指先に触れる君が-12

約束の花

 翌日、学校でも俺はぼんやりとしていた。真冬に問いかけていいのか分からなかった。本当に、お前は真冬なんだよな? いや、もしかして深冬なのか? 結局、どっちなんだよ──
 真冬は上の空の俺に怪訝そうにして、「映乃?」と覗きこんでくる。俺はその瞳を見つめて、「キスしていい?」と訊いた。真冬はまばたきをして、「いや、ここ教室だぞ」と頬を染める。「じゃあ、場所変えるから」と俺は席を立ち、真冬は首をかしげつつも俺についてくる。
 屋上へのドアの前で立ち止まり、俺は真冬と向かい合った。「ここで」と問われて「ここで」と返す。真冬は俺の手を握り、「何か今日、変だよ?」と愁眉を見せた。
「何かあったんじゃないの?」
「………、真冬を信じたいんだ」
「えっ」
「なのに、ぐらついてる自分が情けない」
「な、何、」
「少しだけ、キスさせて」
「映乃……」
「そしたら、また信じられるから」
 真冬は心配そうに俺を見つめたものの、そっと睫毛を伏せた。俺は真冬を抱き寄せ、その唇に唇を重ねた。深くはしなかった。触れただけで顔を離して、真冬をぎゅっと抱きしめる。
 真冬。ああ、真冬だ。やっぱり、これは真冬だ。すがたは深冬かもしれなくても、この体温は真冬の──
「何、してる……の?」
 そのとき突然、そんな声が割って入った。俺ははっと階段のほうを見て、真冬も声の主をかえりみる。真冬が俺の制服をつかむ。
 そこで動揺をたたえて立っているのは、仁奈子ちゃんだった。
「あ……いや、これは──」
「どういうこと? 今、ふたり……」
「……分かる、だろ」
 俺はこらえる声で言った真冬を見た。真冬は仁奈子ちゃんをまっすぐ見つめた。
「映乃とは、こういう仲なんだよ」
「な、何言ってるの、深冬」
「ばれたんならもういいよな。仁奈子とはおしまい」
「お、おい──」
「映乃と一緒にいたいんだ。俺がそばにいてあげなきゃいけないのは映乃なんだよ」
「いい加減にしてよ、深冬っ」
 仁奈子ちゃんが声を荒げて、俺はびくりとしたが、真冬は冷めた眼つきのままだ。
「何なの、おかしくなっちゃったの?」
「おかしくなったと思うならそれでいい。とにかく、もう邪魔してこないでよ。映乃と過ごしたいんだから」
「映乃くん、これ、何? どうなってるの? 深冬に何したの?」
「え……と、俺は──」
「ふざけないでよっ。深冬は私の恋人だし、映乃くんとは男の子同士じゃないっ」
「もう仁奈子とは別れるんだから、俺の勝手だろ。とっとと失せろよ」
「深冬っ」
「うるさいなあ。行こう、映乃」
「いや、仁奈子ちゃん、これは──」
「深冬を返してよ、ねえっ」
「え、ええと、……何だよ、仁奈子ちゃんのこと振ったら、深冬が戻ったとき──」
 俺が途中から耳打ちで言うと、「深冬は帰ってこない」と真冬が思いがけないことを言い切った。
「深冬にはもう返さない」
「真冬……?」
「映乃のそばにいるんだ。ずっと。映乃がいつ不安になっても、支えてあげられるように」
 俺は真冬を見つめて、「行こ」と真冬は俺を引っ張った。仁奈子ちゃんが泣き出していても、真冬は気にせず階段を降りていく。「真冬」と俺が声をかけても、真冬は一階へと向かい、靴箱のほうに向かう。
「どこ行くんだよ」
「俺の家」
「え、いや、まだ授業──」
「俺を抱いて」
「はっ?」
「どうせ、昨日の幼なじみと何かあったんだろ。それで不安になってたんだろ」
「……それ、は」
「もう、映乃のそばにいるから。そしたら怖くないだろ。この軆を乗っ取ればいいんだ」
「でもそんなこと──」
「映乃に抱かれて、この軆で俺は俺として生き続ける。深冬なんか戻ってこなくていい」
 俺は言葉を失い、それでも踏みとどまれずに真冬についていく。真冬が、これからもそばにいる。軆を乗っ取って生き続ける。本当に、そんなことが可能なら、俺は──ああ、くそ。最低だな。こんなの、深冬に顔向けできない。それが叶うなら、俺は真冬と一緒にいたいと思ってしまう。
 靴を履き替え、学校をあとにして、ICカードはかばんにつないだままなので、ポケットに入っていた財布で切符を買って電車に乗る。俺たちは手をつないでいて、真冬は唇を噛みしめ、俺はまだ狼狽を残していた。
 本当にいいのだろうか。深冬を追い出してしまうのか? そんなことをして、罰はないのか? あるいは、罰を承知で真冬は俺を選ぼうとしているのか。俺はどう応えたらいいのだろう。単純な本音なら、真冬と一緒にいたいけど。そのために真冬が地獄に堕ちることになるなら、俺は──。
 真冬の最寄り駅に到着して、俺たちは言葉もなくあの道を通ってマンションに向かう。救急車が停まっていたあたりで、真冬が少し苦しげに眉を寄せたので、「真冬」と俺は真冬の肩を抱いた。真冬は俺を見上げて、「大丈夫」と小さくうなずいてから、そこを通り過ぎた。
 そして、マンションの三階にのぼり、財布につながっている鍵で玄関を開ける。
「映乃」
「ん」
「俺のこと、抱いてくれる?」
「………、真冬は、いいのか?」
「俺も、昨日すごくもやもやした。俺がいなくなって、あいつが映乃に言い寄るなら、あんな奴殺してから死にたいって」
「真冬……」
「もし生きていくことができたら、映乃を離さない自信はあるのに。死んだら、分からないよ」
「……俺は、」
「映乃も、あいつにぐらつきそうなんだろ」
「そうじゃ、ないけど──」
「じゃあ、今日おかしかったのは何だよ」
「………、聖真に、今の真冬は深冬が妄想で演じてるんじゃないかって」
「妄想……?」
「ショックで、乗り移られたって思いこんでるだけで、真冬じゃな──」
「俺は真冬だよっ。ほんとに真冬だよ。深冬の妄想なんかじゃない。ほんとに、映乃のために戻ってきた真冬だよ」
「……でも、」
「分かるだろ、映乃が俺の薬指と心をつないでくれたから、この花があって──」
 真冬は左薬指を持ち上げ、絆創膏をちぎった。そして、それを見て俺も真冬も目を開いた。赤い花の色が抜け落ちてきている──
 真冬はドアを開けて、俺を家の中に押しこんだ。「真冬、」と言っても真冬は聞かずに、玄関先で俺を押し倒して、痛切なぐらい深くキスをしてきた。
 でも、軆をまさぐられてもぜんぜん集中できない。さっきの薄れてきた赤い花がショックで反応できない。消える。深冬の意識が戻って、軆に帰ってくる準備ができたら花は消える。花が弱くなってきたということは、深冬がもうそこにいるのだ。それは、俺以上に真冬が分かっているだろう。「映乃」と泣きそうな声で俺の制服を乱して軆に口づけてくる。でも、俺は何も感じることができない。大好きな真冬のキスに溺れることができない。だって、ついにこれが本当の──
 最後。
「真冬……真冬、もういいよ」
「映乃、っ」
「真冬、ほんとに真冬だって分かったから。真冬しかいないよ。俺にこんなにキスしてくれるのは、真冬だけだ」
「映乃っ……俺、」
「ごめん、真冬じゃないかもなんて。ほんとにごめん。俺のために帰ってきてくれて、ありがとう」
「……離れたくないよ」
「俺は、ずっと真冬のことが好きだよ。真冬のことを死ぬまで忘れない」
「そんな、のっ……」
「仮に誰かとつきあっても、そんなのみんな真冬の次だ。二番目だよ。俺の一番は、一生真冬だ」
「う……っ、」
「愛してるよ、真冬。真冬に出逢えてよかった。真冬が俺に人を好きになることを教えてくれた」
「映乃お……っ」
「絶対、また会えるから。俺、ちゃんと自殺せずに生きていくよ。つらくても生きるよ。そうやって一生を生きたら、真冬のところに行く」
 真冬は俺のはだけた胸に顔を当てて泣き出した。俺はそのさらさらの髪を撫でて、「時間かかっても、今度は俺のほうから真冬のところに行くから」とささやいた。真冬はぼろぼろと涙を落としながら俺を見て、「待ってる」と嗚咽混じりに言った。
「俺も、映乃のこと愛してるから──待ってるよ。映乃のこと、ずっと待ってる……っ」
 俺は真冬の軆をきつく抱きしめた。体温が体温に柔らかに溶けていく。指先に触れられる真冬を力いっぱいに感じる。
 深冬。もういいよ、戻ってきていいよ。お前は何も悪くないって、もう分かったんだろ?
 そうだよ。誰もお前を責めたりしない。
 生きてていいんだよ。深冬。お前が生きていくんだ。真冬のぶんまで、深冬が──……
 抱きしめる真冬から、ふっと力が抜けた。俺はその顔を覗きこみ、息をつめる。真冬の涙でぬかるんだ俺の胸から、顔を上げたのは──
「映……乃?」
「……深冬」
「あ……、ぼ、僕──」
 俺は笑って、「よかった」と軆を起こした。だが深冬はまだとまどっていて、俺を見て、ぽろぽろと涙を落とす。
「ごめん、映乃」
「え」
「ずっと……朦朧と、見えてた。映乃といる真冬を、ずっと見てた」
「……そっか」
「ほ、ほんとに……僕、ごめん。僕のせいで、引き裂いてごめんっ……真冬は、真冬は、ほんとに映乃が好きだったよ」
「うん」
「真冬がどれだけ映乃のことが好きだったか、ずっと伝わってきてて……僕なんか、こんな、戻らなくてもよか──」
「深冬」
「え」
「……いいんだよ、一緒に生きていこうぜ」
 深冬は俺を見て、瞳に涙をいっぱいに溜めて、うなずいた。うなずいたけど、まだ十字架が耐えがたいのか泣き崩れた。
 俺は服をちゃんと着てから、深冬の背中をさすってやった。さっきまで真冬の心が入っていた軆。あんなに愛おしいと思った軆。でも、もう、違うんだ。そう思うと俺も息が詰まって泣きそうになった。指先に触れる真冬が、今度こそ、いなくなってしまった。
 だが、俺は涙をこらえて、親友を、恋人の片割れを、根気よく肩を撫でてなぐさめた。これが、真冬を抱かなかった俺が選んだ答えだから。深冬の左薬指に、花はもう咲いていない。でも、俺は真冬とつながっている。いつか再会するために、きっとつながっている。また会える日まで、俺は生きるのだ。
 生きて、真冬への想いをつらぬいて示し、必ずまた巡り会う。

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