スノードーム-9

舞い落ちたときには

『東口と西口、どっち?』
 誓くんだ。『東口だよ』とぎこちない指先でフリック入力すると送信した。既読がつく。
 それから一分もせずに、「実鞠ちゃんっ」と呼ばれて私は顔をあげた。傘もささない誓くんが駆け寄ってきて、私は急激に押し寄せた安堵にまた泣き出しそうになる。
「誓、く……っ」
「大丈夫? 濡れてるな。ちゃんと傘さしてた?」
「声、かけられたとき傘落としちゃったから。それで濡れて」
「そっか……怖かったよな。待ってるあいだ、何もなかった?」
「うん。それは、平気」
 誓くんは苦しそうな表情を見せ、「平気ではないだろ」と私の頭に手を置いた。またぽんとされるのかと思ったら、誓くんはそのまま私の頭を自分の胸に引き寄せ、肩をぎゅっと抱きしめてきた。
 私は一瞬、何なのか分からなかったけど、誓くんの温かさと匂いに包まれて、ダメなのに、と涙目になっても、その胸板にしがみついてしまった。誓くんは私の頭を優しく撫でて、私を素直にそのまま泣かせてくれた。
 どのくらいそうしていたか分からない。そんなに長いあいだでもなかった気がする。「家まで送らなきゃな」と誓くんが言って、私はこくりとしてそっと軆を離す。雨はいつのまにかやんでいた。
 誓くんは私の手を取って歩き出した。私は誓くんの隣に並んで、何度かその横顔を見上げる。私がそうすると誓くんも私を見て、柔らかく微笑んでくれる。その笑顔を見ていると、さっきの胸騒ぎとは違う、痺れるような甘さで鼓動が高鳴ってきた。
 コンビニの前を通るとき、びくんとした私に誓くんは手をきゅっと握ってくれた。そこからの家までの十分間もすぐに終わって、私の家の前に到着した。
 家の明かりはついていない。おとうさんもおかあさんもまだか、と思ってから、誓くんを見る。
「親、まだみたいだから、お茶だけ飲んでいく?」
 私が尋ねると、「親御さん戻るまで心配だからそうする」と誓くんは言ってくれた。私はバッグから鍵を取り出して、玄関まで階段をのぼるとドアを開ける。無意識の動作でまず明かりをつけ、続いてきた誓くんに家に上がってもらう。
 二階の私の部屋に誓くんを案内して、それから一階のキッチンで温かいお茶を淹れて、部屋に戻った。誓くんはどこにも座らずにたたずんでいて、「座っていいよ」と私は小さく咲ってしまう。
 ベッドにカップを乗せたお盆を置いて、誓くんと向き合ってフローリングに座りこんだ。「はい」とカップを渡すと、「ありがと」と誓くんは受け取ってお茶に口をつける。明るいところで見ると、傘を持っている様子もなかった誓くんも、けっこう髪や服が湿っている。
「濡れてるけど、寒くない?」
「ん、平気だよ。実鞠ちゃんのほうが濡れてるし」
「私は、あとで着替える」
「あ、俺いるから着替えられないのか。ごめん、いったん──」
「ううんっ。今は、何か、誰かいてほしい」
「……そっか」
 私もカップを手に取って、ぬるめに淹れたお茶をこくんと飲んだ。
 何、だろう。何で、沈黙になるのだろう。いつも、誓くんとは適当に会話を保てていたはずだ。いや、それは──純奈からの質問があったおかげか。私自身が誓くんと向かい合うと、何も話題がない。ただ、どきどきと心臓が駆け抜けていて、その意味が分からない。
 睫毛を伏せ、何か言わなきゃと焦りつつ黙りこくっていると、誓くんがつぶやいた。
「わりと女の子の部屋だな」
「えっ」と私は顔を上げ、誓くんが部屋を見渡していることに気づく。
「カーテンとかピンクだし」
「……親が買ったのをそのまま使ってるので」
「そっか。でも、実鞠ちゃんピンク似合いそう」
「ピンクは似合わないよ」
「化粧とかピンク系するといいと思う」
「化粧はよく分かんない」
「え、今ノーメイク?」
「ではないけど、適当にファンデしてるくらい」
「それでそんなにかわいいとか」
 私は首をかたむけ、「かわいくないよ」と言う。誓くんは私をじっと見つめてくると、カップを床に置いて覗きこんでくる。
「俺は実鞠ちゃん、かわいいと思ってるよ」
 すぐそばの誓くんの瞳を瞳に映し、急にどぎまぎしてきて頬を染める。すると誓くんはくすりとして、「やっぱ、頬に色あったらもっとかわいい」なんて言う。
 何。何なの。さっきから何回かわいいって言うの。揶揄ってるのかな、と思い、思い当たったらそうに決まってると思えてきて、私は目をそらして唇を噛んだ。
 すると、誓くんはそっと私の口角に触れて、その感触に私はどきんと肩を揺らして小さく息を吸う。その瞬間、誓くんは身を乗り出して、私の唇に唇を重ねてきた。
 私が大きく目を開くと、誓くんはすぐに唇を離したけど、今度は私の肩に額をあててきた。
 何。え。今の何。キス?
 混乱する頭にかたまってしまっていると、「何か……」と誓くんが絞り出すように言う。
「これ以上、我慢だったら……俺、帰ったほうがいいかも」
「えっ……え?」
「てか、帰ったほうがいいや。実鞠ちゃんが危ない」
「危ない、……って、」
「ここで俺が襲ったら、助けにきた意味ないよな」
 誓くんは私と軆を離し、なぜか哀しそうに咲うと、立ち上がろうとした。私は思わずその腕をつかみ、引き止めてしまう。
 襲う。襲う……って、それは、そういう意味なの?
 さすがに私でも分かった。誓くんと見つめあって、小さく口を喘がせてから、私は誓くんの手をつかむ。
「我慢……しなくて、いいよ」
「え……」
「私、その……誓くんなら」
 誓くんはゆっくりまじろいでから、不意に声を出して笑うと、私の前にひざまずいて抱きしめてきた。
 誓くんの腕に包まれ、私はやっぱりとてもほっとしてしまう。体温。匂い。筋肉。秒針より心音が速い。
 誓くんは大切なものにそうするように私の頭を撫で、「何か逆に煩悩吹っ飛んだ」と耳元で言う。私は目をつぶって、誓くんの背中に腕をまわしてしがみついてみる。
 ああ、もうダメだ。私も我慢できない。認める以外ない。
 私、誓くんが好き──
 ごそっと軆に隙間を作って、感情のまま誓くんに想いを告げようとしたときだった。突然、バッグに入れたままのスマホが鳴った。通話の着信音だ。誓くんもそちらを見て、「出ますか」と軆を離した。
 こんなときに、と思いつつ、私はあやふやに咲ってバッグを引き寄せ、スマホを手に取る。そして、鼓動がぎくりと止まった気がした。
『純奈』──
 嘘。何で。このタイミングって。
 ……いや。そうだ。誓くんに告げる前に、純奈に言わなきゃいけない。
 私は大きく深呼吸すると、応答をタップした。
『あっ、実鞠? あたし──』
「純奈」
 いつになく強い口調でさえぎって親友の名前を呼ぶと、「うん?」と純奈のきょとんとした声が返ってくる。
「私、純奈に言わなきゃいけないことがある」
『何。どうしたの』
「その……まず、ごめん」
『え』
「ほんとに、ごめん──私、誓くんが好きだ」
『は……はっ!?』
「だから、もう親友じゃないって言われたらそれでもいい。私──」
『ま、待って! え、ちょっと待って』
 慌てている様子の純奈の声に、私は言葉を止める。そばでは誓くんが私の発言にぽかんとしている。
『何ていうか──あたしの話も聞いて』
「………、うん」
『帰ってきてから今まで、電話しててさ』
「電話」
『晃浩くん……から、かかってきて』
「ああ。うん」
『告白されてしまいまして』
「えっ」
『すっごい好き好き言われて、そういやあたし、男に好きって言われるの生まれて初めてだわとか思って』
「……うん」
『晃浩くんって、話してても楽じゃん? 楽というか、楽しいじゃん? 頭パンクしてわけ分かんないとかならないし』
「そう、だね」
『つきあうとかなったらこの子のほうが結局ハッピーじゃない? 誓くんといたとき、あたし楽しかったか? あれ? とかなってきて』
「……はい」
『まだ返事はしてないの。自分で考えなきゃって分かってても、やっぱ実鞠に相談したくて。だけど、このまま晃浩くんとつきあって、誓くんはあきらめてもいい感じ……?』
 一気に全身が、緊張から脱力した気がした。はあっと吐息をついて、首を垂らして、「もう友情終わったかと思った……」と私はつぶやく。
『いや、あたしも「軽すぎかよ」と突っ込まれるの怖かったわ』
「……軽すぎかよ」
『うるさいっ。めっちゃ好きだって言われたの。ほんとにあの子、犬かな? わんわんじゃれついてくるみたいにさ、好きだって……あーもう!』
「ふうん……?」
 そのわりに嬉しそうだけどね、と思っていると、『実鞠こそっ』と純奈が急にびしっと言ってくる。
『誓くんは難攻不落なんだからっ。マジ気合い入れなよね』
「……どうかなあ」
『ん? 何か言い方ムカつくな』
「はは。また改めて報告します」
『報告?』
「はいはい。とりあえず晃浩くんに返事しときなさい。私、やることあるから」
『え? 待って、報告ってまさか──』
 私は無情に純奈との通話を切ってから、誓くんを見た。誓くんもはたとした様子で私を見つめ返す。「純奈と晃浩くんが、そういうことらしいです」と言うと、誓くんはぱちぱちとまばたいてから、「じゃあ」と私の瞳を間近で覗きこむ。
「俺、実鞠ちゃんを遠慮なく口説いていい感じ?」
「そういう感じですね」
 私がそう応じると、誓くんは笑顔になって私を抱きしめた。その勢いがよすぎて、私は押し倒されるみたいに硬い床に仰向けになってしまう。誓くんが私を見下ろして、嬉しそうに咲って、私にもう一度優しいキスをする。
 あの日、この男の子の手の中で引っくり返っていたスノードームの、白銀のきらめきがよぎる。ひらひらと。何度もひるがえって。ふわりと落ちて降り積もる。
 ああもう、この人といると、ほんとにどきどきする。私の心も、ふわふわ空を迷った挙句、ついに地面に落ちて答えが出たみたいだ。
 腕を伸ばして、誓くんの首にしがみつく。少し雨に湿った髪と肩。でも温かい。この温もりは、私のものだ。
 誓くんが褒めてくれたピンクのカーテンがちらりと視界に入る。化粧も、勉強してみようかな。この人がかわいいと思ってくれるなら。そんなことを思って、私も咲う。頭の中まで、優しいピンク色に染まっていくような感じ。
 浮かされたような感覚の中、私は初めて、恋がこんなにも幸せなことだと知る。

 FIN

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