指先に触れる君が-3

甘やかな夏休み

 翌日、俺は八時前に起きて、ナッツのベーグルとチョコチップのベーグルを朝食に食べた。最後にコーヒー牛乳を一杯一気飲みすると、さっそく真冬の家を訪ねる準備を始める。
 今日は何教えてもらうかなあ、と持っていく参考書などを考えて、決まるとリュックに投げこんでいく。俺がそれを終わらせる頃、姉貴もようやく起きて、「また出かけるのー?」とルームウェアすがたのぐうたらな口調で言われる。「滑り止めも浪人も嫌だから!」と俺は言い切ると、やってくるバスの時間に合わせて、「いってきますっ」と家を出た。
 バス終点の地下鉄の駅から、いつつ上ると真冬の暮らす町だ。俺は真冬に『あと五分くらいで行く』とメッセを飛ばして、『了解』という反応を確認すると、今日も青空に焼きつく太陽の下を歩いていった。
 半袖の腕が焦げつく。蝉の声の反響が空気を引っかいている。早くも汗が流れてきて、汗臭いって思われたくねえ、と真冬のマンションへと急ぐ。
 到着すると、もうひと踏ん張りで三階まで階段をのぼり、家の前で深呼吸して俺はチャイムを鳴らした。
「映乃」
 そんな声と顔を出したのは、もちろん真冬だ。俺はちょっと熱気でくらくらしつつ、「おはよ」と言う。
「おはよ──って、何か大丈夫?」
「いや、まあ、何つーか、暑いな」
「頬っぺた赤い。熱中症になってない?」
 そう言って、俺の頬に触れた真冬の手は、ひんやりしていた。「手冷たいの気持ちいい」と言うと、真冬は眉を寄せてから、「麦茶あるから飲んで」と俺の手を引いて家の中に入った。
 人の気配がなく、おじさんとおばさんは仕事だろうが、「深冬はいるんじゃなかったっけ」と問うと、「仁奈子ちゃん迎えに行ってる」と真冬は取り出したグラスに麦茶をそそいで俺に差し出した。俺は素直にそれを受け取り、ごくごくと軆を潤す。そうすると少しぼんやりしていた意識がはっきりして、「サンキュ」とグラスはそばのシンクに置いた。
「深冬、すぐ戻ってくるのか?」
「分かんない。出ていったのは十分くらい前だけど。すれ違わなかった?」
「会わなかった」
「でも、たぶん仁奈子ちゃんがこっちまで来るとは思うから。そんなにせずに帰ってくるよ」
「そっか。じゃあ、今のうちにハグとかしとく?」
 真冬は俺を上目で見て、小さくこくんとしたから、かわいい、と俺は嬉しくなって真冬を抱き寄せる。真冬も俺の背中に腕をまわし、ぎゅっとTシャツをつかむ。
「汗臭くない? 大丈夫?」
「ん……映乃の匂いだから平気」
 俺は真冬を抱きしめて、冷蔵庫に背中を当てさせて顔を覗きこむ。今度は真冬の顔が赤い。色が白いからよく分かる。俺はTシャツから覗く真冬の鎖骨を甘く咬んで、そのまま舌を耳に移して「好きだよ」とささやいた。
 すると、真冬の頬にはさらに紅色がさして、俺は柔らかく唇を重ねると舌を絡め取った。キスの合間に、おぼれているような声で真冬が俺の名前を呼ぶ。俺が上顎の弱いところを舌でたどると、真冬の軆がびくんと反応した。
 けど、さすがに悪さが過ぎたのか、真冬は唇をちぎって「バカ」と睫毛を伏せた。俺はつい笑ってしまいながら、真冬の頭を抱いて穏やかに髪を梳く。真冬も俺に密着し、鼓動が重なる。
 ずっとこのままでいたいけど、たぶん、そういうわけにもいかない。俺はゆっくり軆を離して「部屋行くか」と真冬の手を取った。ほのかに温もりが生まれている。「うん」と答えた真冬は、俺を冷房が効いた部屋に通して、「何か冷たい飲み物取ってくる」と言って俺が参考書を広げているあいだにアイスティーのグラスをふたつ持ってきた。
 そして勉強を始めたとき、玄関で物音がして俺と真冬は目を交わした。
「ただいまー」
 そう深冬の声がして、「お邪魔します」と女の子の声が続く。真冬が立ち上がり、「おかえり」と部屋から玄関のほうへ顔を出す。
「遅かったな」
「寄り道してた。映乃、来てるの?」
「勉強してる」
「ほんと毎日勉強だね」
「映乃くんって、成績そんなに悪かった?」
「志望が映乃のレベルじゃなくて俺のレベルなんだよね」
「真冬、それ何か嫌味」
「でも、うちの高校で真冬くんの高校のレベルに合わせるなら、確かに大変かも」
「深冬と仁奈子ちゃんは大学とか決めてる?」
「決めてはないけど、ぼんやり見通しは立ててる」
「私もここだってはっきり決まってはないかな」
「三年になってから焦ったら一年間悲惨だぞー」
 真冬待ちの俺が部屋の中から言うと、深冬と仁奈子ちゃんが部屋を覗いてきて、「おはよ」とそれぞれ挨拶してくる。「はよ」と俺は参考書やノートを広げるベッドに頬杖をつく。
「やっぱ早めに考えたほうがいいのかなー」と緩いウェーヴのロングヘアの仁奈子ちゃんがつぶやく。整った眉、大きな瞳、柔らかな頬の線、飛び抜けた美少女ではないけれど、ゲイの俺から見てもかわいい女の子だ。
 彼女は高校一年生の終わりから、深冬とつきあっている。結局ふたりは二年でも同じクラスになったのだけど、一年からのクラス替えを機に仁奈子ちゃんから深冬に告白した。一年間クラスメイトとして過ごし、すでにいい雰囲気だったので、ふたりはすぐつきあうことになった。同じクラスでそれを見ていた俺も、二年生で再びふたりと同じクラスで過ごしている。
「まあ、二学期くらいから、嫌でも学校がうるさくなってくるよ。僕たちは、夏休みはまだゆっくりしよ」
「ん、そだね」
「じゃあ、僕たちはDVD借りてきたから、リビングでそれ観てる。真冬と映乃は勉強頑張って」
 そう言うと、深冬と仁奈子ちゃんは家の中のほうに入っていった。それを見送った真冬は、「映画館でも行けばいいのにー」とむくれつつ俺の隣に戻ってくる。
「映画館」
「そしたらしばらく帰ってこないから、映乃とふたりっきりじゃん」
「つっても、あのふたりはデート行ってくれてるほうだよなー。昨日も行ってたし」
「昨日は、仁奈子ちゃんちに行ってただけだって」
「それもおうちデートだろ」
「俺も、たまには勉強せずにおうちデートしたい」
「じゃあ、今日勉強やめとく?」
「んー、深冬も留守のときがいいかな」
「はは、機会あるよ。そのときは、勉強休んでいちゃいちゃしよ」
 真冬は笑いながらこくんとすると、参考書をめくって「数学はうちの高校はこのへんまで進んでるな」とページを開く。覗きこんだ俺は知らない方程式にめまいを覚え、「もうちょい易しいとこから入って」と見たことのある文字列を探してページをさかのぼる。
「映乃」
「んー?」
「俺たち、同じ大学行けるかな?」
「今、頑張ってるよ」
「そしたら、今みたいに毎日会えるんだよね」
「うん」
「早く大学生になりたいなあ。俺だけ高校違って、つまんないや」
 真冬はベッドに顎を乗せて息をつき、俺は少し咲ってその頭を撫でる。今日も真冬の髪はさらさらしていて指を癒してくれる。「すぐなれるよ」と俺が言うと、真冬は上目遣いをしてうなずく。
「もっと大人になったら、一緒に暮らしたりもしよう」
「そんなこと言って、ほかの男のとこに行ったりすんなよ」
「真冬こそ」
「俺は映乃以外ないし」
「俺も真冬だけだよ」
 俺たちは瞳を絡め、軽くキスを交わした。ほてりが覚めた顔を寄せ合って、笑みを綻ばせる。ずっと真冬といたい。真冬を離したくない。この気持ちが揺らぐなんて考えたくない。同じように、真冬の俺への気持ちも永遠であってほしい。
 俺たちを引き裂くものなどないと思っていた。真冬とのこんな毎日が切断される日が来るなんて、本当に、思ってもみなかったんだ。

第四章へ

error: