指先に触れる君が-2

言えない関係

 その日から、俺と真冬はこっそり、だれにも打ち明けずにつきあっている。真冬は、勉強より愛嬌の深冬に較べてクールな奴かと思ってきたけど、俺の前ではべったり甘くなった。そんな真冬が俺もかわいくて仕方なかった。
 男同士でいちゃいちゃ外を歩いても、無駄な視線を浴びるので、ほとんどは互いの家で過ごす。まあ、俺の家にはゴリラ並みに強い姉貴がいるので、なるべく俺が真冬の家に来るのだが。
 中学生までは、真冬と深冬は同じこの部屋で過ごしていたらしい。けれど物置だった部屋を片づけて、深冬が高校入学と共にそちらに出ていったそうで、そういう雰囲気になっても気を遣わなくていい。とはいえ、家に誰かいる場合、急にドアを開けられたりしたら即死なので、しないけど。それでも、手を伸ばせば相手に触れられるのが嬉しかった。
 俺は誰かにカムしたいとは思ったことはないけれど、真冬は子供の頃から、家族だけには知っていてほしいと思っているそうだ。何度かカムしようと思ったけれど、どうしても勇気が出なかったり、タイミングを逃したり──
「家族が俺のせいで壊れたら怖い」と真冬は言う。だから何かある前に言いたいし、だが同時に、打ち明けたことで何かあったら怖い。「言えても言えなくても、俺は真冬といるから」と俺が手をつなぐと、真冬はこくんとして俺に寄り添って目を閉じた。
 時刻が十九時になる頃には、夕食が始まってしまうので、俺も帰らなくてはならない。パートから戻ったおばさんは「映乃くんも食べていく?」と気にしてくれるけれど、俺が「夕飯食ってきた」とか言うとかあさんががっかりしてとうさんが俺を責めるという、バカップルを引きずっている両親が家にいるので、たいていは遠慮する。
「じゃあまた」と真冬が玄関まで見送ってくれて、それに気づいた深冬も「またね」と声をかけてくる。俺は手を振って、真冬と深冬の家をあとにした。
 外に出ると、明るさを残す空にひぐらしの鳴き声が遠く響いていて、それを聴きながら三階から地上まで階段で降りる。
 駅近のマンションだが、八月は少し外を歩けば喉が湧いてくるから、俺の最寄りと真冬の最寄りをつなぐ地下鉄の駅に着く頃には、汗ばんでいる。今日も地下に降りてやっと涼しく、定期ICで改札を抜けると電車を待つ。
 これがまた混んでるんだよなあ、と内心つぶやきながらも、ラッシュを避けて真冬の家を早く立ち去らない俺も悪い。仕方なく冷房より熱気が勝つ車両に乗りこみ、最寄り駅まで運んでもらう。
 最寄り駅に着いて地上に出ると、空はオレンジ色を溶かして、濃紺になろうとしていた。月が出て、星がちかちかまたたいている。
 バスに乗ろうかな、と思ったが、ラッシュから流れ落ちてきた人がバス停に並んでいたので、二十分くらい歩くことにする。夜なのに蝉鳴いてんなあ、と思いながら、蒸した空気に滲む汗をはらう。小さな商店街を抜けて、団地が並ぶ静かな通りに接して一軒家の家並みがあり、俺は小学生のときからその中の一軒家に住んでいる。
 マイホームも一姫二太郎も、とうさんとかあさんの長年の夢だったそうだ。俺のかあさんは専業主婦で、とうさんがそのぶん家庭を背負っている。と言うと聞こえはいいが、いつもとうさんは「ママはおいしいごはんを用意して、ここで待っててくれるだけで癒しなんだよ」とか何とか言うから、何か、ちょっとバカなのかと思わなくもない。
「パパのごはんは、いつも作ってきてから得意なのよー」とほわほわ咲うかあさんは、とうさんの一歳年下の幼なじみで、実際、学生時代はとうさんの部活に弁当を差し入れするのが日課だったらしい。「やっぱ男は胃袋からつかむのか」と料理ができない姉貴は、男と別れるたび暴れる。現在大学一年生の姉貴は、容姿だけなら美人なので選ぶ男に困ることはないようだが、続く相手がなかなか決まらない。
 俺にしてみれば、続かない恐れのある奴とはそもそもつきあわなければいいのにと思う。しかし、家族には真冬との関係は黙っているので、恋愛に関する辛辣な発言は全部ひかえている。
「ただいまー」
 アスファルトの照り返しで空気がゆだっている夜道を歩いてきて、やっとたどりついた家に入ると、そう言いながらスニーカーを脱いだ。とん、とん、とちょうど足音がして顔を上げると、階段からタンクトップとボクサーパンツのみという、むしろ男らしいすがたの姉貴が降りてきている。
「おかえり」
「んー。つか映奈えいな、それ俺の下着じゃねえよな」
「何でそんな汚いもん身に着けるのよ」
「こないだ、着てましたよね」
「がたがた言うなら、自分の下着には名前書いときなさい」
「園児でもちょっと恥ずかしいぞ、それ」
「てか、飯があんた待ち。食べてきたの?」
「いや、食うよ。とうさん帰ってきてんの」
「さっき帰ってきてた」
「荷物部屋に置いてきたらすぐ降りてくる」
「言っとくわ。──おかあさーん、映乃帰ってきた」
 そう言いながら、姉貴はダイニングにつながるドアに入って、俺は廊下を抜けて二階に上がった。階段をのぼった目の前は玄関を見下ろせる吹き抜けで、右手にはベランダにつながる両親の寝室、左手には姉貴の部屋と俺の部屋がある。
 暗闇のまま勘で自分の部屋のドアを開けると、ぱちっと室内の明かりをつけた。続いて熱気を冷ます冷房を入れ、教科書やノートが入ったリュックをベッドに投げる。
 スマホを取り出すとランプが明滅していて、誰からの着信か確認したが、急用や重要なメッセは来ていないようだ。真冬からもないな、とそこはきちんと確かめてから、俺はスマホを充電につないですぐに部屋を出た。
 ダイニングに入ると、ちょっと甘い香りがしていた。かあさんはよくお菓子も作っているから、「何か菓子あんの?」とテーブルを見たけど、からあげがメインの夕食しかない。「そのからあげが、ハニーマスタードをかけて甘く仕上げてあるの」とキッチンからみそ汁やサラダを運んでくるかあさんがにっこりして、蜂蜜とからあげかよ、と合うのかいまいち疑問だったが「ふうん」と流しておいた。
 姉貴は手伝わずにリビングを向いてテレビを見ているが、とうさんは茶碗にご飯をよそって手伝っている。「映奈よりとうさんのほうが女子力あるよな」とつぶやくと、素早くテーブルの下で臑を蹴られた。俺が声を抑えてけっこうマジな痛みに耐えていると、テーブルには夕食が揃い、「いただきます」と四人で手を合わせた。
「映乃は夏休みになってから毎日出かけてるな。グレるなら放置するぞ」
 からあげをもぐもぐ食べながらとうさんが言って、「いや、」と俺は油揚げの味噌汁をすする。
「むしろ大学受験の勉強してんだけど」
 俺がそう言うと、隣で姉貴がふんと笑う。
「まだ二年なのに、何頑張ってんのよ」
「三年から本気出しても遅いということを、去年の姉貴を見て学んだので」
「深冬くんって子と勉強してるのよね」
 かあさんがおっとりした口調で言った通り、俺の家族は真冬と深冬の違いをよく分かっていない。
「それ弟で、勉強教えてくれてるのは兄貴の真冬だよ」
「あら、同じ高校なのはどっちの子だったかしら」
「それは深冬。俺は大学、真冬と志望校同じだから」
「真冬くんって子は勉強できるのか?」
 とうさんががつがつからあげを大皿からかっさらっていくので、俺も自分のぶんを確保する。
「できるよ。頭いいし、教え方もうまい」
「いつも、映乃がお邪魔してばっかりよね。うちにも呼んでくれたらいいのに」
「真冬はイケメンだから映奈がうざい」
「あ?」と姉貴が俺を横目で睨みつける。
「何か言った?」
「映奈に色目使われたら、真冬が不憫」
「っさいなあ、年下なんかありえないし」
「三十路になる頃には、年下しかやだって言ってるよ」
「三十路まで独身だって言いたいの!?」
「えー、お前たちがそこそこで巣立って、ママと第二の新婚生活に突入するのがパパの楽しみなんだぞ」
「そこは、娘は嫁に行ってほしくないって言うとこなんじゃないの、おとうさん」
「映奈も映乃も、きっと素敵な旦那さんとお嫁さん連れてくるわよ。大丈夫よ、パパ」
「そうかなあ。パパは映奈の貰い手が心配だよ」
 俺結婚しねえんだけど、と思っても、例によってこういうときは口をつぐむ。
 両親も姉貴も、男女というデフォに地味に捕らわれているので、俺がゲイだなんて受け入れるとは思えない。別に家族に対して冷めているつもりはないし、何だかんだ愛情のある家庭だとは思っているけれど、理解まで求めようとは思わない。
 意外とくせになるうまさだった甘いからあげの夕食を平らげると、俺はシャワーを浴びた。真冬の家に行っているだけでも、ずいぶん全身に汗をかいてべたついている。我が家が愛用するシャンプーとボディソープの柔らかい匂いに包まれると、洗濯済みのTシャツとジーンズを身に着けて、洗面台で髪を乾かす。
 くせ毛なので、面倒でも乾かしてスタイリング剤をなじませておかないと、漫画みたいに頭が爆発する。それでも、毛先が跳ねてしまって、しっかりまとまらないけど。
 鏡を見ると、二重に黒目がちの瞳、すねたような口元を持った顔がある。鼻筋や顎の線にそんなに鋭さはないけど、男の直線的さはある。軆は筋骨のバランスが取れて、とりあえず健康的だとは思う。
 真冬を好きになってから、やっと容姿を意識するようになった。応えてもらえる期待なんてしてもいなかった頃から、かっこいいな、とは思われたくて、このくせ毛の対処とか筋肉のつき方とか気にするようになった。今の俺があるのは、全部、真冬の影響だ。
 そろそろ真冬からメッセとか来てるかも、と身綺麗になった俺は、「風呂出たー」とリビングに声をかけてから自分の部屋に戻った。
 部屋は冷房がしっかり効いて冷たくなっていた。温度を調節して冷気を緩めると、充電につながったスマホを手にしてみる。
 着信の中に、やっぱり真冬からのメッセがあった。思わずひとりでにやけたりなんかしつつ、それをタップで開く。
『今日も勉強お疲れ様。
 明日はどうする?
 深冬が仁奈子ちゃん連れてくるって言ってたんだけど、大丈夫かな?
 気にならないなら、明日も勉強しよ。
 エロいことはできないかもしんないけど。』
 最後の一行に、噴き出してしまう。まあ確かに、隣の部屋に深冬と仁奈子ちゃんがいて、俺も真冬に手を出そうとは思わないけれど。
 俺はベッドサイドに腰かけつつキーボードを呼び出すと、フリックで返信を打って送信する。
『お疲れー。
 じゃあ、明日もそっち行くよ。
 深冬と仁奈子ちゃんは学校で慣れてるから平気。
 隣の部屋で深冬たちのほうが何か始めたら、軽くマンションの周りデートでもしとこうぜ。』
 すぐ既読がつき、『エロバカ』と来たあと、『あのふたり、そういうこともちゃんとやってんのかな』と実感のなさそうな反応が続く。『やってるだろ、普通に。』と俺が応えると、『変な感じ。』と真冬は応じる。
『俺は男しか無理だから、同じ顔と軆で女抱いてるとか想像つかないや。』
『気持ち悪い?』
『そう感じるのは向こうなんだろうけど。』
『俺と真冬が?』
『うん。』
『そうかなー。
 深冬もそう言うのかな。』
『分かんないけどね。』
『いつか話せるといいよな。
 深冬は俺にも親友だから、知っててくれるなら気が楽だし。』
『いつか頑張る。』
『焦らなくていいよ。
 俺はちゃんと真冬のそばにいるから。』
 ふっと既読がついて、すぐに通話着信がついた。俺は画面をスワイプして応答すると、スマホを耳に当てる。
「もしもし」
『声聴きたくなること言うし』
「はは」
『えー、映乃はカムとかしないんだっけ?』
「俺はしないなー。黙ってることで調和取れてるし」
『そっか』
「俺にもカムしてほしい?」
『というか、映乃の家族に、俺が恋人として紹介されることもないんだなーって』
「あー、そっかあ。そうなるのか」
『それは、ちょっと寂しい』
「言わない理由もないんだけどな、大して。いつか真冬と結婚するみたいな関係になって、一緒に暮らすとか、戸籍移すとか、そうなったらさすがに言うかな」
『ほんと?』
「ただし、それを家族が受け入れるかは分からない。もしじゃあ勘当だってなったら、紹介はできないままかもしれないし」
『……うん』
「もし話して、万一分かってくれたら、絶対紹介するよ。てか、俺の両親がお花畑過ぎて、真冬あきれそう」
『いいじゃん、映乃の両親。話で聞くだけだけど』
「マジで結婚で失速してないからな? 息子から見るときつかったりするからな?」
『壊したくないなって思うわけだろ。カムをあきらめるくらい』
「んー、まあそうだけど」
『映乃は……カムできなくても、あったかいのがあるからいいよな。俺は家族に仮面かぶってる感覚しかなくて、つらい』
 俺は立て膝をして顎を乗せると、「いつか話せるよ」と優しい声で励ました。
『ん……そうかな』
「まず、深冬だけに打ち明けてみるのもいいんじゃね。深冬は真冬のこと好きだよ」
『……うん。考えていく』
「よし。じゃ、明日も午前中から邪魔していい?」
『待ってる』
「なら、早めに寝て、明日会えるのが遅くならないようにするよ」
『分かった、おやすみ。通話出てくれてありがとな』
「おう。おやすみ」
 俺はスマホをおろして、タップで通話終了にする。そしてふうっと息をついてベッドに倒れる。
 カムかあ、と天井を眺めて改めて考える。とうさん。かあさん。姉貴。烈火のように否定することはないと思うのだが、何というか、すごくがっかりされそうな気がする。何でがっかりされなきゃいけないのかとは思うけど、なかなか連れてこなくて、ようやく連れてきたら、「お嫁さん」じゃないのは両親には打撃ではないだろうか。姉貴はまだわりとさっぱりしているかもしれないが。
 悪いことなんてしてないはずなのになあ、と俺はシーツをごろごろして、そのうち微睡んできたから、寝落ちる前にエアコンを調節して明かりを消し、ふとんにもぐりこんだ。

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