指先に触れる君が-7

醒めないために

 やっと涙が落ち着く頃には、空ではオレンジとピンクが溶け合って夕暮れになっていた。真冬はずっと俺の軆にしがみついて、その体温を感じさせてくれていた。
 俺は鼻をすすって軆に隙間を作り、真冬を覗きこんだ。真冬も俺を見上げてくる。俺は真冬の頬に触れ、「触れる」とつぶやいた。
「幽霊って触れないと思ってた」
「軆は深冬だからな」
「え……えっ?」
「ふたごだからかな、するっと入れた」
「するっ……と、入ったのか? え、軆は深冬?」
「そうだよ」
「じゃ、じゃあ、乗り移ってるってことか?」
「近いかな」
 冷静にうなずく真冬に反し、俺の頭はまたこんがらかってくる。
「だったら深冬はどうしたんだよ。その──深冬の心というか、意識?」
「死んでる」
「はっ? 憑り殺したのか」
「俺もそこまでしないし」
 真冬は眉を寄せて言うと、軆を離して腰に手を当て、ふうっと息をつく。
「深冬が、ここんとこずっと引きこもってたのは知ってる?」
「学校には来てないみたいだったけど」
「深冬、自分のこと責めて鬱状態がひどくなっててさ。ついに精神的に限界超えちゃったんだ。ふらっと魂が抜け出しちまったらしい」
「死んだってこと?」
「魂が抜けたままほっといたら、自殺とかやって死ぬ。だから、俺が入ってとりあえず軆を生かしてるんだ。深冬の魂は保護するって言ってた」
「誰が」
「天使的な人」
「天使……」
「いきなり信じられないのは分かる。俺も死んだの認めるまで一ヵ月くらいかかった」
「死んだ……のか、やっぱり」
「死んだよ。俺の軆がもうないのは、映乃も知ってるだろ」
 俺は真冬を見つめ、真冬は左手を持ち上げて薬指を見せてくれた。そこにタトゥーのように、小さな赤い花と巻きつく茎が描かれていることに目を開く。
「これ……」
「帰ってきたけど、ずっと一緒ではないんだ」
「え」
「この花が消えたら、深冬がこの軆に戻る準備ができたって合図。俺は離れなきゃいけない」
「すぐなのか?」
「分からない。三日かも。十年かも」
 俺は急に不安になって、真冬の手を握る。真冬は小さく微笑むと俺の手を握り返し、「三日でも、あのまま会えなかったよりいいだろ」と俺の手に頬を当てる。温かい。真冬に体温がある。それだけで俺は泣きそうになってしまう。
「ごめん、映乃。俺がしっかり注意してれば、こんなことにはならなかったのに」
「真冬は……悪くないよ」
「でもヤンキーにボコられて死ぬとか、」
「真冬は悪くない。真冬を……傷つけた奴が悪いんだ。みんな、真冬を泣かせた奴が悪い」
「………、深冬も入ってるの?」
「ひどいこと言った深冬も、そのときそばにいなかった俺も、そういう奴が悪いんだ。真冬だけは、ほんとに何にも悪くない」
「でも俺が、『明日会えるなら大丈夫だよ』って強かったら、」
 俺は真冬をもう一度抱きしめた。真冬が腕の中で震える。「真冬をこうしてあげたかった」と俺は絞り出して、真冬の頭を撫でる。
「あのとき、真冬をこうやって……抱きしめて、『俺がそばにいる』って言いたかった。俺が真冬を守りたかった。いや、あの日手をつなげばよかったんだ。嗤われても、指さされても、俺が真冬を守って、手をつないで外を歩けば、」
「映乃……」
「俺がビビッて手をつながなかったのが悪い。あいつらホモかよって言われるのが怖くて、真冬を傷つけたから」
「深冬には……ずっと言いたかったから。よかったんだよ」
「よくない。あれがなかったら、こんな──」
 言い終わる前に、真冬が俺の口をキスで塞ぐ。俺は言葉にならない想いを、舌を絡めて伝える。溺れながら口づけあうようにむさぼって、不意に真冬が顔を離した。
 そして俺の頬をさすり、「映乃の気持ちが強くて、また会えたのはほんとだよ」と言った。俺はまた涙で視界がぼやけていたけど、うなずいた。真冬が微笑んでくれたのが、緩んだ視界でも分かった。
 真冬。ずっと一緒ではない、なんて。そんなのは嫌だ。離れたくない。何か方法はないのだろうか。むごいことを考えているのは分かっている。深冬の魂をつぶして、このまま真冬にそばにいてほしいなんて、きっと最低だ。でも、せっかくこうして、また真冬に触れられるのに──
 鍵をかけられる前に、ひとまず俺たちは屋上を出た。人気のなくなった校舎を抜けて、学校をあとにする。駅までの道のりで、「こっちに来る前に、いろいろ説明はされたから」と真冬は冷たくなった風に揺れた髪を抑えて俺を見上げた。
「そういうのは、また明日話すよ」
「明日も、ちゃんと真冬だよな」
「分かんないけど。まあ、深冬の状態はかなり悪かったから、一日で回復はないだろ」
「そっか……」
「今、俺が深冬の軆に入ってるっていうのは秘密な。とうさんとかあさんにも話さないし」
「そう、なのか」
「話しても、信じるか分からないよ。深冬の頭がイカれて、俺に憑りつかれた妄想を始めたとかって、騒いだら面倒だろ。俺は映乃に会えたらそれでいいんだ」
「……ん。分かった」
「また明日、深冬のふりして学校行く。へへ、映乃と同じ学校に通えるの嬉しいな」
「うん。俺も嬉しい」
 真冬は俺を見てにっこりして、ああ、真冬の笑顔だなあ、と思った。やっぱり確かに、深冬の笑顔とは違う。俺が死ぬほど守りたかった笑顔だ。その笑顔が、今ちゃんと俺の隣にある。
 幸せだなあ、と思うとまた何だか泣けてきて、もう自分で笑ってしまう。「何?」と訝ってきた真冬には首を振り、「真冬がそばにいる」と言って、俺はその頭に手を置く。すると、真冬は俺を見つめてはにかんだ幸せそうな笑みを見せてくれた。
 翌日、俺はすべて都合の良い幻だったのではないかと不安を感じながらも、学校に急いだ。朝の教室で真冬は仁奈子ちゃんと話していたから、やっぱ深冬なのかも、と思ったが、真冬は俺のすがたを見つけると手を振ってくれた。真冬、と言いかけ、「深冬、おはよう」と間違えないようにしながらそこに歩み寄る。
 すると、真冬は「おはよ」と微笑み、「深冬が元気になってきた」と仁奈子ちゃんも笑顔になった。俺は「そっか」とうなずきつつ真冬を見て、すると真冬は、「あとで昨日の続き話すね」とにっとする。「何?」ときょとんとした仁奈子ちゃんに、「仁奈子ちゃんには秘密ー」と真冬は言い、すると仁奈子ちゃんは「仁奈子ちゃん?」とちゃんづけに怪訝そうにした。
「あ、」と口が滑った真冬の様子に、俺はその中身がちゃんと真冬だと確認できて、ほっとしたのもあって笑ってしまう。「変なの」と俺が言うと「ほんと」と仁奈子ちゃんも笑い、「ごめん、仁奈子」と真冬は笑ってその場をごまかしていた。
 真冬とゆっくり話す機会は、昼休みになってやっと訪れた。何しろ、深冬がやっと前向きになってきたと思っている仁奈子ちゃんがいる。放課後と違って人はいるけど、ざわつくほど混みあっていない屋上で、「何、深冬と仁奈子ちゃんって」と真冬は若干もやっとした口調で言った。
「あんなに常にべったりしてたの? 休み時間ずっと? くっそ、同クラくっそ」
「真冬、言葉が」
「俺は映乃と学校すら違ったのに」
「仁奈子ちゃんには、事情話したら」
「あんまり言い触らさないようにって言われてるからなあ。仁奈子ちゃんは、俺には話すほど重要な相手じゃないし」
「そっか。まあ、頑張れ」
「女にべたべたされんのもきつい……」
「あとで俺がなでなでしてやるから」
「映乃のことしか考えてなかったなー。深冬の環境も考えるんだよな。それは、昨日とうさんとかあさん見てても思ったけど。俺あんまり明るいとダメなんだよな。笑ってたらおかしいんだよな」
「深冬は魂抜けるほど鬱だったわけだし」
「そうだよな。はあ、こんなんなら化けて出たほうが楽だったかな」
 俺は真冬を見つめ、人差し指でその頬をつついてみた。「何」と真冬は俺に眉をひそめて見せて、俺は「化けて出るんじゃ、触れなかったかも」と言う。すると真冬は俺につつかれた頬に触れ、「そっか」と納得するようにうなずいた。
「映乃には触ってほしいや」
「うん」
「ふたごでラッキー。他人だったら、霊感ある奴じゃないと入るの無理らしいし」
「そうなのか」
「らしいよ。ある程度知ってる奴じゃないと、受け取れないだろ」
「ふうん。そういえば、思ってたんだけど、真冬には今の深冬の状態って分からないのか?」
「今の深冬」
「治ったら戻ってくるんだろ。そうなれば、いきなりその指の花が消えて、人格も変わるのか?」
「たぶん」
 あっさり言われて、「そうなのか」と俺はうつむく。真冬は風に目を細めながら、「怖いこと言えば」とつぶやいた。
「俺がこの軆を乗っ取ることもできるんだ」
「えっ」
「心と軆がごちゃ混ぜになることをしたら、俺の心がこの軆になじんで、離れなくなるんだって」
「ごちゃ混ぜ……」
「ぶっちゃけ、好きな人とのセックスとか」
「……マジでか」
「でも、これは深冬の軆だし、俺も深冬の軆と映乃がやるのは嫌だから、それはしないよって天使的な人には約束した」
「そっ、か。まあ、そうだな。さすがに深冬の軆で抱けるかは分かんねえな」
「うん。だからやっぱ、いつかはまた離れるんだよな。そのタイミングは、ほんと俺には分からない」
「深冬からテレパシー来たりしないの」
「どうなんだろうね。ふたごだから未知数とは言われたけど」
「せめて、前触れは欲しいよな……」
「でも、そんなのあったら何か離れないようにセックスしちゃいそうじゃん。いいんだよ、前触れなんかなくて」
「そうなのかな」
「うん。いつかは、深冬に返さなきゃ。俺も、一生深冬のふりはきついし」
「……そうだな」
 そう答えつつ、もし、と思った。深冬は本当に後悔して、ひどく自責していた。あの深冬が、もし、軆を譲ることで贖罪になるとか思ったら──どうなるのだろう。深冬がいいと言ったら、真冬は軆を受け取ってそのまま、なんて、身勝手な妄想だろうか。

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