おあずけはおしまい
「気持ちを改めて、もっとみんなと協力していこうと思います」──そんな水津さんの宣言も浸透し、お店の中はかなり風通しがよくなった。
どこかで誰かが、仕事を愚痴ったり水津さんを疎んだりしていたけど、みんなそれを隠さず打ち明け、改善に努めるようになった。そのおかげで、上半期の最後である六月、初めて売り上げが前月を上まわることにもなった。
「やっぱ、チームワークってあるんですねー」
デスク作業をこなす森名さんが、十八時からの休憩時間でまかないを食べる私に、そんなことを言った。
七月になって、梅雨明けはまだだけど雨は減って蝉も鳴きはじめた。今もバックにはクーラーがきいていて、ホールでいそがしく料理を運んでいた熱と疲れを冷ましてくれている。
「チームワーク、ですか」
「水津さんが引っ張っていくようになったから、利益も上がったんですよね」
「まあ、そうですね」
「職場の人間関係って、仕事の水準に関わってくるんだなあと」
「水津さんが仕事はできるとは、森名さんも言ってたじゃないですか」
「統率力に問題があるって指摘してたのは綾川さんですよ」
「注意してくれたのは真垣さんなので」
「綾川さんが真垣さんに相談したんじゃないんですか?」
「しようかなあとは思ってましたけど、結局真垣さんが察してくれたので」
「ふうん……」
森名さんはかたかたとキーボードをたたいている。私はまかないのサンドイッチを食べて、もぐもぐと飲みこんでいく。
「綾川さんも、真垣さんのファンですか?」
「えっ」
「人気ですよね、真垣さん」
「……真垣さんのことは好きですけど、ファンとかそういう感情じゃないです」
「めずらしいですね」
「そうですか?」
「そういうとこ、好きですけどね」
「は……はっ?」
私がぎょっと森名さんの背中を見ると、森名さんは噴き出して椅子ごとこちらを向いた。
「綾川さんって、いくつでしたっけ」
「今月、二十八になりますが」
「今月誕生日ですか」
「はい」
「結婚とかは? しないんですか?」
「結……婚、は──」
「俺、綾川さんのこといいなって思ってますよ」
「はいっ?」
「だから、よかったら──」
「い、いえっ。その、……私、いるので」
「いる」
「つきあってる人、いるので」
「でも、結婚を考えてるほどじゃない」
「そういう、わけでは」
「さっき、言いよどみましたよね」
それ、は。分かっていても、いくら分かっていても、ほんとに紅磨くんはこんな年上でいいのかなとか。戸宮さんとは結局どうなったのかなとか。そう思いつつも確かめる勇気も出ないな──とか。思う、からで……。
私がうつむいてしまったとき、唐突にばたんっと店内からのドアが開いた。
「悠海さんはっ」
つかつかと入ってきた人に、私は驚いて目を開いてしまう。いや、大学が終わって私を迎えに来てくれたのだろうけど。
「俺と結婚しますからっ」
紅磨くんはそう言って私と森名さんのあいだに入り、咬みつくように森名さんを睨みつける。
「悠海さんは、ずっと昔から俺が守ってきたんです!」
「……帰り道を?」
「それより前からですっ。あんたにはあんま言いませんけどっ。とにかく、俺たちにはすげー絆があるんで、悠海さんには手出ししないでください!」
私は紅磨くんの背中を見上げた。
ああ、大きいな。広いな。その背中で、この男の子はずうっと昔から私を守ってくれてるんだ。
「なーんだ……やっぱりか。残念」
ぎっ、と椅子がまわる音がして、またかたかたとキーボードをたたく音が始まった。紅磨くんは私を振り返り、「悠海さんもっ」と私の頬を両手で挟む。
「何でもっと強く俺とつきあってるって言ってくんないの。あれはもう、俺の名前出してでも断る流れでしょ」
「……な、んか、いいのかな、って」
「何が」
「私、おばさんだし」
「悠海さんはかわいいよ」
「訊きたいことも、訊けないし」
「訊きたいこと? 俺に?」
「……うん」
「何かあるの? 訊いていいよ」
私は視線を下げ、ぼそぼそと戸宮さんの名前をつぶやいた。紅磨くんは怪訝そうに首をかしげる。
「戸宮が何?」
「……連絡、とか、取ってないかな、って」
「取ってないよ。歯医者行かなくなってそれで終わりだよ」
「ほんとに?」
「うん」
「……そう、なんだ」
「あ、でも」
「でも」
「最後の日、ちょっと話したよ。きちんと」
「きちんと……?」
「俺は悠海さんが好きだからって。振ったというか」
「ほんと?」
「ほんとだよ。茉莉紗にも言われたし」
「茉莉紗さん」
「デート誘われた時点で、『期待させないように断れ』って言われて。『そうしなきゃ悠海さんも不安だと思うよ』って」
茉莉紗さん。そんなことを言ってくれたのか。
「それまで、戸宮とかありえなさすぎて考えなかったけど。きちんとしたほうがいいんだなって思って」
「……そ、なんだ」
「やっぱり不安だった?」
「不安……だったよっ。紅磨くんが、歯医者に行くたび戸宮さんに会ってるだけで嫌だったもん」
「はは。妬きもち」
「笑い事じゃないよ。ほんとに……紅磨くんは、誰にも渡したくないの」
「俺も悠海さんだけだよ。大丈夫、俺は十年くらい前からそうなんだから」
紅磨くんは私を抱きしめて、私も紅磨くんに抱きついた。優しい体温が心を癒していく。よかった。紅磨くんはちゃんと私のそばにいてくれるんだ。ほかの女の子、若い女の子、それより私を選んでくれる。
「あの──」
紅磨くんの向こうからふとそんな声が割って入って、私ははっとしたけど、「何ですか」と紅磨くんは私を抱きしめるまま振り返る。はあっとため息を聞こえて、「君らのことはよーく分かったから」と森名さんがあきれた声で言う。
「そういうのは、仕事終わってふたりきりになってからにしてください」
「でも、見せつけとかないと」
「別に邪魔なんてしないですよ。しても意味がなさそうだし」
「そう、意味ないんで悠海さんにちょっかい出さないでくださいね」
「はいはい。綾川さん、休憩終わりますよ」
「あっ、はい。紅磨くん、ごめん。少し待ってて」
「うん。仕事頑張って」
そう言って紅磨くんは腕をほどき、「ありがと」と私は椅子を立ち上がる。
「えと、森名さんもお疲れ様です」
「はい、お疲れ様です」
私は紙コップの紅茶を飲んで、空の皿を手に取る。紅磨くんは私が座っていた椅子に腰かけると、「待ってるね」とにっこりしてくれる。その笑顔に胸が満たされて、私もにっこりしてうなずくと「そういえば」と思い出す。
「今日の午前中、久しぶりに焼きプリン作ったよ。帰ったら冷えてるからね」
「マジでっ。やった」
「ふふ、じゃあお疲れ様」
「お疲れ様ー!」
紅磨くんにそう見送られて、私は皿をキッチンに返すとホールに出る。店内ではディナーが始まっていて、騒々しいほどいそがしいけど、もやもやしていた不安も消えたので今日からまた頑張れる。
紅磨くんは大学を卒業したらこの店を辞めると言っていた。そして就職して、いずれは自分の病院を持ちたい、そこを私とやっていきたいと。私もそれが叶えばいいなと思う。だから、今すぐではなくても、私もついにこのバイトを辞めて、勉強も兼ねた仕事に移ることを考えなければならない。
紅磨くんと再会できたお店で、しかも今から前向きになっていくところで、辞めるのは正直寂しいけれど。それでも、私が一番大切なのは紅磨くんとの未来だから、それは水津さんももう分かってくれるだろう。
紅磨くんとずっと一緒にいたい。紅磨くんになら人生を捧げられる。結婚したいと思う。
ときには、甘い砂糖ばかりではないときもあるかもしれない。お砂糖をこらえるときもあるかもしれない。
でも、私と紅磨くんならそれを乗り越えて、きっとまた甘い毎日を過ごすことになる。いつまで経っても、たまに、甘党の紅磨くんにお菓子を作ってあげるような奥さんになりたい。
大好きな紅磨くんと、このまま、甘やかな日々を過ごせますように。
そんなことを思いながら、来店のベルが鳴ると、私は「いらっしゃいませ!」と満点の笑顔でお客さんを迎えた。
FIN