あふれる涙
こそこそと帰ろうにも、報告書を提出する相手が課長の柏崎さんになるのだからどうしようもない。自分のPCに送信されてきたあたしの報告書に目を通し、「よし」と言った柏崎さんは「終電には帰すから心配するな」と立ち上がった。
待って、むしろ終電まで説教とか死ぬわ。そう思ったけど口にはできず、それどころか笑顔なんて作らなくてはならないのだから、部下は哀しい。
十八時をまわったところだった。まだ同僚がちらほら残るオフィスを出て、エレベーターで地上に降りる。
柏崎さんのスーツの背中についていきながら、親の急病でも美希音のおめでたでも何でもいいから、あたしを呼び出して助けてくれと思った。しかし、こんなときにかぎってスマホには何の着信もない。何か大変な連絡が来たふりができる、どうでもいいメルマガ通知も来ない。
一階のホールを抜けてビルを出ると、残暑の熱気がねっとりと肌に絡みついてきた。建ち並ぶビルの窓に、夕陽が赤くぎらぎらと映っている。話し声とかより、仕事を終えた人々の速めの足音が淡々と行き交っていた。
どこに連れていかれるのだろう。スナックでホステスの前で公開処刑か。死ぬ。メンタルが死ぬ。とはいえ、正直それも覚悟していた。きらびやかな夜の女が、同伴とかいう奴なのか、スーツのおじさんと歩いている街並みに入ったから、いよいよだと思った。
ところが、柏崎さんがあたしを連れていったのは、そういう店の中に混ざったわりと普通の──というか、見渡せる夜景とモノトーンが基調になった、かなり綺麗でおしゃれなダイニングバーだった。テーブル席でなくカウンター席に着いて、「おごるから好きなもの食っていいぞ」とメニューを渡される。
さすがに気味の悪いものを見る目を向けてしまうと、「何だ」と柏崎さんは眉間に皺を寄せる。
「好きなものがないのか」
「え、……いや、この牛ヒレ肉とか気になりますけど」
「牛ヒレ肉だな。──マスター、牛ヒレ鉄板焼き」
「はっ? いや、これ高いですよ。冗談ですよ」
「気にするな。確かにうまいから食っておけ」
マスターと呼ばれたカウンター内の優しそうなおじさんは、何やらくすっと咲ってから「かしこまりました」とうなずいた。それからすぐに、スタッフらしき男の子がぶあついお肉と共に現れて、カウンター越しに目の前で調理を始める。
すごくおいしそうだけど、これはどういうことなのか。まだ動揺を隠しきれずにいると、柏崎さんは柏崎さんで、カルビのタレ焼きとか生ビールとかをマスターに注文している。
何だこれ。もしやこの人、単純においしいもので辛気臭いあたしをなぐさめてくれようとしているのか。そんなキャラじゃないだろ、と狼狽しているあいだにも、男の子は鉄板の上で鮮やかな手さばきでお肉を味つけし、じゅうっと良い音と匂いがただよってくる。
「夏月は」
まずは生ビールがやってきて、それをひと口飲んだ柏崎さんが切り出す。
「は、はい?」
「つきあってる相手がいると聞いたが」
「え? ああ──ど、どうなんですかね」
「ただのうわさか」
「いえ、ええと……」
何? 説教じゃなく、恋愛相談にでも乗ろうというのか。そこまで上司が気にしなくても──いや、それを理由にひとりの部下が職場の士気を落としているのなら、由々しきことなのか。
あたしは柏崎さんをちらりとして、無愛想だけど意志の強そうな黒い瞳を見たあと、言いふらす人ではないかと思って口を開く。
「分からない、です」
「分からない」
「今、分からなくなってるんです。彼と、つきあってると言えるのかどうか」
「喧嘩でもしてるのか」
「喧嘩ならまだいいんですけど……」
「倦怠期か」
「そういうのでは……」
「じゃあ何だ」
眉間を寄せる柏崎さんに、逆切れされましても、とあたしはいつのまにか来ていたお冷やに気づく。氷がからんと涼しいそれを飲み、しょうがないなあと正直に吐く。
「長いこと、遠距離なので。そういうの、いろいろ、分からなくなるじゃないですか」
「なるほど。遠距離か」
「ずっと会ってなくて、彼には向こうに女がいるのかなとか考えはじめちゃうし」
「心当たりはあるのか?」
「なくはないです」
「そうか」
「少なくとも、その女とは会ってたみたいだし」
「お前にはまったく会わずにか」
「はい」
「それは──だいぶ黒だな」
あたしはがばっと柏崎さんを見て、「そう思いますよね?」と賛同がちょっと嬉しくなる。
「あたしの被害妄想じゃないですよね?」
「その女について、彼氏には尋ねたのか」
「訊けるわけないじゃないですか。彼も話題には出しません。一応、共通の知り合いではあるのに。……知り合い? あの女は、あたしのこと知らないのかな」
「要は、最近悩んでるのもそのことか?」
「まあ、そうですね……って、あたしそんなだだ漏れで悩んでますか?」
「いや、俺がよくお前を見てるからだろう」
「……はあ」
ここでできる上司アピールとかほんと分かんない、とあたしはまた萎えてお冷やのグラスを置いた。ドリンクを注文していいかをいったん訊くと、「好きなもの飲め」と柏崎さんはメニューを裏返して渡してくれる。
あたしはざっと目を通したあと、ゆずのチューハイを頼んだ。マスターは、やはりにっこりとして承ってくれる。
「夏月」
「はい?」
「単刀直入に言うが」
「……はい」
男関連であのざまだったと白状したのだ。ああこれは説教始まる、と腹をくくったときだった。
「その男とは別れて、俺とつきあってくれないか」
……──は?
ビビって首をすくめかけていたあたしは、ぽかんと柏崎さんのほうに頭を捻じった。柏崎さんは生ビールをすすりながら、あたしに横目を返してくる。
その男とは別れて。
それは手っ取り早い解決案として、言われて仕方ないとしても。
俺と、つきあってくれないか──……?
「……えっ」
だいぶ遅い反応であたしがそう声をこぼすと、柏崎さんはジョッキを置いて軆もあたしに向ける。
「もちろん、妻がいたときにはお前はただの部下だったが」
「……は、あ」
「俺が離婚したのは知ってるな」
「あ、まあ」
「あれは、女房に俺のこういう性格にもうつきあいたくないと言われてな。初めは俺は離婚に反対してたんだが、……小学生の娘にも『おとうさんみたいな人は嫌い』『もう一緒に暮らしたくない』と言われた」
どんな顔をすればいいのか分からなくて、微妙に頬が引き攣ってしまう。とりあえず、父親としてはけっこうトラウマだろうなと思う。
「だから、俺としては娘のために離婚したつもりだ。女房のことは、愛していたし──ずっと、勝手に俺だけ愛してるんだろうと思っていた。だが、妙に浮かない顔ばかりしているお前に注意ばかりしているうちに、目が離せなくなった」
待て。待て待て待て。何で? どうしてあたし、どぎまぎと視線をうつむけたりしているの?
「お待たせいたしました」と不意にお皿を前に置かれてはっとする。ふっくらと焼かれた、香ばしい牛ヒレ肉が生野菜を盛りつけされて湯気を立てる。めちゃくちゃおいしそうだけど、何だか軆が硬くなってしまって、手をつけられない。
「柔らかいうちに食え」と柏崎さんが言った。あたしはぎこちなくうなずくと、お皿のかたわらに置かれたナイフとフォークを手に取る。
「食いながら聞いてくれていいが」
あたしは柏崎さんを一瞥し、右手のナイフを動かしておとなしくそうさせてもらう。
「俺は、その男よりお前を幸せにできるかは分からない。だが、そばにいることはできる」
まばたきまで何だかこわばってきて、あたしはお肉を抑えるフォークをきゅっと握りしめる。
「寂しい想いはさせないし、こそこそほかの女と会うこともない」
お肉をひと切れ口に運ぼうとして、噛みしめた唇に気づく。
「お前をあんな顔のまま放っておいたりもしない。こうして、うまいものでも食わせて何とかしようとはする」
……ああ。
「もうお前の泣きそうなため息を見たくないんだ」
この人、あたしのこと好きなんだなあ。
「だから」
真辺くんは?
「夏月」
あたしのこと、
「俺とのことを」
こんなに好きでいてくれてるの?
「考えてみてくれないか」
──あたしは、何とも答えなかった。ただ、いつのまにか、涙がぽたぽたと頬を流れていた。
柏崎さんも、それに気づくとそれ以上は何も言わず、ただあたしの頭をぽんぽんとして、自分の前に運ばれてきた料理を食べはじめた。あたしは泣きながら、ほろりと蕩けるようなお肉を味わいもせずに食べた。ふわりと香るゆずのチューハイは、ほんのり甘かった気がする。
ああ、もう。ひとりで泣いて。今度は別の男の前で泣いて。あたしもじゅうぶん、真辺くんを裏切っている。
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