夜道にて
五月は穏やかに過ぎていった。気候は真夏日もちらほらしてくるほどの熱気だったけども、風は停滞せずに軽やかに抜ける時期なので、気持ちの良い初夏だった。朝、葉桜の影がざわりと揺らめく大学への道を純奈と歩いていると、ときおり晃浩くんが声をかけてくるようになった。
誓くんはいつも長川さんと登校してたよな、とか私が思う隣で、純奈は晃浩くんならけっこう気兼ねなく話ができている。晃浩くんがよほど気さくなのか、純奈が眼中にない男にはそういうものなのか。晃浩くんがまだ私の気持ちが誓くんにあると思っているのが若干面倒なのだけど、なぜか誓くんは修正してくれなかった。
そして、次第に湿気が空気にまとわりついてきて、六月になり、長引く霖雨より一瞬の豪雨が多い梅雨が来た。
朝と打って変わってひどい雨が降ってきたある夕方、私と純奈はいつものカフェで雨宿りしていた。十九時くらいには上がるらしいので、適度におしゃべりしながら前期の試験勉強に勤しむ。
「晃浩くんって、犬っぽい気がしてきた」とココアフロートの純奈は言い、シャーペンを休めていちごとバナナのスムージーをすすった私は、「犬って」と咲いつつ、晃浩くんのことも話題にするようになったなと純奈の変化を感じる。それでも、私に頼らなくなっただけで、純奈が誓くんに連絡を取ったりしているのは察している。
あの遊園地の日、誓くんをすごく近くに感じたけど、私は特に用事も思いつかず、誓くんのトークルームもここのところ開いていなかった。
天気予報はだいたい当たって、十九時半ごろに小雨になった。私と純奈は勉強道具を片づけると、一緒の電車で地元に帰る。電車はラッシュは過ぎても混みあっていた。私は住宅街の一軒家、純奈は駅前のマンション、共に実家暮らしだ。駅前で手を振りあって別れると、途中のコンビニ以外、光のない夜道を傘をさして歩くことになる。
月もぶあつい雲に隠れて、しとしと響く雨のしけった匂いが立ちこめている。前方に家並みに混ざるコンビニが見えてきて、家まであと半分だと歩調を速めた。たまにコンビニに寄り道するけど、今日はいいやと通り過ぎようとしたとき、「ひとりで大丈夫?」と声がした。
自分にかかったものとは思わなかったけど、ちらと振り返った。すると、今通り過ぎたコンビニの軒先で煙草を吸っていた人影が迫ってきて、ぶしつけに私の傘の中を覗きこむ。
「えっ、」
びくりと脚がこわばり、その人の吐いた煙たい息に咳きこむ。
何。誰。ぜんぜん知らない、二十代半ばくらいの男だ。
「中学生がこんな時間に危ないよ?」
「っ、中学生ではないのでっ」
男はにやっと笑った。しまったと思った。こんなの、何とも答えずに歩き出すべきだ。しかしそうしようと身を返そうとした瞬間、ぐいと手首をつかまれて思わず短い悲鳴が出る。
「え、ひどいなあ。家まで送ってあげようと思ったのに」
「い、いいですっ。もうすぐだし、」
「ちゃんと手つないで一緒に歩いてあげるよ」
「離してくださいっ」
「誰かに襲われたらどうするの?」
何これ。どうしよう。
声。そう、もっと大きな声だ。そこにコンビニがあるのだ、「助けて」と叫べば店員さんには届く。
そう思って口を開こうとしたもの、喉がわなないて声に音がつかない。
「ねえ、よかったら、雨が止むまで俺の部屋に寄ってく?」
にたりとそう言った男の手が、私の手を握ろうとした。反射的に強い力で振りはらっていた。だって──この手は、誓くんがつないでくれた手だから。こんな男の手なんか上書きしたくない。
ほとんど何も考えないまま、バッグからスマホを取り出した。「警察」とうわごとのようにつぶやいて、電話番号入力画面を呼び出す。途端、男は顔を顰めて大きな舌打ちをした。
「何だよ、クソガキがっ。これぐらいで警察とかふざけんな!」
そう吐き捨てて私を突き飛ばすと、男は背中を向けて雨の中を歩いていってしまった。よろけた私は傘を取り落とし、ぽかんと突っ立つ。
いや、このままほうけていたら男がしれっと戻ってくるかもしれない。早く帰らないと、と思っても、急に明るいコンビニの前を離れて暗い道を歩くのが怖くなった。
というか、帰り道の方向にあの男は歩いていったし。あの男が待ち伏せていたら? 不意に後ろから襲ってきたら? どうしよう、とおろおろしても、この迷っている時間だって危ない。
冷たい雫に濡れていくスマホの画面を見つめ、トークアプリを起動すると登録リストの中で誓くんの名前を探した。何で誓くんだったのか分からない。男の子と話しながらなら、夜道を歩けると思ったのかもしれない。
思い切って誓くんに通話をかけて、スマホを耳にあてた。コールがだいぶ続いた。出ないかな、とあきらめかけたとき、『実鞠ちゃん?』とあの声が耳元に響いて、いつしか視界が滲みかけていた私ははっとする。
「あ……、誓、くん」
『どうかした? てか、話すの久しぶりじゃん』
「………」
『……実鞠ちゃん?』
心配そうに窺う声に、いまさら、自分の身が危なかった恐怖感がこみあげてきた。
怖かった。すごく怖かった。何なの。ナンパ? 変質者? よく分からなくても気持ち悪かった。私に声かけるって何なの。中学生と思ったのならロリコンだったの?
そんなことを一気に考えて、息をつまらせて嗚咽をもらしてしまう。
『えっ、何? 実鞠ちゃん? 何かあった──』
「お、男の人が」
『男?』
「突然、話しかけてきて。何か、家まで送るとか、部屋に来るかと言われて」
『え』
「今、帰り道だけど、また暗いとこ歩いてたら、その人いるんじゃないかって考えちゃって、怖くて、私、」
『今どこ? 暗いの? 夜道にいる?』
「夜道……。コンビニは明るい。もうちょっとで家なんだけど、十分くらい、その人が行っちゃった方角に歩かなきゃいけなくて……どうしよう」
『実鞠ちゃん、ひとり暮らしだっけ? 実家だったら、親はそこに迎えに来れない?』
「実家だけど……親は平日仕事で遅い。家にいない、と思う」
『マジか。だったら、駅には引き返せる?』
「え、と……駅なら、たぶん」
『このまま俺と話しながら駅に行こう。俺、そっちに行く』
「えっ」
『ひとりで帰るの怖いだろ。家にも親がいないなら、代わりにしばらくそばにいるし』
「い、いいの?」
『当たり前。実鞠ちゃんに何かあるほうが嫌だ。とりあえず、そこは離れて』
「う、うん」
私は慌てて、転がった傘を拾い、振り返りそうになったのはこらえて、駅のほうに引き返しはじめた。誓くんも移動を始めたような音をさせながら、私に話しかけつづけてくれる。
頬を濡らした雨と涙を手の甲でぬぐい、次第に光と音が増えていく道を歩いた。人が行き交う駅前は、小雨に霞みながらもまばゆいくらいで、どくんどくんと不穏に脈打っていた心臓も多少やわらいだ。
「駅着いた」と言うと、『明るい? 人いる?』と確認されて、「うん」と答える。
『実鞠ちゃんの最寄りって、こないだの遊園地の路線と同じだよな』
「うん。あの駅のみっつ手前」
『了解。俺も駅着いた。電車乗ってるあいだ、待たせるけどいい?』
「大丈夫」
『不安だったら、メッセなら続けられるから。もし怪しい奴いたら、すぐ駅員さんとかに声かけて』
「分かった」
『……ん。俺に電話くれてありがとな。じゃあ』
通話が切れて、私は軒先に入って傘をおろすと、スマホをぎゅっと握りしめた。濡れてしまったけど、防水だから大丈夫だろう。スマホを胸にあてて深呼吸して、誓くんが来てくれる、と何度も唱えて心を落ち着ける。それでも、なかなかかすかな震えは取れなかったけれど。
私があんな、変な男に声をかけられるなんて思わなかった。それは背が低くて童顔で、中学生に見えるのは知っているけど。だからって、かわいいというわけでもないし、服装だって色気ないし。あんな目に遭うと思うこと自体が、のぼせた被害妄想ぐらいに思っていた。
心がざわざわして何度もあたりを見まわしていた。仕事帰りらしいおじさんや女の人、駅前のショップで寄り道する学生、こんな時間から塾に向かうような子供もいる。
待っている人のすがたはなかなか視界に映らない。ほんとに来るよね、なんて不安がよぎりはじめた頃、スマホにメッセ着信があって慌てて画面を起こした。
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