引き裂くような夜
夏休みはどんどん過ぎていって、すぐにあと十日くらいになった。
ちょっとくらい遊んだ想い出も欲しかったから、その日、俺と真冬は街に出て、特に行く宛ては決めずに遊歩道を歩いた。通りは俺たちのような夏休みの学生や旅行に来た外国人で混雑していて、はぐれないのが大変だった。家の中ではくっつける俺たちも、人の目があると手をつなぐこともできない。
俺は何度も真冬のすがたを振り返って確かめて、真冬も人を縫って俺を追いかけてくる。前方にカフェを見つけた俺が、「冷たいの飲んで休む?」と訊くと、隣に並んだ真冬はうなずいた。そんなわけで、俺たちはそのカフェに入ってドリンクを注文し、通りに面した窓際の席を確保した。
「あー、何でこんな人多いんだよ……」
アイスカフェラテを一気に半分くらい飲んだ真冬は、大きく息をついてからそう言った。俺はバナナのスムージーをすすり、「夏休みだからなあ」と肩をすくめる。
「家でゆっくりしてたほうがよかった?」
俺がそう気にすると、真冬は俺を見て「そういう意味じゃないけど」とストローに口をつける。
「ま、明日は真冬んちでゆっくりするか」
「ん。でも、映乃とこうやって出かけるのは嬉しいよ」
「そっか。俺も真冬とデートできてるのは嬉しい」
真冬は俺を見て笑みを噛みしめ、俺も微笑んでスムージーで喉を冷ます。
「このあとどうする? 映画館でも入ったほうが涼しいかな」
「観たいのある?」
「そこなー。あったかなあ」
「今たたかれてるのは、漫画実写化した奴」
「たたかれてる奴かよ。実写化は俺もやだ」
「てか、映画館って周りがカップルだらけだときっつい……」
「ほかに、このへんに何かあったか」
「少し先に、レコ屋とか入ったビルなかった?」
「あー、あったかも。とりあえず、どっか入れば涼しいよな」
「そこ行くか」
「行きますか」
「でも、これ飲んでから」
「ゆっくり飲んでいいよ。時間決まってないし」
「うん」
そんなわけで俺たちはのんびりドリンクをすすり、「もう夏休み終わるなー」なんて話をする。夏休みが終わったら、一緒にいられる時間がまた少なくなる。こういうとき、学校が違うのは切ない。深冬と仁奈子ちゃんはいいなあとかうらやんで、早く大学生になりたいなあと嘆く。
「映乃はさ」は真冬が首をかたむけてくる。
「学校に、仲いい女子とかいるの?」
「いないよ。てか、そんなんだったら俺は真冬のほうが心配だ」
「俺?」
「男子校じゃん。真冬かわいいじゃん。絶対狙ってる奴いるぞ」
「俺、『つきあってる奴いるから』って言うし」
「そうか……。いや、違う。それは告られたりされてるってことか?」
「まあ、そうだな」
「やっぱりっ。俺は特に男にも女にもモテないからいいんだよ。真冬はさー、ほんともう……」
「大丈夫だよ。どんなのに告られても、どうせ振るんだから」
「俺よりかっこいい奴とかいるわけだろ」
「かっこいい奴より、俺は映乃がいいんだもん」
俺は真冬を見て、「今キスできない」と言った。真冬は咲って、「気持ち受け取っておく」と空になったグラスでストローを動かし、氷を涼しく響かせる。ここが真冬の部屋だったら抱きしめてるのになあ、とスムージーを飲みこんでいると、「あ、」と真冬が小さく声をもらした。
「ん? 何?」
「あれ。外」
外。真冬の視線をたどると、人混みの中に俺たちと同い年くらいの女の子がふたりいた。俺も声をもらしそうになる。そのふたりが、手をつないで歩いていたからだ。
「……つきあってるのかな」
真冬がつぶやき、「女同士はよく分かんねえけど、かもな」と俺はストローでグラスの中身を吸う。
「いいなあ……」
俺はうらやましそうな真冬をちらりとして、「俺たちもつないでみる?」と言う。真冬は俺を見たけど、首をかしげて、「男同士は目立つよな」と少し哀しそうに微笑した。俺はその笑みを見つめて、それでもいいじゃん、とは言えずにスムージーを飲み干した。
そのあと、カフェを出た俺たちは、話していたビルに向かって、そこに入っているCDショップや雑貨ストアを見てまわった。手をつなげないことが、俺は引っかかっていたけど、真冬はそれを見せないので、何も言わずにただ並んで歩いた。
そして、お互い家の夕飯には帰る予定だったから、十八時になる前に駅に引き返して電車に乗った。少し混み合いはじめていて、揺れて人とぶつかりそうになるとさりげなく真冬のことをかばう。
途中で地下鉄に乗り換え、先に最寄りで降りた真冬は、俺が乗る車両が見えなくなるまで見送ってくれた。手つなげなかった、とため息をついて手すりにもたれた俺は、明日は真冬をたくさん抱きしめてあげようと思った。
相変わらずの家族と夕食を取って、シャワーを浴びた俺は、部屋に戻ってスマホの着信をチェックした。真冬からメッセが来ていて、返事しなきゃ、と思いながらトークルームを開く。そして、そこにあったメッセに目を開いた。
『すごく考えたんだけど、深冬にカムしてみる。
深冬は俺の片割れだから、これ以上隠したくないし、ごまかしたくない。
深冬の前でくらい、きちんと映乃と手をつなぎたい。』
え。え──……
マジか、と俺はまじろぎ、そのメッセの投稿時刻を確かめる。“19:37”。今は、と時計を見ると二十時過ぎだ。
俺の返事を待っているだろうか。もう話しているだろうか。でもとりあえず何か送らなきゃ、と俺は返事を入力する。
『真冬が話したいと思ったなら、いいと思う。
俺とつきあってるのも言っていいよ。
俺にも深冬は親友だから。』
急ぎで打ったそれを送信し、しばらく待ったけど既読はつかない。ということは、たぶん、今話しているのだ。『手をつなぎたい』というところを読み直し、やっぱ気にしてたんだな、と切なくなった。あのときの真冬の瞳は、本当にうらやましそうだった。
冷房を調節して、そうだよな、とベッドサイドに腰かける。片割れ。ただの兄弟でなく、ふたごなのだ。深冬には認めてほしいよな、と俺はスマホを握りしめて目を伏せる。
真冬の返事が来るのを待った。俺の心臓までざわめいて、呼吸を整えて、それを抑える。
深冬。どう思うだろうか。真冬と深冬は仲のいいふたごだ。露骨な拒絶や嫌悪は、可能性は低いと思うけど。分からない。俺はゲイだから、ストレートがゲイをどう感じ取るかなんてしょせんよく分からない。
でも、頼む。頼む、深冬。俺のことはどうでもいいから、真冬のことは受け止めてやってほしい。真冬は本当にお前のことが好きなんだ。大事な弟だと思ってるんだ。だからこそ、打ち明けようとも思った。それを、どうか、理解してやってくれ──
不意にスマホが通話着信音を鳴らして、俺ははっとしてスマホを持ち直した。真冬だ。すぐにスワイプして通話に応答する。「もしもし」と声をかけると、『映乃』と消え入りそうな声が聞こえて、不安がじわりと胸を染めた。
何。何だよその口調。嬉しそうな声じゃないなんて、そんな、やめてくれよ。
「真冬、深冬は──」
『……ダメだった』
「えっ」
『信じて、くれなくて。嘘じゃないよって言ったら、今度は「ちゃんと治してくれるんだよね」って……』
「……真冬、」
『治るとかじゃないよとか言っても、もう、深冬もわけ分かんなくなってたみたいで。治さないなら無理とか言われて』
「それ、は……深冬も混乱してただけだろ。落ち着いたら、」
『気持ち悪いって』
「──え……」
『深冬に、気持ち悪いって言われた……!』
どんな、言葉をかけたらいいのか分からなかった。真冬の嗚咽が耳元に響く。
そんなに、簡単に言われるものなのか。気持ち悪い、なんて。俺と真冬は、信頼している相手にもあっさりそう言われるほど、間違っているのか。
『会いたい……』
「え」
『映乃に会いたい』
「……分かった。すぐそっち行く」
『映乃は』
「ん?」
『映乃は、俺の味方だよな』
「当たり前だろ。つきあってんだぞ」
『ん……。今日は離れたくないよ』
「何なら俺んちに来てもいいし。とりあえず、迎えに行くよ」
『映乃』
「うん?」
『俺のこと、好きだよね』
「………、愛してるよ」
『う……っ、うん。うん。俺も映乃を愛してる』
「すぐ行くから、駅で待ってろ。大丈夫だよ、俺がそばにいるから」
鼻をすすりながら真冬は「うん」「うん」とかぼそく繰り返した。「いったん切るぞ」と言うと真冬は「分かった」と言い、俺たちは通話を切る。
俺はすぐにスマホと財布を持ち、部屋を出た。階段で姉貴とぶつかりかけ、「どこ行くの」と言われて、「すぐ帰ってくるから」とだけ言うと、俺はスニーカーを履いて家を飛び出す。
バスを待っている時間は惜しい。駅まで走って、ちょうど来ていた電車に飛び乗り、各停の焦れったさにいらつきながら真冬の最寄りにたどりつくのを待った。
『今電車乗ったから』と真冬にメッセを送ったけど、既読はつかない。駅前には来ていると思うから、虚脱してしまっているのだろうか。やっと真冬の最寄り駅に到着すると、俺は電車を降りて、改札にそのすがたがなかったので、地上に出た。
きょろきょろしてみるけど、地下鉄の出口がある通りに、真冬のすがたは見つからない。駅で待ってろ、とは言っておいたよな。どうしたのだろう。家を出ようとして、捕まっているとか?
『駅にいるよ』というメッセは飛ばしておいて、俺はあたりを見まわしながら真冬を待った。しかし、なかなか真冬は現れない。深冬には訊けないしな、とスマホを見て、既読もつかないことにだんだん不穏な気持ちが募ってくる。
何だよ。どうしたんだよ、真冬。今、ひとりでいられる状態じゃないだろ。早く俺のところに来いよ。俺は真冬を抱きしめるから。今夜はひと晩じゅう手をつないでいてあげるから。愛してる、ってさっきの電話で初めて言った。初めて言われた。なあ、今度はちゃんと電話越しじゃなくて直接──
そのとき、サイレンが聞こえてきたと思うと、出口に面した車道を救急車が走り抜けていった。俺は無意識にそれを目で追って、赤い回転燈が角を曲がっていくのを見つめた。その道は、真冬の住むマンションへの道だが──
いや、まさか。まさか……と、思う、けど──そのとき、サイレンの音がふっと止まる。
俺は出口を離れて、救急車が消えた道を追いかけてみた。回転燈はまだ赤くくるくるまわっていた。小さな人だかりがある。救急車は真冬のマンションより手前で停まっていて、救急隊員がせわしなく担架を降ろして人だかりに入っていく。
搏動が黒い血を吐いているみたいに気分が悪くなってきて、嫌な予感に息が切れてくる。
嘘だろ。違うよな。この近所の年寄りが倒れたとか、そんなだろ。
「道開けてください」「出血が多量」という救急隊員の声が聞こえてくる。担架が現れて、でもここからでは乗せられた人のすがたは見取れない。でも、不意に垂れた腕がかしゃんとスマホを取り落とした。救急隊員がそれを拾い上げ、何やら操作した。
俺は自分のスマホを見た。
ふっと、既読が、ついた。
「真冬……?」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。何だよ。どういうことだよ。真冬のスマホ? あれが真冬のスマホってことか? てことは、あの腕は、担架に乗っているのは、救急車に運びこまれているのは、真冬なのか?
どうして。何があったんだ。俺はよろけそうな脚で、そこに歩み寄った。
「怖いわねー」
「いつも公園に溜まってた子たちらしいですよ」
「ひどいな。急に後ろからだろ?」
「お金目当てかしら……」
「でも、こんな時間にひとりで出歩いてたのもな」
何……。
何なんだよ……。
そんなのやめてくれよ……。
「──真冬っ!」
そんな声がして、俺ははっとそちらを見る。担架に駆け寄って、「真冬」と名前を繰り返しているのは、深冬だった。真冬と深冬のおじさんとおばさんも、悲痛な声を上げて担架にすがりつく。「ご家族の方ですね」とスマホを操作していた救急隊員が確認し、三人とも担架と共に救急車に乗りこむ。俺はその場に立ち尽くして、動けなかった。
信じられない。信じたくない。何だよ。悪夢? それにしては、むっとした夏の風に、あまりにも血の臭いが──
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