長いあいだ-6

濁っていく気持ち

 暖簾をくぐって手動の引き戸をすべらせると、「いらっしゃいませ」と着物をまとった若い女の子が、ひざまずいて出迎えてくれた。本格的なとこじゃん、と思いつつ名前と同窓会の参加者であることを伝えると、髪も綺麗に結った彼女はにっこりとして、「ご案内致します」と立ち上がった。あたしは靴箱にサンダルをしまうと、楚々と歩く女の子のあとをついていく。
 一階は掘りごたつの席がにぎわいはじめていた。あたしが案内されたのは二階で、廊下の左右にふすまが並んでいて、その中のひとつを女の子はひざまずき「失礼致します」と断ってから開く。
「夏月様がいらっしゃいました」
 女の子がそう声をかけると、「わあっ、夏月さん来たんだ!」と中から声がした。美希音とつるむばかりだったあたしでも、いわゆる招かざる客ではなかったようだ。
 とはいえ、顔を出すと、「あれ、長川さんも一緒かと思ったー」という声がやはり上がる。「あの子は家族揃って両親の実家に帰ってるから」とあたしは受け流し、たたみにずらりと御膳が整列し、あちこちで談笑が咲きはじめている室内を見まわす。
 ……真辺くん。
 やっぱり、そうだよね。
 来てるわけがない。
 当たり前なのにがっかりしてしまうと、「こっち座れよー」と声をかけてきた男がいたので、突っ立っているよりはそうさせてもらった。特に思いつく面影は見つからないその人が、「夏川、綺麗になったじゃん」とか言うのを聞きながら、真辺くんは変わったのかなあとか思う。
 十一年。あたしは相変わらず真辺くんを想っているけれど、真辺くんはあたしのこと──
 十八時を過ぎた頃から、一気に顔を出す同窓生が増えてきた。ふすまをはずして三部屋はぶち抜いた室内が、ざわざわとさざめきはじめる。担任だった先生たちも現れて、例の亡くなった先生を少し偲んでから、乾杯が行なわれた。
 初めは並べられた御膳の前に座って隣り合った人としゃべっていたけれど、次第に移動も始まる。「久しぶりー!」とか女同士ははしゃいで、「俺結婚してさー」とか男は奥さんや彼女のことを語り出す。
 あたしはそういう光景を眺めながら、やっぱ美希音がいないのは痛かったなと正直思った。真辺くんもいなかったし、かといって早々に中座するのも感じが悪いし。
 二次会は行かないな、とまわってきたドリンクメニューに目を通していると、「えーっ、あんたまだ真辺くん追っかけてんの!?」というひときわ大きな声がして、どきんと顔をあげた。
 あたしに向けて、誰かがそう言ったわけでなかった。少し離れたところで、ひとりの女が女たちに囲まれながらそう言われていた。何かあの女見憶えあるな、と思っても思い出せずにいると、別方向から「牧瀬マジかよ」「真辺来てないなー」という男共の話が聞こえてはっとした。
 そうだ。牧瀬。牧瀬多香子。中学時代からちょっと気に障っていた、真辺くんに馴れ馴れしかったあの女だ。
「追いかけてるっていうか、こないだ、ほんと偶然逢っちゃったのっ」
 ストレートのロングヘアを流す牧瀬多香子は、わざとらしく恥じらいながらそう言った。
 え? あいつ今何て?
 耳を疑って、あたしはそちらを二度見しそうになった。
 逢った? 真辺くんに?
「真辺くんって卒業と一緒に外国行ったよね?」
「帰国してたんだ」
「ん、でも来てないよ」
「違う違う。私が向こうに行くことあってさ」
「あー、多香子スッチーだもんねえ」
「そう! 時差ボケ覚ましに街を散歩してたらねー、逢っちゃったの」
「えー、すごい!」
「でしょ? まさか、現在の真辺くんにあんなふうに巡り会うなんてなあ。運命かなあ?」
「そりゃもう運命でしょ」
「真辺くん、どうしてた?」
「めっちゃかっこよくなってた! ますます王子様になってたわ。もちろん元気そうだったし」
 ぽんぽんとはずむ会話を聞きながら、あたしは心臓の脈から黒霧が噴き出してくるのを感じた。
 何。何それ。あの女、何言ってるの。
「街とか案内してもらえて幸せだったー」
「えー、十年越しについにデートじゃんっ」
「『まだ好きです』とか言っちゃったりした?」
「言いそうになったーっ。でも、まあ再会してすぐ昔みたいにやっても何だしね。ここは成長を見せて、じわじわと」
「連絡先は交換したよね?」
「もちろん! はあっ、今彼氏がいなくてほんとよかったーっ。結婚しなきゃって焦ってたけど、してなくてよかったーっ」
「旦那いたら、全部水の泡だもんねえ」
「ほんとそれ。運命ってちゃんとまわってるんだねー」
 やばい。目の前がくらくらして、砂嵐へと遠ざかっていく気がする。
 あたしの話、というか、彼女の存在は、聞かされなかったのだろうか。聞かされてたら、牧瀬多香子もあんなバカみたいに浮かれてないよな。
 真辺くん、自分は夏月彩季とつきあってるって、言ってくれなかったの? それどころか、つきあっている人がいるとさえ言わず、あの女と連絡先も交換したの?
「ねー、注文しないならもらっていい?」
 不意に背後からそう声をかけられ、手の中にドリンクメニューを持ったままであることに気づいた。慌てて「あ、ごめん」とその誰だか分からない金髪ショートの子にメニューを渡す。彼女はお礼もなく、「メニュー取ってきたー」とか言いながら自分の仲間のところに戻っていった。
 あたしは顔を伏せ、まだ牧瀬多香子がのろけるように真辺くんのことを話しているのを嫌でも聞いてしまった。頭の中が混乱でぐるぐるに酸欠し、喉が狭まったみたいに呼吸も苦しくなる。
 嫌だ。聞きたくない。あたしの知らない今の真辺くんをあの女は知っていて、我が物顔で語っているなんて。
 何で。こんなのおかしい。待っててほしいって言われたのはあたしなのに、何であんな女が真辺くんとデートをしたっていうの?
 それとも──あたしがバカ、なのかな。そういえば、こちらから会いにいくっていうのは、考えたことすらなかった。待っててって言われたから、それだけがつながっている方法だと思っていた。
 もしかして、あたしから会いにいったりしてもよかったのかな。だったら、あたしから会いにいったのに。真辺くんに帰国する余裕がないなら、あたしが海を渡ったよ。それで会えるなら、いくらでも行ってたよ。
 でも、十年以上、あたしは待っていただけだった。それは、もう、彼女とは言えないのかな?
 真辺くんは、向こうで彼女とか作っているのだろうか。あるいは、牧瀬多香子を本当に意識したから連絡先を渡したの? というか、牧瀬多香子とは何もなかった? ううん、ほかの女とでもいい、男に十年以上何もないなんてありえる?
 あたしは自分がそうだから間抜けに信じていたけど、たぶん、男ってそんなに我慢強くないんじゃない? ということは、あたしはとっくに、真辺くんに裏切られていたりするのだろうか。
 真辺くんを疑いたくないけど。悪い人と思いたくないけど。軽い男みたいに見たくないけど。
 だって、十年だよ……?
 牧瀬多香子なんて、当時から相手にされていなかった。あの頃の真辺くんを信じればいいだけなのに、どうしてこんなにむずかしいの。きっと真辺くんは変わっちゃって、牧瀬多香子にもくらっとしちゃって、あたしのことなんか忘れちゃって。そんな被害妄想ばかりふくらむ。病んでいくみたいに思考が暗く捻じれる。
 嫌な女。重い女。ひどい女。いくら自分を罵って自制しようとしても、膿んだ不安はとめどなく毛細血管にまで染み渡る。
 牧瀬多香子たちは、甲高く笑っていた。それ以降のあたしの記憶は薄く、とりあえず二次会には参加せず早めに帰宅した。

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