クリスマスの夜
学校が冬休みに入ったクリスマスイヴ、私の働くチェーンのレストランはにぎやかな学生たちでテーブルが埋まる。
にぎやか、と言えばかわいいけれど、甲高い笑い声や悲鳴じみた騒ぎ方はちょっと狂気じみて見える。立て続けに鳴るベルに、めまぐるしく店内を歩きまわり、定時の二十時をまわってようやく上がることができた。
静かなバックに入ると、これから年末で毎日すごいぞ、とため息をついてしまう。でもこれで明日の昼まではゆっくりできる、と椅子に腰かけていると、「お疲れ様でーす」と背後に声がして、私は振り返った。
「紅磨くん、お疲れ様」
「あ、悠海さん上がってたんだ。お疲れっす」
「ほんと疲れた……。最近の学生は、おうちパーティしないね」
「親の目があるより、こういうとこのが羽伸ばせるしなあ」
「ここで羽伸ばされてもね、店員が大変っていうか」
「はは。ま、お仕事お仕事」
そう言って、紅磨くんは私の背中を抱いてくれる。「人来ない?」と用心すると、「抜けてくるヒマがないっしょ」と紅磨くんは私の髪に頬を当てる。
「今夜は、悠海さんの部屋泊まっていい?」
「うん。ケーキとチキンは昨日確保しておいた」
「今年もふたりでクリスマスだ」
「そうだね。三度目かあ」
「幸せすぎて時間が早い」
私は咲って、「早く帰ろ」と紅磨くんの腕をとんとんとたたいた。「ん」と紅磨くんは私を抱く腕をほどき、私は椅子を立つと「先に着替えるね」とロッカーの前のパーテーションの中に入る。
ロッカーを開けて私服を取り出しながら、もう紅磨くんとつきあって二年半近いんだな、と思った。本当に、幸せすぎてあっという間だった。
私は現在二十七歳で、紅磨くんはやっと二十歳になった。まさか自分が年下に落ちてこんなに続くとは、と苦笑してしまう。
紅磨くんと出逢ったのは三年半ほど前の夏で、そのとき彼はまだ高校二年生だった。夏休みが終わっても、三年生になってもこのレストランでのバイトを続けてくれて、かわいい弟みたいに思っていたら、突然私のことが好きだと告白してきた。
恋愛音痴に近かった私は混乱したけど、デートしたりするうちに紅磨くんの包みこむような温かい愛情に惹かれて、二十五歳の夏、高校三年生だった紅磨くんとつきあいはじめた。大人の関係は紅磨くんが高校を卒業する春を待って、それからも緩やかにおつきあいは続いて、今夜は一緒に過ごす三度目のクリスマスだ。
紅磨くんは現在大学二回生で、心理学を専攻している。私も大学はそういう方面だったから、試験が近づくと部屋では勉強会になる。「もともとは、こっち系進みたかったの悠海さんのためだったんだよなあ」と紅磨くんは言う。
「悠海さんの話を聞いて、ちゃんと励ませる奴になりたかった」
私は紅磨くんを見て、「励ましてくれてるよ」と微笑む。
恋なんて、怖かったのに。もう痛くはなりたくなかったのに。紅磨くんは私を変えて、心を開かせてくれた。紅磨くんとなら恋をしたいと思えた。
七つも年下なんてなんていいのかな、と躊躇っていたものの、どんどん引っ張っていく紅磨くんを気づけば追いかけていた。
私が着替え終わって、紅磨くんが私服に着替えているときに夜番の子が休憩に入ってきた。「客発狂してるわー」とフリーターの男の子が背伸びして、「クリスマスにバイトでフル稼働とか……」と大学生の女の子はテーブルに伏せる。
「私は毎年これで慣れたなあ」と私が言うと、「悠海さんって何年目でしたっけ」と女の子が訊いてくる。
「今度の春で五年目」
「続きますねえ」
「クリスマスつぶして、彼氏怒らないんですか?」
男の子に何気なく訊かれて、「えっ」と口ごもる。店では、紅磨くんとの関係は伏せている。
「あ、いないですか?」
「えっ──っと、どうだろうねー」
「いるわ、これ」
「いいなあっ。もしかしてこれから彼氏と──」
「悠海さーん。帰ろー」
着替え終わった紅磨くんが、荷物を肩にかけてパーテーションの向こうから現れる。それを見たふたりは、「紅磨さん、悠海さんの彼氏への配慮はないんですか」とか言って、「俺は彼氏公認だからー」と紅磨くんは軽く受け流す。
「じゃ、ふたりは閉店まで頑張れ」
「紅磨は、高校卒業したら夜番の戦力になると思ってたのになー」
「中番の補強も必要とは話してましたけどねえ」
「そうそう。それまで中番って基本悠海さんひとりだったじゃん。寂しかったよね?」
「……寂しいというか」
私が言いかけたとき、ばたんと音がして、みんなしてドアを振り向いた。
そこには店長の水津さんがいた。みんな何となくおしゃべりを止めて、「帰るね」と私は鍵をふたりに渡し、それを受け取ると「厨房にまかないもらってきまーす」とふたりは廊下に出ていく。
水津さんは眼鏡の奥から睨むように私を見て、「退勤後にあんまり居残らないでください」と冷たく言うと、後ろでひとつに縛ったセミロングの背中を向けてデスクに向かった。紅磨くんが何か言おうとしたのを止めると、「お疲れ様でした」と私は紅磨くんの腕を引っ張って、裏口から空気が冷え切った外に出た。
「水津さん──」
クリスマスイルミネーションが灯る車道沿いの道に出ると、私たちは手をつないで、体温を奪う寒風に身を寄せ合う。ふと紅磨くんがそうつぶやき、「うん?」と私は顔を上げる。
「何で、水津さんなのかなあ」
「……異動?」
「真垣さんのままがよかった」
「本社が決めるんだもん」
「真垣さんのときは簡単に辞める人とか少なかったけど、今、増えたよなあ」
「真垣さんは優秀すぎたんだよ。だから引き抜かれたんだし」
「だからって、来るのがあんな神経質女ってどうなんだよ。何か悠海さんによく文句つけてるし」
「……やっぱりそう思う?」
「思う。さっきのだって、俺も残ってんじゃん。俺にも言えよ」
「敵意は感じる」
「あんなの、気にしなくていいよ。みんな、水津さんより悠海さんのほう慕ってるから」
「ん。ありがと」
真垣さん、というのは水津さんが来る前のあの店舗の店長だった社員さんだ。おっとりと穏やかな男の人で、バイトからの人望も厚かった。私と紅磨くんのこともゆいいつ店内で知っていて、応援してくれていた。
真垣さんが異動すると聞いたときは、私に限らず、みんなショックを受けていた。仕事続けられるかなと私は思ったものの、紅磨くんがいるから折れなかった。だけども、代わりにやってきた水津さんというあの女の人は、神経質というか冷淡というか──
厳しいのは悪いことではないのだけど、真垣さんの柔軟な対応に慣れていた従業員は、水津さんが来て何人か辞めてしまったほどだ。このままスタッフの水準が下がっていけば、売り上げだって怪しくなるのに、水津さんはバイトを見下すような態度を改めない。
私のことはバイトのくせに年上だから鬱陶しいんだろうなあ、と思う。
「紅磨くん」
「んー?」
車道沿いの道から脇道に入り、公園の横を通り過ぎた先に、私がひとり暮らしをするアパートがある。ここからアパートまでは暗い夜道なので、つきあう前から紅磨くんが付き添って部屋に送ってくれていた。
「さっきの子たちが言ってたけど、紅磨くん、ほんとに夜番で働かなくていいの?」
「夜番で働いたら悠海さん送れないし」
「時給は夜番がいいよ? それに、夜番なら大学終わってからシフト入れるし」
「俺は悠海さんのためにあそこで働いてんだから、これでいいの」
「……何かごめんね」
紅磨くんは立ち止まって、私を覗きこんできた。人懐っこい瞳が真剣に私を映して、「俺が悠海さんのためになりたいんだから」と優しく腕の中に抱き寄せてくれる。
「それを謝られたら、哀しい」
「う……すみません」
「悠海さんと過ごしたいし、一緒に帰りたい。大学ある日は昼間会えないし、まだ足りないくらいなんだ。ほんとは毎日朝から夜まで一緒にいたい」
「紅磨くん……」
「親が大学出るまで実家って言うからそうしてるけど、ほんとは早く一緒に暮らしたいんだよ。だから、すぐ家出れるように金は貯めておくけど。大丈夫だよ、高二から貯めてるからそれもけっこういい額だよ?」
「……ん。そうだね、いつか一緒に暮らしたいね」
「うん。暮らすだけじゃなくて、ちゃんと責任まで取るし。悠海さんと結婚するのは俺だって、決めてるから」
私は瞳が潤み、紅磨くんの胸に顔を埋めた。紅磨くんの匂いがする。私は紅磨くんのパーカーを握って、「プロポーズでいいのかな」と確認した。すると、「あっ」と紅磨くんは声を出す。
「やば、ぜんぜん雰囲気なかった。ごめん、もっとかっこよく宣言したかったのに」
「かっこよくなくていいよ」
「でも」
「嬉しい。私も紅磨くんとなら幸せになれると思う」
「ほんと?」
「うん」
紅磨くんはくっついていた軆に隙間を作って、無邪気に笑顔を作ると私にキスをした。私も咲ってしまって、「ここ寒いね」とつぶやく。「風邪ひくね」と紅磨くんも手をつなぎなおして、私たちは並んでアパートに急いだ。
私は週五フル出勤だし、紅磨くんも大学は冬休みだ。だから、年末はほとんどバイトで、混みあう店内で日々くたくたになった。私はシフトに入って紅磨くんはオフのときも、紅磨くんは夜道を送るためにお店に来てくれる。だから、紅磨くんはそのまま、ほぼ毎日私の部屋に泊まっていった。
紅磨くんのご両親に会ったことはまだないけれど、話は伝わっているらしい。シングルベッドに並んで横たわり、一緒のふとんの中で「七歳年上とかヒイてるでしょ……」と私が顔を手で覆うと、「俺が悠海さん探してたの、親も知ってるしなあ」と紅磨くんは私を腕に包みながら言う。
「よく探し当てたなって感心された」
「メンヘラ女とか思われてない?」
「そこは俺に惚れて治ったでしょ」
「ん、まあ」
「だから、そう言ってる」
「じゃあ、反対されてない?」
「うん。こうやって泊まっても、文句言われないし」
紅磨くんは私の髪を撫でて、私はとんと紅磨くんの胸にこめかみを当てる。心臓の柔らかい音が聴こえる。
「俺のほうが心配されてるよ」
「え」
「悠海さんの親には、俺なんかガキすぎないかって」
「うちは紅磨くんが私にしてくれたことも話してるから。感謝してるよ」
「ほんと?」
「うん。お礼言いたいって言ってた」
紅磨くんとは三年前の夏に出逢った、というのは、実は正確にはそれを数年さかのぼる。
そのとき私は失恋して、すべてに拒絶されたような恐ろしさに耐えかねて、池のほとりで手首を切った。それを発見して、救急車を呼んでくれたのが小学生だった紅磨くんだった。
うろ憶えなのだけど、「好きな人に好きとも言ってもらえない」とか私は言ったらしく、紅磨くんはそんな私に「好きだよ」と惜しみなく伝えたくて、私のことを探して、あのレストランにバイトとして入ってきてくれたという。
「じゃあ、俺もちゃんと悠海さんの両親に挨拶したいな」
「うん」
「悠海さんも、いつか俺んちに来てよ」
紅磨くんは私を抱きしめ、私はこくんとすると紅磨くんの背中に腕をまわした。この男の子と結婚するのなら、実際そういう日も来るのだろう。年齢とか過去とか、恐縮してしまうところもあるけれど、私もちゃんと紅磨くんのご両親に挨拶したいなと思った。
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