長いあいだ-10

息づく光

 スマートな長身。さらさらの髪。穏やかな色合いの瞳。その瞳が、あたしを捕らえて、少しだけ哀しく微笑んだ。
「夏月は……もう、会いたくなかったかもしれないけど」
 ──真辺くん。
 真辺くんだ。幻じゃない。体温が肩に伝わっている。本物の真辺くんが、目の前にいる。
「真辺……くん?」
「うん」
「ほんと……に?」
「うん」
「何で……ここに」
「部屋の前で待つより、早く会いたかったから」
「………、」
「待ってる場合じゃない気もした」
「………っ」
「ごめん。夏月は、僕とあれで別れたつもりかもしれないけど」
 真辺くんはあたしの肩を引き寄せ、背後からぎゅっと抱きしめた。真辺くんのスーツの腕があたしを包む。心が懐かしくざわめく。
 ……ああ、この人、こういう匂いだった。
 そんなことを思い出して、胸が絞られるように詰まって泣きそうになる。
「ねえ、帰国したらすぐ結婚できるように、全部準備してた僕はバカだった?」
「えっ?」
「今の会社に、日本支社ができた」
「支、社……?」
「僕は最初からそのときのためのメンバーだったから、来月、やっとこっちに帰ってくる」
 あたしは目を開いて、真辺くんを振り向く。
「ここのところいそがしかったのは、向こうでやってた仕事を全部引き継ぎしてたから。一緒に暮らせる家も探してたし、プロポーズの言葉も考えてた。この状況だと、ロマンチックな雰囲気とかいまさらだけど。それに、これも──」
 真辺くんは右手をいったん引いてから、手の中に小さな箱を収めてまたあたしを抱きしめた。そして、目の前でその箱を開いてみせる。白くきらめくダイヤモンドの指輪がある。
「……これ、」
「サイズも合ってるよ。長川に聞いたから」
「長川……って、美希音? え、何であの子が、あたしの指輪のサイズなんて」
「長川からメールで連絡があって」
「メール? 真辺くん、美希音の連絡先なんて持ってたの?」
「いや、長川は眠ってる夏月の指で指紋認証して、勝手にスマホ見たって言ってた」
「なっ……」
「それはダメだろって返しておいたけど」
「待って、何それ。いつの話?」
「今年の六月かな。スマホ見たときに、夏月の指のサイズも測ってくれたらしいよ。それで、サイズ教えるだけじゃなくて、お前いい加減にしろって長文でかなり怒られた」
 六月。六月は、確かに美希音に会った。そう、ひとりぼっちの部屋に帰りたくなくて、美希音の家にまで押しかけた。尚里くんとも話した。飲みなおしながら、あたしは一番最初に酔いつぶれて──美希音の手が、あたしの手を取ってくれた感触を思い出す。
「受け取ってくれたら、それでいい」
 指輪を見つめて茫然としていたあたしは、真辺くんの声で我に返る。
「あとは、売っても、捨てても、何でもいいから」
「え……っ?」
「ただ、一度、受け取って。これは君のための指輪だから」
「真辺くん──」
「愛してるよ。不安にさせてごめん。でも、僕が外国でも頑張れたのは、夏月のおかげだよ」
「……あたし、」
「僕は弱いから、一度でも帰国して夏月に会ったら、もう全部向こうの生活を投げ出してしまう気がした。仕事も。両親も。だから、会いにこれなかった」
「あ……、」
「会いたかったよ。夏月にまた会って、今度こそ離さないって言うために、何があっても頑張ることができた。夏月が僕を支えてくれてた」
 視界がぼやけて、ダイヤモンドの光が切なく揺らめく。どうして。あたし、ひどいこと言ったのに。なのに、どうして──
「会いにいくってメッセも嬉しかった。でも、来月には日本の勤務だから、来てもらってもすれちがうだけだったんだ。サプライズとか思って、何もかも黙ってた僕がいけなかったね。ちゃんと報告するべきだった。遠距離は伝えることが大切なのに」
「………、で、も」
「うん?」
「真辺くん……あの子に、逢ってたんでしょ?」
「あの子?」
「牧瀬多香子。あの子、中学時代から真辺くんのこと──」
「……ああ。え、でもふたりきりとかじゃなかったし」
「は?」
「スチュワーデスの子だよね?」
「そう」
「じゃあ、確かに街を案内したけど。あの子、あのとき仕事仲間と一緒だったし、僕も男友達といたし」
「え……けどっ、連絡先も交換したんでしょ?」
「連絡先交換というか、何か教えてって言われてあんまり使わないメアドは教えた。向こうのメアドのメモは、登録せずに捨てた」
「………」
「……あ、ごめん。よく言われるんだ、僕、女の子に対して冷たすぎるって。嫌な感じだから、夏月には知られたくなかったのに」
 ばつが悪そうに視線を下げた真辺くんに、どんどん、力が抜けていく。
 何。もう、何なの。この人、何だっていうの。どうして、こんなにかわいいの?
「……真辺くん」
「うん?」
「指輪……」
「え」
「指輪、はめてほしい」
「えっ」
「美希音はボケてるから、サイズ正しいか確かめないと」
「……確かめてくれるの?」
「合ってなかったら、作り直さなきゃいけないじゃない」
 あたしの言葉に、真辺くんはようやくほっとした笑みをこぼした。腕をほどいて軆を向かい合わせ、指輪を箱から出し、あたしの左手を取って薬指に通す。
 つい笑ってしまった。ちゃんとぴったりだった。美希音にしては、上出来だ。真辺くんはあたしの手を見つめ、ぽつりとつぶやく。
「何か、あったんだろ」
「えっ?」
「朝の電話。降り積もって我慢できなくなったというより、切っかけがあったように感じた」
「………、」
「いきなり『大っ嫌い』はこたえたから」
「……ごめん」
 真辺くんは視線を下げ、「僕は、このあとどうしたらいい?」と静かに問うてくる。
「え」
「ほんとは、もう、消えたほうがいいのかな?」
 そう言いながらも、真辺くんはあたしの手を強く握りしめている。そんなわけないじゃない。そう思って、あたしが手を握り返そうとしたときだった。
「おい、夏月!」というどこか横柄に感じるあの声がかかって、あたしはどきっと振り返る。
「まったく、お前の部下が会社の前でラブシーンを演じてると、別の部署から苦情が来たぞ」
 相変わらずの仏頂面をしている、柏崎さんだった。うそ。やばい。この状況、どう言えば──
 思わずあたしがおろおろしそうになると、「申し訳ありません」と真辺くんがあたしをかばうように前に進み出て、柏崎さんに礼儀正しく頭を下げる。
「僕が強引に、今、彼女にプロポーズしていただけです」
「プロポーズ」
「はい。夏月彩季とおつきあいさせてもらっています。ご迷惑がかかったのなら、苦情を訴えた方にも僕が謝罪に伺います」
 柏崎さんは毅然とした真辺くんを見つめたあと、あたしに視線をよこした。う、と怒られるときより、告られたときより、気まずくなってしまうと、「なるほど」と柏崎さんは腕を組んだ。
「どうやら、今夜の打ち合わせについては、俺が誤解してしまっていたようだ」
 あたしはいたたまれないくらいになっても、真辺くんはその言葉にただきょとんとする。すると柏崎さんはめずらしく笑みを見せ、「何、ただの仕事の話だ」と真辺くんの肩をとんとたたいた。
「君がうわさの夏月の彼氏か」
「え……、えっ、うわさなんですか?」
「新人のときから、夏月は『あたしには彼氏がいます』と公言していたからな。まったく、見合い話も振りづらい」
「……そうなの?」
 真辺くんはあたしを見て、あたしは頬を真っ赤にしながらもうなずく。すると、真辺くんは恥ずかしそうにだけど嬉しそうに咲って、「そっか」と噛みしめるようにつぶやく。
「しかし、君のような青年がやっともらってくれるなら、俺も安心だ。幸せにしてやってくれよ。大事な部下なんだ」
「はいっ。もちろんです。ありがとうございます!」
 元気よく答える真辺くんに、周りは何だか笑いをこらえている。柏崎さんもそうで、「報告は明日提出でいいから、今日は直帰したことにしろ」とあたしに言った。「……はい」とあたしは何とか答え、「彼氏の前ではかわいいもんだ」と柏崎さんは苦笑すると、きびすを返してビルの中に戻っていった。「いいボスだ」と真辺くんが微笑み、あたしはこくんとしてから、改めて真辺くんの手を握る。
「真辺くん」
「ん?」
 あたしは真辺くんを見上げ、「ほんとに、長かったよ」と声をわずかに涙声に揺らした。「……うん」と真辺くんはあたしを柔らかいまなざしで見つめる。
「長すぎだよ」
「ごめん」
「どれだけ待たせるのと思った」
「うん」
「早く──幸せにして」
 ゆっくり、ビルの合間で夕暮れが始まりかけている。並ぶ窓に夕映えが反射している。その茜色は、昨日は毒々しいほどに感じたのに、今日は包みこむように優しい。
「好きだよ。彩季」
 そうささやいたかと思うと、真辺くんはそっとあたしに唇を重ねた。その感触に、温もりに、軆がチョコレートみたいに甘く溶けてしまいそうに感じる。顔を離すと、「キスって初めてだ」と真辺くんは照れたように言って、「あたしもだ」とあたしはくすりとしてしまう。
「向こうで、挨拶のキスもしなかったの?」
「しないから、商談相手が機嫌悪かったこともある」
「何それ。ダメじゃない」
「夏月がよかったから」
「初めての相手?」
「うん」
「……最後も?」
「もちろん」
「真辺くん、意外と子供っぽい?」
「それは、これから思い知ってもらう」
 あたしは咲ってしまい、思い切って真辺くんに抱きつく。あの匂い。しっかりした軆。汗ばむくらいの体温。
 そう、これからあたしは真辺くんを知っていく。これから真辺くんにあたしを知ってもらう。何もかも、これからだ。
 くたくたになるくらい、ここまで長かった。けれど、ついにあたしは、真辺くんと夕陽も朝陽も、月明かりも眺めることができる。幸せに向かって並んで歩いていける。あの桜が咲いている日からの長いあいだが、ようやく報われる。
 真辺くんもあたしの軆をぎゅっと抱きしめた。あたしは真辺くんの首に腕をまわし、こみあげる笑顔を夕射しに照らされる。身長差で掲げるかたちになった腕を見上げた。
 するとその腕の先、左手の薬指で、永遠を誓う指輪が夕焼けを受け、息づいているようにきらりと輝いた。

 FIN

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