口に運ぶ。そんな桃寧に、「おいしいよ」と俺はどうにか言った──
 彼女に嘘をついてしまったのが、喉に切り傷が入ったみたいに心苦しい。
「おねえちゃんを泣かせていいのは、僕ひとりだからね」
 そう言った夢月くんは、俺の瞳に瞳を刺したまま艶めかしく笑むと、俺の唇に人さし指を当て、その言葉は桃寧に秘密だというようにその指を自分の唇にも当てた。間接キス、とかくだらない言葉がよぎってしまい、急に頬が燃えて俺は思わず夢月くんを押し退けた。しかし、「わっ」と夢月くんがソファから落ちそうに軆をかたむけたので、俺は慌ててその華奢な軆を抱きとめる。
 うわ、桃寧より細い。
 そう思ってしまった俺を夢月くんはじっと見つめてきて、急ににっこりすると「ありがと」と体勢を正した。俺はぎこちなくうなずき、何となく夢月くんがいる左側とは逆の、右手にいる桃寧の料理する背中を見る。
「おにいちゃん」
「………」
「おにーちゃんっ」
 無視だ。何か、マジでこいつ怖い。すると夢月くんは「悪戯してもいいのかなあ」とささやいてきた。
 悪戯。知ったことか。どうせ、髪を引っ張るとかそんなのだろう。そう思っていたら、夢月くんの手が俺のジーンズに這ったのでどきっとしてそちらを見た。
「んー、ちょっと勃起してる?」
 ぎくっとして俺はとっさに立ち上がり、夢月くんの手をはらった。「おにいちゃん」と呼ばれても無視して、俺は「桃寧」と恋人の名前を呼びながらキッチンの手前のダイニングまで逃げた。「うん?」と不思議そうに振り返った桃寧は、あんな小悪魔みたいな奴とは違って、清らかに咲っていて──
「喉渇いたかも」と俺が言うと、「あっ、そうだよね」と桃寧は飲み物を出していなかったことを詫びた。そして、お茶の入ったグラスが自然とダイニングのテーブルに置かれたのがさいわいで、俺はリビングは無視してそこに座っていた。
 しかし、胸騒ぎのような搏動はなかなか落ち着かず、しばらく股間にもむずがゆい感覚があった。それが、ショックやら情けないやらで、桃寧の作ってくれた、大好物のグラタンもゆっくり味わえなかった。
「ただいま……」
 ぼそりと言いながら、たどりついた自宅の玄関を開ける。「おかえりー」という両親の答えをぼんやり聞いて、俺はそのまま自分の部屋に入った。明かりもつけずにベッドに倒れこみ、乾燥した口の中なのにごくんと生唾を飲むと、深いため息をつく。
 何なんだよ、あの弟。本当にわけが分からない。女装は俺が文句をつけることじゃないけれど、あんな色っぽく悪戯とかささやいて、いきなり股間に手をつけるとか──いや、それは男同士だけど。意識過剰になることではないのかもしれないけど。
 そんなことよりも、桃寧を泣かせていいのは自分だけだ、と言っていた。そのひと言で、夢月くんのぞっとするほどの桃寧への執着が垣間見えた気がする。あいつ、もしかして桃寧を姉以上に見てないか?
 似てる、と思ったし、血はつながっていると思う。なのに、姉に恋をしているとか、正直さすがにヒくんだけど。自分に妹がいるので、なまじ血のつながりで芽生えるはずの嫌悪感が分かって、それを感じていないかもしれない夢月くんが不気味になる。それにしたって、桃寧を振る男ばかり見て俺を信用できないのは分かるが、あんな「悪戯」はないだろう。屈辱的過ぎる。
 俺、あの弟とうまくやっていけるかなあ。懸念で途方に暮れそうになりながらも、俺はゆっくり軆を起こすと、癒されるためにも桃寧に帰宅した旨をメッセしようと、やっと部屋の明かりもつけた。
「おにいちゃん、座ってるだけなら膝枕してよー」
 桃寧の両親は、話には聞いていたけど仕事がそうとういそがしいらしい。あの日以降、俺はちょくちょく桃寧の家を訪ねることになってしまっていたけど、見事に顔を合わせることがなかった。
 そりゃ家事スキルも身につくわ、と制服のまま家の中をばたばたする桃寧をソファから眺めて納得していると、突然そんな声がかかって俺は露骨な顰め面で声の主を見た。いつのまにかリビングに現れていたのは夢月くんで、素早く俺の隣に座るとくたっと横たわって本当に俺の膝を奪ってしまう。
「あのさあ、夢月くん……」
「夢月」
「ん」
「夢月でいいよ」
「………、俺ら、男同士なのに膝枕とかさ」
「最近、おねえちゃんにしてもらえない代わりー」
 夢月くん──夢月を見おろした。夢月は俺の膝の上で無邪気に咲って、「おにいちゃんの制服すがた、何かいいね」とか言う。何がいいのか分からなかったが、「そうですか」と俺は背凭れに沈む。
 そして、洗濯物を抱えてリビングを通りかかった桃寧は、俺と夢月くんを見て「仲良くなってくれてよかった」とのんきに微笑む。仲良くない。ぜんぜん仲良くなってない。というか、俺が桃寧に膝枕してほしいのに、何が楽しくて女装野郎に俺のほうが膝枕しているのだ。
 俺が吐息をつくと、夢月が急に俺の首を腕をまわして、ぐっと顔を近づける。
「ため息なんかつくなら、口塞いじゃうぞ」
 どう塞いでくるかは、想像したくなくても想像できたので、俺は首に絡みついた腕をほどいてそっぽをした。「かわいー」と言っているこいつ、絶対に素人じゃない。何がどう素人じゃないのかは、俺にも謎だが。
 そんなわけで、俺は桃寧の家に行っても、彼女と親密になるより夢月の相手をするほうが多いのだった。「あの子も寂しいから、水雫くんに構ってほしいんだと思うの」と桃寧は言うけれど、きっと両親がいそがしくて寂しいのは桃寧も同じで、俺は桃寧の心を癒やしてやりたいのに。なぜ弟のお守りになってしまっているのだ。

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