耳障りな過去
それから、真冬は俺以外の人には深冬を演じつつ、俺との時間を過ごしてくれた。仁奈子ちゃんといるのが一番大変みたいで、言い訳をつけては俺のところに逃げてくる。少しは合わせないと、と言わなくてはならないのだろうが、いつ終わるか分からない真冬との時間が惜しくて、俺は真冬をかくまうように教室を抜け出して屋上や非常階段で一緒に授業をサボった。
誰もいないところでは、真冬は以前と変わりなく俺に甘えてくれる。もう見れないと思った真冬の笑顔、もう聞けないと思った真冬の言葉、ひとつひとつが愛おしくて、俺は真冬を抱きしめてキスをした。
休みの日もほとんど待ち合わせてデートした。「手、つなぐ?」と訊くと真冬はこくんとして、気候が寒くなってきてくっつく軆の陰で俺たちは手をつなぐ。指が絡み合って、真冬が俺を見て照れながら咲ってくれる。その笑顔を見るだけで、心がいっぱいに満たされた。
だって、もう無理だと思ったのに。そんなふうに真冬に笑顔に向けてもらえる日は、来ないと思ったのに。一度は失ってしまった真冬が、またこうして俺に身を寄せて幸せそうにしてくれている。
背伸びして俺の耳に口を近づけ、「映乃が好き」とささやいてくれる。俺は我慢できなくて、人混みを外れて路地に入ると、真冬をぎゅっと抱いて「俺も真冬が好きだよ」と答える。真冬は俺にしがみつき、ほてった体温が同じになるくらい密着した。
カレンダーはすぐ十一月になり、残暑も過ぎ去って空気がぐっと冷えこむようになった。乾燥した風が切るように通り抜け、冬を招く冷たい雨がときどき降る。空高く晴れた日は、どんどん落ちる枯れ葉が道路を転がっていった。
「保護」されている深冬の魂がいつ戻ることになるのか、怯えながらも俺と真冬は時間を共に過ごした。その日は「映乃の部屋に行きたい」と真冬に言われ、放課後、俺は真冬を連れて家に帰った。
出迎えたかあさんに「おにいさんのこと、つらかったわね」と言われた真冬は、あやふやに咲って「ご心配おかけしました」と頭を下げていた。それから二階の俺の部屋に入ると、「映乃の部屋ってあんまり来れなかったんだよなあ」とつくえやベッドや本棚を見て真冬は嬉しそうに懐かしんだ。
「映奈が危険だったからな」
「おねえさんだっけ?」
「うん。突然部屋に入ってくるとかやりそうだし」
「それは、俺の家でも深冬がやってたけど」
「いや、もっとデリカシーない感じ。そのままそばで菓子食いはじめたりする」
「ふうん」
「しかも夏場は下着だけでうろうろするし。うぜえ……」
俺はベッドに腰を下ろし、制服のネクタイを緩める。真冬は俺の隣に座り、肩に頭を乗せてくる。俺はちょっと咲って真冬の頬に触れ、軽く唇に口づける。真冬は上目遣いで俺を見たあと、「たまに」と睫毛を伏せる。
「つらいね」
「えっ」
「できないの」
「できない」
「そういうこと」
「……エロいこと?」
「ん。何か、頭では分かってるんだけど。これは深冬の軆だって」
「……うん」
「でも、キスはしちゃってるし。何かもう、やろうと思えばセックスできるんじゃねって思う」
「けど、そしたら──」
「深冬がこの軆に戻れなくなる」
「そう、……だよな」
「でも、映乃としたいなあ。無理なのかなあ」
真冬の髪を撫でつつも、俺はむしろやってしまいたいと思うことを言えなかった。このまま、真冬とひっそり過ごしていけるなら、……深冬が帰ってこなくてもいい。
ひどいことを考えている。分かっている。でも、俺の心からもう真冬を引きちぎってほしくない。こうして髪に触れ、その匂いを感じることもできるようになったのに、再び真冬と遠く隔てられるなんて嫌だ。真冬を失くしたくない。ずっと腕の中に捕まえていたい。真冬を抱くことでそれが叶うなら、本当は真冬を犯してでもそうしたい。
しかしそれは胸を秘め、俺は真冬の頭を撫でながらキスをした。真冬の舌が応えて絡みつく。深く求めて、むさぼって、不意に真冬が顔を離した。「真冬」と名前を呼ぶと、「キスだけで頭の中いっぱいになりそう」と真冬は切ないような哀しいような笑みで、俺の胸に顔を伏せた。真冬と、理性を失うことができない。確かにけっこうこたえるな、と思う。でも、まだ今は、せめて真冬を抱きしめられることを噛みしめた。
日が短くなってきた。暗くなる前に、俺は真冬を地下鉄の駅まで送った。「マンションまでついていこうか」とあの道をひとりで歩かせるのを心配すると、「遠まわりして帰るから」と真冬は微笑んで、ひとりで改札を抜けていった。俺は息をついて地上に出ると、バス停を通り過ぎて、夕方の賑わいがある商店街を歩いていった。
深冬はどうしてるんだろうなあ、とぼんやり考える。「保護」されているということは、治癒を施されているのだろうか。恐らくだが、心が仮死とか昏睡の状態にあるのだろう。精神的に意識が戻れば、軆に戻ってくる。
でも、軆から魂が離れるほどの鬱状態ってすごいな、と思う。あの日、俺が真冬と深冬の家を訪ねた日、確かに病的に自分を責めてはいたけれど。そこまで自罰に追いつめられたのか。
けれど、あいつらは本当に仲が良かった。そんな大事な片割れの未来を奪ったなんて事実は、持ちこたえられないほど重いのかもしれない。
目を覚ました深冬が、もしその重圧に耐えられないと思った場合は、どうなるのだろう。そうしたら、真冬があの軆を借りるまま俺のそばにいてくれることになるのか。それとも、そこはさすがに「耐えて生きろ」と軆に還されるのか。そのへんのファンタジー的な現実は俺には分からない。
深冬が戻ってくるまで。真冬と失われた時間を過ごせるのは、深冬が目覚めるまでなのだ。真冬が死んだ事実はどうやっても揺るがない。今は奇跡的に俺の隣にいるけれど、やはり越えてはならない一線で隔離されてもいる。夢を見ているようなものだ。いつかは覚める。真冬がまた、俺のそばからいなくなってしまう──
それが怖くて仕方なくて、発狂しそうだ。また真冬がいなくなるなんて、嫌だ。真冬なしでどうやって生きていけばいいのか分からない。真冬の笑顔、言葉、体温、それらが存在しない世界でどう生きろというのだ。
俺はひとりになりたくない。真冬の代わりはいらない。真冬じゃないと、俺は生きていけない。死んだように死ぬのを待つことしかできなくなる。だから、俺は深冬に言えるものなら言いたい──
そんなに自分を責めるなら、この世に戻らないことで償えよ。
俺は紺色が落ちてくる空を見上げた。むごいなあ、と我ながら思った。真冬が死んだのは、深冬だけが悪いのではない。分かっている。悪いと言えば俺だって悪い。なのに、真冬との時間を愛惜するあまり、深冬に対して酷なことを考えてしまう。深冬だって、いなくなれば哀しむ人がいるひとりの人間なのに。
「ただいまー」
家に帰りつくと、習慣でそう家の中に声をかけた。すると、「映乃帰ってきた」と姉貴の声がして、「映乃も久しぶりだなー」という声が続く。その声に聴き憶えがあって、ん、とスニーカーを脱ぐ動きを止めた。
足元には知らない靴もあることに気づいていると、姉貴がダイニングからぱっと顔を出して、めずらしく笑顔なんか向けてきた。相変わらず緩い服装だが、寒くなったので下着すがたではない。
「何? 誰か来てる?」
俺がそう訊くと、「聖ちゃん」と姉貴はにやりとした。
「セイ……ちゃん」
「憶えてるでしょ。三年前に引っ越した聖ちゃん。あんたが中学のときまで、この家の並びに住んでたじゃない」
「聖……え、もしかして聖真?」
「相変わらず、生意気に呼び捨てかよ」
そう言いながら、姉貴の後ろからすらりとしたモデルみたいな男がひょいと顔を出した。伸ばした髪と愛らしい顔立ちのせいで、女かと一瞬思うような男。俺はその変わらないすがたに固まってしまったが、聖真のほうは「男らしくなったじゃん」とにやにやした。
「え、聖真って、おじさんの仕事で引っ越し……」
「三年ぐらいで戻るとは言ってただろ。何だよ、完全に忘れてんじゃん」
「え、いや──憶えてるけど」
「そうかよ。大学もこっち受けるし、戻ってきたんだ」
「そう、なのか」
「何か嬉しくなさそうだなあ。映奈は喜んでくれたぞ」
「映乃より聖ちゃんのほうが弟としてかわいいからな」
「映奈分かってるー」
俺は顔を伏せた。聖真。ひとつ年上の幼なじみ。中二のとき、おじさんの仕事の都合で引っ越していった。そのまま忘れていた。忘れたかったから忘れた。だって、聖真は──
「映乃。ふたりで積もる話でもしようぜ」
聖真が歩み寄ってきて、俺の肩をたたく。俺はぎこちなくならないよううなずきながら、スニーカーを脱いで家に上がった。「生意気」と聖真は咲って、俺の頭に手を乗せる。
「身長変わんねえじゃん」
「聖真が止まってんだろ」
「っるせえなあ。映奈、映乃借りるわ」
「映乃は聖ちゃんの言うことは聞いてたから、いろいろしかってやって」
「了解」
「別にしかられることやってねえし」
「そうかー? 俺は映乃に言いたいこといろいろあるんだけどなー」
俺は聖真をちらりとして、真冬帰したあとでよかった、とは思った。黙って二階へと階段をのぼり、聖真は飄々とそれについてくる。「メール」と不意に聖真が口を開き、ドアノブにかけた手を俺はどきんと止める。
「もうすんなって言って、アドレス変えたよな」
「……もう話す内容どうでもよくなってただろ」
「俺は映乃とつながってたかったよ」
「別にそんな、」
「俺の気持ちは知ってたくせに」
俺は眉を寄せて唇を噛み、ドアを開けた。すると、聖真は俺の手首をつかみ、部屋に踏みこむと俺を壁に押しつけてきた。キスされそうになって顔を背ける。「駅のほうに歩いてるの見たよ」と聖真は俺の手首を締めつける。
「あの男が、映乃の彼氏?」
「……っ、ちが、う」
「映乃は分かりやすいから、男ができたから俺を突き放したんだと思ったけど」
「あれは、弟、だから」
「弟?」
「あいつの兄貴が好きだった。そうだよ、そいつとつきあうから……聖真のこと拒否った」
「弟ともずいぶん親しそうだったね?」
「今は、お互いで支え合うしかないから」
「映奈が言ってたけど、映乃、友達が死んだんだって?」
「っ……」
「死んだって、その兄貴?」
「そう、だよ」
「……ふうん」
聖真は手首を締め上げていた手を緩めて、俺は聖真を突き飛ばすと息を吐いた。聖真は部屋を見まわし、「懐かしいなあ」とつぶやいた。
「ここで映乃の童貞もらったこと」
【第九章へ】