霞みそうな約束
「あんまり、話したことないのに。急にごめん」
そう言った真辺くんの声は物柔らかで、どきどきしながら首を横に振る。
「でも、その──一年生のとき、同じクラスだったよな」
「……うん。憶えてる」
「ほんと?」
「うん」
「そっか。忘れられてるかと思った」
「え、何で」
「いや、何となく。僕、特に印象に残る奴じゃなかったし」
「そ、そんな……ことは」
だって、一年生の一学期が終わる頃にはずいぶん好きになっていて、生まれて初めて夏休みをつらいと感じた。二学期、またそのすがたを見つめることができて幸せだった。二年生のクラス替えで同じクラスに名前が見つからなかったときには、ろくに行動できずに終わっちゃったと泣きたくなった。
「入学式のときから」
切り出した真辺くんに、あたしははたとして顔をあげる。
「夏月のこと、綺麗な女の子だなあって思ってて」
「え……っ」
「正直、それしか分からない……のに、ちゃんと話したこととかもないのに、軽いって思われるかもしれないけど」
「………」
「ずっと、夏月が好きだった」
あたしは真辺くんを見つめた。グラウンドにいる人たちも減ってきたから、桜がざわめく音だけが響く。三月のなごやかな陽射しが足元に影を作っている。
「え……え、と」
「でも、知ってるかもしれないけど」
熱をはらむ頬にうつむきかけていたあたしは、真辺くんを見直す。
「僕、来週には日本を離れるから」
「あ……、うん。知ってる」
「そんな男、彼氏にしても寂しいだけだし──というか、彼氏になれるなんて、そもそも思ってないけど」
「………っ」
「ごめん、答えなくていいんだ。伝えたかっただけ」
「……あたし、」
「夏月のおかげで、僕の中学時代は幸せだったよ」
真辺くんは微笑んであたしを優しく見つめると、「桜」とつぶやいてあたしの髪に触れた。真辺くんのなめらかな指があたしの髪について桜の花びらをすくい、空中にひらりと逃がす。
だめ。やだ。このまま真辺くんを逃すなんて嫌だ。
「あ……あたしっ」
真辺くんはそらしかけた視線をあたしに戻す。
「その、そんなに……性格いいか分からないし、中身知られても大丈夫とか言えないんだけど」
「夏月──」
「でも、それはお互い様だよね。あたしも、真辺くんのこと、かっこいいこと以外は何にも知らないけど、ずっと好きだったし」
「えっ」
「ずっと、好きだったよ。一年生のときから、あたしも真辺くんのこと好きだった」
真辺くんが大きく目を開いて、それからまばたきをする。あたしは軆がじわじわほてってくるのを感じながらも、そんな真辺くんの瞳を見つめる。
しばらく、あたしたちは桜の下で見つめあって、それから真辺くんはそっとあたしの手を取って握った。
「帰って、くるから」
「……え」
「いつか、ちゃんと日本には帰ってくる」
「う……うん」
「だから、待っててくれたら……いや、待っててほしい」
あたしは真辺くんの手を握り返して、「うん」と答えた。すると真辺くんは嬉しそうに咲って、つながった手を引き寄せるとあたしを抱き寄せた。
あたしもその学ランの軆にしがみついた。真辺くんの匂いがして、鼓動が駆け足になる中で、あたしはこの人を離したくない、強くそう思った。
真辺くんは、高校を卒業したら単身でも帰国したかったみたいだけど、ご両親が許してくれず、大学も海外のところに進んだ。だから、大学を卒業したら日本に帰る──それはご両親も許してくれているそうで、あたしにそう約束していた。
美希音や誓くんと同じ大学で四回生になったときには、あと一年で真辺くん帰ってくる、とあたしはひとりになるとそわそわ真辺くんとしたいことを妄想した。デート。キス。その先も。人前ではクールに振る舞っておいても、けっこうテンションが上がっていた。
なので、その連絡を受けたときは、雷で一瞬で停電になったように目の前が暗くなった。
『こっちでの友達が、どうしても起業メンバーに僕を加えたいって言ってくれてて』
つまり、大学を卒業しても真辺くんは帰国しないことになってしまった。しかも、会社を起こすだけあって死ぬほどいそがしくなるらしく、連絡を取れる機会も減るかもしれないということだ。極めつけに、いつその会社が安定するか分からないので、帰国する予定も明確に立たなくなった。
ねえ、真辺くん。あたしはいつまで待てばいいの? 本当に帰ってくるの? あたしのこと、迎えにきてくれる日ってちゃんと来るんだよね?
そんなもやもやが胸に立ちこめはじめる中で、あたしは大学を卒業して社会人になった。就職したのは化粧品メーカーで、配属先は営業、最初はどうやって商品を売りこむのか分からなくて大変だった。実演販売をすることもあったから、自分の部屋で実際使ってみて良いところを書き出して、その感想を役立てながら何とか成績を伸ばした。
三年目くらいになると、成果の手ごたえがある仕事がやっと楽しくなってきた。本当はどこかでは、どうしても心に穴が空いている。けれど、それを振りはらうように仕事に打ちこんだ。
しかし、二十五歳を過ぎると、「結婚」という言葉がその心の空洞の内側を引っかくようになった。「結婚したい」とか「結婚決まった」とか「結婚しないの?」とか──いろんな角度から、みんなが結婚を話題として持ち出す。
特に同僚たちの結婚への意識は高く、「彼氏が欲しい」とはもう誰も言わないのだ。「結婚」がしたい。つまり、安定したい、子供は早く作りたい、不安な老後は嫌だ──誰かと結ばれたいというよりも、そんな本音が透けて見えるようだった。
この歳になって、結婚に夢を見たままなんて、そちらのほうがお花畑なのは分かっている。分かっているから、お前だってただ待つ女なんてやめるべきだ、と言われているようで、みんなが口にする「結婚」という言葉が正直かなりきつかった。
もちろん、中学時代からおとなしく彼氏を待っているなんて、何でも周りに言っているわけではない。ただ学生時代からの彼氏がいて、その人は海外にいることくらいは話しておかないと、紹介とかお見合いとか、社内での人間関係が面倒になるかなと、新人時代に余計な心配をしてしまった。
そのせいでランチのときなどに結婚について話題になると、「夏月さんは彼氏いるからいいよねえ」とちくりと言われるときがある。「彼が帰国したらすぐ結婚でしょ?」とか「学生時代からの彼氏とか恋愛映画だわ」とか、そういうことを言われても、あたしに安心感はないし、ましてや優越感なんてぜんぜんない。この中で一番最後まで結婚できないのは、逆にあたしなんじゃないかとすら思う。
結婚したい。無神経なほど、そう叫べる人がうらやましい。あたしは絶対に言えない。結婚したい人がもう確実に決まっているからこそ、それだけは言えない。あたしも早く結婚したい、そんなことを言ったら、仕事に一生懸命な真辺くんにはきっと重荷になる。
結婚したいという話題で群れる人たちって、寂しい、構われたい、仲間が欲しいという人が多い。たぶん、そういう人って女同士で集まっているうちが華だ。
実際に結婚をつかんだら、いろんな現実に愕然とするのだろう。旦那の給料だけで家庭がまわらない、子供が言うことを聞かない、挙句、老いた頃にはとっくに離婚している。
そんな輪に混じらず毅然としている人ほど、さらりと結婚していく。だからあたしも正直、その群れに混じりたくないのだけど、「彼氏がいる」情報で妙にやっかまれて鴨になっている。彼氏がいるなんて、何だか結局、伏せておけばよかったのだ。のちのち、こんなわずらわしい人たちに絡まれるようになるなんて。
「行き遅れだよね」とくすくす陰で言われていた女上司が、取引先の若い社長の息子に実は熱心に口説かれていて、ついに結婚退職していったのを見送ったりしつつ、あたしは黙秘権を行使しなかった若い自分を悔いていた。
真辺くんと結婚する。そんな夢は、待ち続けてすりきれてしまった。中学の卒業式以降、会うこともない。連絡も減り続けている。かといって、あたしは真辺くんをあきらめたり忘れたり、ましてほかの男に乗り換えるなんてできない。このまま真辺くんが帰国しなかったら、バカみたいに未婚処女のまま死ぬ。
そんな自分を分かっているから、よほど結婚の可能性がある同僚たちの未来が、まぶしくて妬ましくて、話もしたくないほど嫌悪してしまうときがあった。
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