指先に触れる君が-10

彼女の気持ち

「映乃くん、おはよう」
 朝のにぎやかな靴箱でスニーカーを上履きに履き替えていると、ふとそんな声がかかった。顔を向けると仁奈子ちゃんで、「はよ」と俺は笑顔を作る。そんな俺を見て、「よかった」と仁奈子ちゃんはにっこりしてから上履きを取り出す。
「え」
「映乃くんも、だいぶ元気になってきたみたい」
「あ、ああ。まあな」
「深冬もずいぶん元気になったよね」
「そうだな」
「一時はすごく落ちこんでたから。正直、自殺したらどうしようって思ってた」
「……はは」
 笑えねえ、と思いつつも乾いた笑い声をもらす。何となく仁奈子ちゃんが上履きを履くのを待って、俺たちは一緒に廊下に出る。「おはよー」という声が飛び交っていて、予鈴まであと十分、あくびをする生徒もいれば急ぎ足の生徒もいる。朝陽がさしこんでいるものの冷えている階段を並んでのぼりながら、「映乃くんは気づいてるかもしれないけど」と仁奈子ちゃんは口を開く。
「それでも深冬、やっぱりあれから少し私に態度が違うんだよね」
「えっ」
「私より、映乃くんといるほうが多いし」
「そ、そうかな」
「それは、真冬くんを失った哀しさとかは映乃くんと話すほうが分かるのかもしれないけど。やっぱ寂しいなー」
「仁奈子ちゃんには、あんまり話さない?」
「うん。話も当たり障りないことばっかり。私に話しても仕方ないの分かってても、頼りにならないって言われてるみたいで」
「そんなことは、……ないかと」
「そういう気分になれないからごめんねって、デートとかはしっかり断るんだよね。分かってても、そこは甘えてほしいな」
「……うん」
「休みの日は、家で落ちこんだりしてるのかな。そばにいてあげたいんだけど、どこから踏みこめばいいのかむずかしくて」
 俺は何とも言えない気まずさに顔を伏せる。これは、どう言えばいいのだろう。休みの日は俺が会ってるよ、と言ってはいけないのだけは分かる。
「い……言ってみたら、深冬も心開きやすいかも。そういう、話してほしいこととか」
「そうかな?」
「切っかけだから」
「そう──だね」
 仁奈子ちゃんは正面を向き、ひとりうなずいてからまた俺に人懐っこい笑顔を向けた。
「あとで、話してみる。ふふ、ごめん、愚痴っちゃって」
「平気だよ」
「映乃くんもつらいよね。真冬くんとすごく仲良かったし」
「……ん、まあ。仲は、よかったな」
「真冬くんの犯人は捕まってるけど、怖いよね。深冬にも気をつけてもらわなきゃ」
「うん──」
 何とかぎこちなくならないように話していると、教室に到着して「深冬、おはよう」と仁奈子ちゃんは笑顔で真冬の席に駆け寄っていった。「おはよ」と真冬は笑顔を作ってから、俺に目を向ける。俺は不自然にならないよう笑みを作り、「はよ」と手を掲げてから自分の席に行った。「ねえ深冬、あとでまじめな話いい?」と仁奈子ちゃんの声が聞こえて、「えー、何?」と真冬が答えるのも聞こえた。
 さいわい、仁奈子ちゃんに今の「深冬」から真冬を連想している様子はなかった。でも、俺たちが土日に会っていることとか、何かの拍子でふたりでいるところを見られたら、おかしく思われるだろう。すぐに真冬とは思わないかもしれないが、怪しまれて、深冬と思っているすがたに真冬がダブってくるかもしれない。
 やっぱ仁奈子ちゃんには話したほうがいいんじゃないかな、と俺は思う。俺にも真冬にも仁奈子ちゃんには義理はないが、借りている深冬の軆の恋人は、仁奈子ちゃんなのだ。
 しかし、信じてもらえるだろうか。俺と真冬が例えばキスしてみせたって、そもそも俺たちがつきあっていたなんて仁奈子ちゃんは知らないし、信憑性にならない。それにやっぱり、真冬の魂を深冬に送りこんでくれた「天使的な」人も、やんわり口止めはしていたようだし──
 仁奈子ちゃんは軽々しく吹聴する女の子ではなくても、それは信じた場合で、信じられなかったら俺と深冬がイカれたと慌てる恐れもある。
「えーいーのー」
 その日、昼休みに仁奈子ちゃんに捕まった真冬は、そのまま俺と過ごせず、五時限目が始まる前に俺の前にゆらりと現れて腕を引っ張ってきた。「どうした?」と一応席を立って真冬についていくと、「サボるー」と真冬は俺を連れて屋上に向かう。
 何か疲れてんな、と真冬の様子を心配していると、授業が始まって屋上に人がいなくなってから、冷たいコンクリートに座りこんで「膝まくら」と俺に甘えてきた。俺が脚を伸ばして「どうぞ」と言うと、真冬は寝転がって俺の脚の上に横たわる。
「映乃」
「ん」
「仁奈子ちゃんに何か言った?」
「………、少し」
「はあ……ああ、もう、俺が! 真冬だし! 分かんないよ、俺が死んでどんなにつらいとか、そんな……」
「……ごめん」
 真冬は俺の腹に顔を当ててしばし黙ったあと、大きくため息をつき、また青空と向かい合う。
「深冬、どうしてるんだろ。まだ元気になってないのかな」
 真冬は左手の薬指を太陽にかざす。タトゥーにしか見えない花を剥き出しにはしておけないので、絆創膏が貼ってある。
「深冬、俺が死んでそんなにつらかったのかな」
「それは、つらいだろ」
「逆だったら、深冬はこの世に戻ってくるまでしたかなあ」
「仁奈子ちゃんのためならしたんじゃね」
「……そっか、逆は仁奈子ちゃんのためになるのか。俺はそれに気づいたかな。いや、その場合俺が意識飛んでて、仁奈子ちゃんといちゃついてることになるのか。うええ」
 真冬は吐きそうにうめいてから、俺の爪先のほうに視線を投げ、ぼうっとつぶやく。
「俺、深冬のことでそこまで落ちこんでやれたかな」
 俺は真冬を見下ろし、その頬に触れる。真冬の瞳に俺が映りこむ。
「映乃……」
「ん」
「仁奈子ちゃんにさ、言われた。ずっとキスしてくれないねって」
「………、」
「したほうがいいの?」
 俺を息をつき、真冬の睫毛の先で陽射しがきらきらしているのを見つめる。
「仁奈子ちゃんには、やっぱ話したほうがよくない?」
「……え」
「深冬が、今は精神的に死んでて、真冬が軆借りてるって」
「で、も」
「そしたら説明できるから、多少楽にも──」
「……怖い、よ」
「えっ」
「早く深冬に軆返して、って、責められるじゃん」
「あ……、」
「そういうわけじゃないって言って、通じるのかな。一応、魂抜けてる状態だと深冬まで死ぬとかさ。俺が入ることで保たれてるとか、信じてくれるの? 俺が乗っ取ってるとか言われない?」
「分からない、けど──」
「今は、誰にもごちゃごちゃ言われたくない。静かに映乃と過ごしてたい」
 俺は真冬の頭に手を伸ばし、優しく髪を愛撫した。真冬は仰向けになって俺を見上げて、「そうでしょ?」と問うてきた。俺は曖昧に咲って、「そうだな」と真冬の手を握った。
 その週末も、俺と真冬は待ち合わせてデートを楽しんだ。いつもの街をぶらつくときもあれば、遠出をするときもある。曇り空だけど、雨にはなりそうにないその日は、降りたことのない駅で適当に降りて、迷子にはならないように気をつけながら、その地元のにぎやかな商店街を歩いたり、コーヒーの香りがする喫茶店に入ったりして、まったり過ごした。
 夕暮れがどんどん早くなるのが惜しい。あまり真冬に夜道を歩かせたくないし、空が赤く染まる前に「帰ろっか」と切り出す。真冬はこくんとして、夜へと冷えこんでいく中、俺たちは駅へと引き返していった。
 明日はまた学校だ。十一月がどんどん過ぎていく。そろそろ深冬も目を覚ますのかな、なんて怯えつつ俺たちは手をつないでいる。別れ際は、これが真冬との最後になったらどうしようといつも怖い。だから、今、真冬と過ごせていることを噛みしめて、並んで歩く。
 冒険した路線から、普段使っている地下鉄線へと、人があちこちに行き交う駅の中を歩いていたときだった。「映乃」と呼ばれた気がして、俺は無意識に振り返った。そして、人混みを縫って近づいてきた人に目を開く。
「聖真」
 真冬も振り向き、近づいてくる聖真を認めて俺を見上げる。ぎゅっと手をつかまれ、俺はそれを握り返しつつ背中に隠した。「よお」と言いながら聖真は笑みを作り、ちらりと真冬を見る。

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