指先に触れる君が-6

切ない魔法

 まだ暑いけど九月が終わりそうな頃、朝の教室でぼんやりしていると「映乃」と声をかけられた。その声に思わずはっとしたけど、そう、この世界には真冬の片割れなら残っているのだ。まったく同じ声も、深冬のものだった。
 俺は息を吐いて、「よう」とうつむきがちに応える。どうしても目を合わせられない。
「少し話したいんだけど、いいかな」
「……今?」
「ううん。放課後、家に来てくれたら」
「………、分かった」
「じゃあ、帰りにまた声かける」
 俺が「ああ」と言ったとき、「深冬」と仁奈子ちゃんが駆け寄ってくる。「大丈夫?」と心配されて、「うん」と深冬はそちらを向く。
「ごめん、なかなか学校来れなくて」
「……あんなことがあったんだもん」
「でも、一番つらいのは僕じゃないから」
「そんなことないよ。やっぱり、つらいのは深冬だよ」
「………、あ、それより仁奈子、ノート取ってくれててありがと。勉強追いつけそう」
 ふたりの話し声が、朝の教室の雑音に混じっていく。
 何でこんなことになったんだろ、と額を抑えて肘をつくえにつく。俺と真冬が、深冬と仁奈子ちゃんのように、男女だったらこんなことにはならなかったのか? つきあっている人がいるという報告で、深冬は真冬を拒絶したりしなかっただろう。むしろ祝福して、相手が俺ならなおさら喜んでくれて──
 教室で弾ける笑い声が耳でざらざらして不愉快だ。窓できらきらしている朝陽は目に刺さる。今日も、真冬のいなくなった世界が平然と始まっていく。
 今日も授業は上の空で、教師に何度か注意されたが効果はなく、ぼおっとしていたら放課後になった。ため息をついて、一学期は終業はこれから真冬に会えるのが楽しみな瞬間だったのに、と思うとまた苦しくなった。
 教科書をまとめていると、「映乃」と呼ばれて振り返る。深冬が立っていて、そういえば放課後に約束をしていたのを思い出した。仁奈子ちゃんがいないので、「いいのか」と確認すると「真冬と映乃のことを話したいから」と返されて「そうか」と虚ろに答える。
「あ……もし、僕の家がつらかったら、どこか店でもいいよ」
「いや、……行くよ。いつか行かないといけないしな」
「ごめん、無理させて」
「気にすんな。行くか」
 そうして、俺は深冬と教室をあとにした。
 あんまり言葉は交わさなかったが、それでよかったかもしれない。真冬と同じ声を聞いているのに、それが真冬ではないのはつらい。口調の端々が違うから、真冬だと錯覚することはないけれど、やはりひどく真冬を思い出すから、みぞおちが痛む。
 最寄り駅で降りて、出口に出たとき、フラッシュバックが襲ってきて立ち止まってしまった。既読のつかないスマホ。サイレンと赤い回転燈。担架から垂れた腕──「映乃」と呼ばれてはっとして、深冬に気づき、「悪い」と俺はその隣を追いかける。
「ここ歩くの、平気か」
「……怖いよ。暗くなったら通れない」
「うん……」
「映乃も、ここにいたんだっけ」
「ん、まあ……」
「真冬が飛び出すの、せめて追いかければよかった」
「……俺が家まで迎えにいったらよかったんだよ」
「でも、あのとき、真冬はもう家にじっとしてたくなかったと思う」
 俺は口をつぐみ、深冬も深呼吸して歩き出す。救急車が停まっていたあたりにさしかかると、あの夜の光景が頭の中に切り刻まれて、涙が落ちそうなほど息ができなくなった。俺たちはそこを直視できず、うつむいて足早にマンションに前まで行き着いた。
 三階まで階段をのぼる。そして久々に、真冬にいつも引っ張りこまれたドアの前に立つ。深冬は鍵を開けて、「今日は、とうさんもかあさんも仕事行けたみたい」と真冬の靴しかない玄関を見てつぶやいた。「真冬の靴」と言うと、「こうしてたら家の中にいるみたいだから」と深冬は靴を脱いだ。
 俺は唇を噛み、自分も靴を脱いで家に上がった。深冬は自分の部屋に俺を通し、あんまり見慣れないその室内で俺は荷物をおろして、ベッドサイドに腰かける。
「あの日のことは聞いたけど、真冬とのことはちゃんと聞いてないなって」
 烏龍茶のペットボトルを俺に渡して、自分はレモンティーのペットボトルで、深冬はそう言うと俺の隣に座った。冷蔵庫に入っていたのか、烏龍茶はしっかり冷えている。それに手のひらを当てて神経をなだめながら、「二月くらいからつきあってた」と俺はぽつりと答える。
「今年の?」
「そう。片想いだと思って、俺は何も言わなかった。その態度に、真冬が傷ついてさ」
「傷つく……」
「自分の気持ちが気持ち悪いのか、って。そうじゃない、好きだって気づかれたら俺こそ嫌われると思って、距離置いたとか言って」
「真冬から告白したんだ」
「お互い確認しただけだけどな」
「………、真冬、つきあってる人がいるって言ったんだ。誰とは言わなかったけど。ただ、それが男だって言って」
「……ん」
「僕は最初、冗談かと思った。でも、真冬は真剣な顔してるし。そしたら、何か、頭の中ごちゃごちゃになっちゃって。同性愛に偏見があるつもりなかったのに、何か、真冬だと信じられなくて。身内で、そんな……男同士、とか」
「……うん」
「だから、治してよって言った。別れて、女の子とつきあって、治そうって。そしたら治るからって……そんなんじゃない、治るものじゃないし、好きな人とも別れたくないって真冬は言った。どうしてもその人が好きだから、仮に治るものでも自分はその人を好きでいたいって」
「………、」
「それで、僕が、僕はそんなの嫌だ、そんな真冬は気持ち悪いから嫌だって……」
 深冬の腕が震えて、ごとんと音を立ててレモンティーのペットボトルが床に転がる。それを拾うこともなく、深冬は顔を覆って肩をおののかせた。
「僕のせいなんだ」
「深冬……」
「僕が理解しなかった。受け入れなかった。ひどいこと言った。全部そのせいなんだ」
「……まあ、普通はホモとか打ち明けられたら──」
「そんなこと、映乃が一番思ってないでしょ。僕が悪いって思ってるよね。分かってる。ほんとにごめん。僕は真冬のために泣く資格もない。映乃から真冬を奪ったんだ」
「……深冬を責めても、仕方ないだろ。分かってるよ」
「いいんだ、僕のこと許さなくて。もう親友じゃないって言われても当然だし。真冬が、あんなに必死につきあってる人が大事だって言ってて、何で僕は分かってあげなかったんだろう。僕にだって仁奈子がいるんだから、恋人の大切さは分かってたのに。真冬に謝りたい。でも、真冬は……全部、僕のせいだ」
 俺はうつむき、嗚咽をもらす深冬に何も言えなかった。
 許さず、このままペットボトルを投げつけて帰りたい気もした。許して、その肩を抱いてやって俺も同じ気持ちだとなぐさめたい気もした。どちらなのか分からない。どちらが正しいのかも分からない。だから結局何もせず、靴はあるのにやっぱり真冬がいないこの家の欠落感を、心の空洞にひりひりと感じ取った。
 それからも、真冬のいない日々が淡々と過ぎた。十月になって、中間考査はぼろぼろだった。教師の説教も、頭に何の痕跡も残さなかった。ただ、最近頻繁に浮かぶのは、俺も死にたいな、という想いだった。
 何だか、今なら死ねる気がする。飛び降りても、飛び込んでも、首をくくっても、何も感じることなく死を受け入れられる気がする。手首の動脈を切るイメージに恐怖がないことに、まだ少しぞっとするけれど。それにすら何も感じなくなったら、俺はいよいよ死ぬのかもしれない。
 そうしたら、真冬に会えるかもしれないのだ。何を躊躇う? 死ねば真冬に会えるのなら、何も怖くないではないか。むしろ喜ばしい。真冬にまた会える。真冬に──真冬に、会いたい……
 その日、またしばらく学校に来なくなっていた深冬が、久々に登校していた。その真冬そっくりのすがたを、俺は相変わらずまともに見ることができない。そんな俺を察してか、深冬も俺に無理に話しかけてこなくて、仁奈子ちゃんに心配されながら過ごしていた。
 俺は授業もろくに聞かず、静電気のような希死念慮に少しいらつき、まぶたの裏では真冬の顔がかすれはじめていることに絶望していた。放課後になると、とりあえずさっさと帰宅するようになった。そんな俺を「映乃」という声が引き止め、振り返ると深冬が背後に立っていた。
「……何だよ」
「少しいい?」
「仁奈子ちゃんは」
「先に帰らせた」
「はあ……」
「この学校で、どこか人のいないところってある?」
 俺は眉を寄せて深冬を見つめたが、「放課後は屋上に行く奴いないだろ」と何も取り立てずに言う。
「そっか。じゃあ、屋上行こう」
「何だよ。別に、この教室でいいだろ」
「ここはダメ」
「何で」
「話があるんだ。その──真冬のことで」
 俺は深冬の顔をやっと見た。そして、その表情からなぜか自罰的な影がなくなっていることに気づいた。
 真冬のこと。何か分かったことでもあるのだろうか。だが、それがどんなことでも、真冬が戻ってくる魔法であるのはありえない。それでも俺は息をつき、「分かった」と深冬は親友だからとか何とか自分で自分を説き伏せて、ここは従うことにした。
 屋上に出ると、冷たい風が音を立てて吹いていて、人影はなかった。「もうこんなに寒いのか」と深冬はつぶやき、それから無気力を表わす俺を振り返ってくる。小さく首をかしげ、俺の正面に歩み寄ってくると、「あのさ」と眇目を向けてくる。
「分かんない?」
「……は?」
「分かんないの?」
「………、さあ」
 俺がそう言って目をそらすと、急に深冬は俺の胸倉をつかんできた。え、とまたたいた既視感に俺は深冬を見る。深冬は俺に顔を近づけ、きっと睨みつけてくる。
「映乃」
「えっ……いや、深冬?」
「深冬じゃない」
「はっ?」
「俺は深冬じゃない」
 ……『俺』? 深冬じゃない?
「俺のこと忘れたの?」
「え……な、何、わけ分かんね──」
 言い終わる前に、深冬が俺の口をふさいだ。背伸びした深冬の舌が俺の竦んだ舌を絡め取って、優しく愛撫する。舌の動きが懐かしい。いつも俺を癒していた舌のまわし方。
 何で。
 え?
 ……深冬、だろ。
 でも、深冬がこのキスを知っているはずは──
 そっと、唇がちぎられる。睫毛が間近で触れ合いそうになる。したたった唾液を舐めて、深冬は俺の首を腕をまわして抱きついてきた。同じ軆。そう、同じ軆だ。でも、心はもう、半分しかこの世に存在しない。俺が愛したほうの心は、魔法にでもかからない限り、絶対に触れられない。
 なのに。
「映乃。会いたかった」
「……真、冬?」
「うん。へへ、やっと気づいた」
「え……な、何、えっ? ほんとに真冬?」
「そうだよ」
「え、じゃあ深冬は? は? つか幽霊?」
 深冬は微笑んだ。真冬とそっくりの顔で。かすれようとしていた真冬の顔が、くっきりよみがえる。違う。そう、この表情は深冬じゃない。ちょっとやんちゃで、口の悪い、でも飛び切り甘えん坊の──
 自然と、涙があふれてきた。わけが分からない。とっさに信じられない。でも、真冬だ。今、俺の目の前にいるのは真冬だ。確かに真冬なのだ。そう思うと、涙が止まらない。真冬を失ったとき、あんなに涙は無感覚に流れていったのに、今、ひどく息苦しく涙がこみあげてくる。喉をきつく絞られ、目頭がほてり、涙が流れてくる。
 俺の軆に軆を重ねていた真冬が、俺の涙を指先ですくってはらってくれる。そして、「ただいま」と俺の耳元でささやいた。俺は真冬をぎゅっと抱きしめると、「おかえり」と嗚咽混じりに何とか答えた。
 真冬。俺の真冬。何の魔法かはまだ分からないけど、帰ってきてくれた。死に別たれたことさえ乗り越え、真冬が今、俺の腕の中にいる。

第七章へ

error: