一生、君だけを
すぐに、今度はパトカーがやってきた。そして、テレビの中のドラマみたいに、現場を検証しはじめる。野次馬が増えてきて、俺はおぼつかない脚で地下鉄の出口に戻った。
地面に座りこんで、目をぱっくり開いて、視覚に砂嵐が混ざる。からからの喉に粘ついた唾液を飲みこむ。意識が途切れていくほど、胸の中がかきむしられていく。
真冬。真冬が、襲われたのか? よく分からないけど、後ろから急に? 通り魔? 金目当て? こんな時間に出歩いていたのは──俺のせい、ではないか。
スマホに着信がついた。俺はかたかたと震える手でスマホを見る。深冬だ。『すぐここに来て』という短いメッセと共に、病院の名前が貼られていた。
返事を打とうとしても、指がわななく。既読はもう向こうについてしまっているだろうから、早く応えなきゃいけないのに。深冬のメッセが続いた。
『真冬がヤンキーみたいな連中に襲われた
お願い、来てあげて』
息が、刎ねられたように止まる。
来てあげて、って。俺の……せい、なのに? 俺が駅に出てこいって言ったから。家まで迎えに行けばよかったのに、真冬にひとり夜道を歩かせたから──
俺は過呼吸みたいになりながら、よろよろと立ち上がって病院を検索した。ここからけっこう離れている。俺は財布の中身の余裕を確認してから、ロータリーに出てタクシーを捕まえた。ドライバーに病院の名前を告げて、タクシーが動き出すと、シートに寄りかかってくらくらしてくるほどの頭痛に耐えた。
真冬。まさか、最悪なんてないよな。それはないよな。そばにいるって言ったのに、その約束を破らせないでくれよ。
大丈夫だ。救急車はわりとすぐに来て、運ばれたみたいだし。
でも、出血が多量って言ってた。そんなのないだろ。今日の昼間は、一緒に咲って街を歩いてたのに。その夜にこんなの──
ようやく病院に到着して、真冬の名前を言うと、看護師の表情が曇った。心臓が痙攣しすぎて吐きそうだった。看護師に案内された廊下の先では、おじさんとおばさんが泣き崩れていて、俺に気づいた深冬もぐしゃぐしゃに涙を流していた。俺は怪我したみたいな足取りで深冬に歩み寄った。深冬は表情を崩して、一気に声を上げて泣き出した。
真冬は、俺が来る少し前に、息を引き取っていた。
俺はふらついて、その場に座りこんでしまった。嘘だ。嘘だろ。真冬が死んだ? そんなの嘘だ。まだ抱きしめてない。手もつないでない。真冬は今、まさに心に傷を負っていたのに。俺はそれをそのまま死なせてしまったのか。
どうして。何で真冬が、俺の真冬が、こんなっ……
「……深冬、」
「僕のせいだ……」
「え……」
「僕が、……僕がひどいこと言ったから。びっくりしたからって、あんな……」
「………、」
「ごめん、……何言ってるか分からないよね」
「……いや、分かる……よ」
「映乃……」
「……真冬とつきあってたの、俺だから」
深冬が俺を見て、目を大きく開いた。俺は引き攣った笑いをこぼした。深冬を責めたかった。そうだ。お前が真冬を拒絶しなければ。分かってやってれば、そもそも──
でも、そんな気力もなかった。ただ壊れたみたいな無感覚の涙が頬を伝っていった。
「真冬……何でだよ。ずっと一緒だって言ったのに。何でこんな、こんなのっ……どうして──」
どっとあふれた涙に咳き込んで、俺は廊下を殴った。深冬が謝っていたけど、もうよく聞こえなかった。胸が張り裂けて、暗い穴が大きくなっていく。信じたくない。こんな穴、信じたくない。真冬を失ったなんて、そんなの認めたくない。
感覚がはらはらとこぼれていく。感情がぽろぽろと崩れていく。思考が散り散りに砕けていく。
真冬。
俺をひとりにしないでくれよ。
せめて連れていけよ。
俺もお前をひとりにしたくないよ……
気づいたら、俺は真冬の葬儀に立っていた。俺も、深冬も、おじさんもおばさんも、茫然とするままいそがしく葬儀は執り行われた。柩の中の真冬は、湯灌と死に化粧で綺麗になっていた。俺の知らない真冬のクラスメイトが、泣きながら花を手向けていく。泣きすぎて頭痛がひどいのに、目も腫れているのに、なおも水分が涙になってあふれていく。
花に埋もれた真冬の柩が閉じられ、火葬場に移るとごく親しい人間が最後に贈り物を柩に入れた。俺は何を贈ればいいのか分からなかったから、花のひとつの茎を左手の薬指に巻きつけて、優しく手を握った。その手の冷たさにまた涙がこみあげ、顔を伏せる。
そして、真冬は二時間くらいかけて火葬され、見送ったのと同じ人間が骨を取り上げた。残った骨には花の色が焼きついていた。残るはずの頭蓋骨の形が陥没しているのが、喉を掻っ切られるより苦しかった。
長かった葬儀の一日が終わり、俺はおじさんとおばさんと深冬に家まで車で送ってもらった。「また真冬に会いに来て」と深冬が言って、俺は力なくうなずくと家に入った。
「映乃」
ただいまなんて言わなかったのに、かあさんと姉貴が俺を出迎えた。とうさんはまだ仕事から帰っていないみたいだが、みんな俺のことを心配してくれている。真冬が恋人だったことは言っていないが、親しかったのは家族は知っている。
「つらいな」
姉貴がそう言って俺の頭に手を置いた。姉貴に頭を撫でられるなんて何年ぶりだろうと思った。もう俺は、俺のほうが、真冬の頭を撫でてやる立場だったのに。
「真冬に……会いたい」
「……映乃」
「会いたい、よ……っ」
そう言って、俺はまた泣き出してしまう。かあさんが俺を抱き寄せ、姉貴も俺の頭をさすってくれた。でも、誰にどんなことをされても、俺の涙は止まらない。真冬じゃないとダメなのだ。真冬が、俺の手を取って、腕にしがみついて、幸せそうに咲ってくれないと──
空っぽのまま、ぼんやりしているうちに二学期が始まっていたが、家族は俺に学校を急かさなかった。それでも、九月の半ば頃にようやく朝起き上がることができて、久しぶりに制服を着た。
制服すがたで一階に降りると、「大丈夫か」と鉢合わせたとうさんが言って、俺は無言だったもののうなずいた。「そうか」ととうさんは俺の肩を励ますようにたたいた。かあさんは俺でも食べれるようにお粥を作ってくれて、それを食べて俺は虚ろな気分のまま残暑が厳しい朝の光の中を歩いて、電車に乗って、半月遅れで教室に顔を出した。
「映乃くん、おはよう」
ざわめきの中からそう声をかけられて振り向くと、仁奈子ちゃんだった。俺は明るい教室に深冬のすがたがないのを見て、「深冬は」と訊いてみる。
「ほとんど学校来てない」
「……そっか」
「でも、映乃くんに会いたいって言ってたよ」
「………、うん」
「つらいと思うけど、よかったら家に行ってあげて」
「ん……分かった」
俺は弱々しく微笑んでから、自分の席に荷物を下ろした。もう真冬と同じ大学に行けることもないのに、勉強なんか意味があるのだろうか。そんな思いがちらついて、無気力が押し寄せたけど、何とか席に着く。
深冬の家か。もう真冬の仏壇とかあるのかな。きついな、と俺はつくえに伏せて、手負いの動物みたいに浅く呼吸した。
夜になると、軆がベッドにどろどろに溶けて、真冬を想って涙が止まらなくなる。真冬と想いが通じて、抱きしめたときの体温。そして初めてキスをした。涙が滲んで舌に染みた塩の味。あのときはあんなに愛おしかった塩の味が、今はひりひりにからくて仕方ない。
こんな現実、嫌だ。真冬をもう抱きしめられない。キスもできない。触れることができないのだ。声も聴けない、匂いも嗅げない、真冬はいなくなってしまった。
死ぬって、なんて残酷なのだろう。まるで真冬が幻だったみたいだ。俺は確かに真冬をきつく抱きしめていたのに。自分でさえ、その感触が信じられなくなってくる。真冬に「好きだよ」とささやかれないと、正気が吹っ飛んでしまいそうなのに、もう絶対に真冬の声はこの世に存在しないのだ。真冬を愛している俺の心だけが取り残されて、気持ちは滔々と溢れて、でも受け止めてくれる真冬がいない。
「映乃」
高校二年生をひかえた春休み、誰もいない家で真冬と初めて寝た。真冬は喘ぎ声を上げるのを恥ずかしがって、俺にキスで口を塞いでほしがった。俺は声を聴きたかったけど、真冬がそうしたいならといっぱいキスをしながら真冬を抱いた。終わったあと、息を切らして仰向けになっていた真冬は、不意に俺の名前を呼んだ。「んー?」と真冬の髪を梳いていた俺は真冬の目を見る。
「俺……よかった?」
真冬ははにかみながらそう訊いてきて、俺は微笑むと「すごいよかった」と真冬の頬にキスをした。
「真冬は?」
「気持ちよかった」
「そっか」
「へへ。映乃とこんなまでできるなんて、夢みたい」
「えー、つきあってたらするだろ」
「というか、俺、映乃に嫌われたんだって一回思ったからなあ」
「それは──俺が素直に告白しなかったのが悪いんだよ。ごめんな」
真冬が俺を見上げてくる。「何?」と笑むと、「映乃は優しい」と真冬は俺の首に腕をまわす。
「そんなの、俺だって好きだって打ち明けなかったのも悪かったんだ」
「真冬は悪くないよ」
「じゃあ、映乃も悪くない」
俺は咲って、真冬の背中に腕をまわした。汗がほんのり残っている。真冬の匂いが柔らかに立ちのぼる。
「真冬」
「うん」
「すごく幸せだ。ありがとう」
「映乃……」
「真冬のことがずっと好きだよ」
「……俺も、映乃が好き。一生映乃しかいらない」
──一生。
ほんとに、一生なんて。
それがこんなにも哀しいことになるなんて、あのときは思わなかった──
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