彼女に出逢うまで
俺みたいなくそったれ野郎も、なかなかいないかもしれない。クズ。ゴミ。カス。自分をいくら罵っても、もう何も感じないほどの無神経野郎。
愛になれなかった。愛をぶちのめした。そして、愛は持てなかった。
もうひとりだ。最期までひとりだ。いいところまで行ったのに。お前を見つけるまでは行ったのに。何で今、お前は俺のそばにいないんだ。莉那。
どうして、俺はお前を失ってしまったのだっけ──
心がまだ無垢に透明だった頃から、俺は目障りな廃棄物だった。父にとっても。母にとっても。ふたりはしょっちゅう喧嘩をしていた。
いつからなのかは分からないが、とにかくふたりは、俺が物心つく頃にはまったく愛しあっていなかった。そして、見切った伴侶は憎くても子供はかわいい、という心もなかった。むしろ、終わった関係のあと、離婚をしようにも処理をややこしくする荷物だった。
あの子さえいなければあなたとはさっさと別れるのに。だったら君があいつを連れて出ていけばいいだろう。何で私があなたなんかとの子供を引き取るの。僕だって別れたあとも子供なんか連れていたら仕事の邪魔になるんだ──そんな泥をなすりつけあうような、俺の心を突き裂く言葉の応酬が毎晩続いた。
うるさくて眠ることすらできない。父も母も、いらついた神経をよく酒で鎮めていた。そして父は寝室のベッドで、母は和室にふとんを敷いて、別々に寝る。やがて俺も、その神経をなだめる液をこっそり舐めて寝るようになった。
ビールだったり、ワインだったり、それがすするようになり、ついで未成年がどうだなんてことさえ知らないまま、がぶりと飲むようになった。ミルクよりよほど甘くて、感情も意識も抜け落ちるように失くして眠ることができる。「それ大人しか飲んじゃいけない奴じゃない?」と幼なじみの真凪に言われたけど、俺はとっくに酒を手放すなんて考えられなくなっていた。
ひとりぼっちのまま、中学生になった。俺の近くでうじゃうじゃしている奴らならいたけれど、そばで寄り添ってくれる奴はいなかった。それでも、独りになりたくなくて誰かがいる場所になるべく通った。だから、学校にもわりとちゃんと行っていた。
麻乃のことは中一のときから知っていた。ひどいイジメに遭っている。容姿が中性的で美しいことを妬まれて。中二のとき、同じクラスになって、みんなが笑っている中でぼんやり笑いながら、俺は何気なく窓を見た。
そして、目を開いた。麻乃がロッカーに足をかけ、三階の教室から飛び降りようとしていた。俺は無意識に声を上げ、はっと振り返った麻乃は体勢を崩し、さいわい、向こう側でなく教室の中に倒れこんだ。
「何やってんだよ、バカかよっ」
そう駆け寄って抱き起こした俺を見て、麻乃は綺麗な顔をゆがめて「死ねばいいと思ってるくせに!」とわめいた。その叫びにどこかで噴き出す声が聞こえた。「死にたがり酔いすぎだろ」とかいうひそひそ声も聞こえた。
麻乃の大きな瞳から生まれた雫が、頬を伝ってどくどくと俺の腕にしたたってくる。一瞬、思ってしまった。もしここが三階でなく、地べただったら? もしこれが濡れた目からの涙ではなく、折れた首からの血だったら──?
「お前ら、笑えるんだな……?」
自分の声が震えているから少し驚いたが、俺はきっと振り返って教室に問うた。
「こいつがマジでつぶれた死体になっても、そうやって笑い続けるんだな!? 絶対笑えよ、笑ってみせろよ、ビビって謝るんじゃねえ、こいつが死んでみせてもげらげら笑えるんだな!?」
教室が静まり返って、チャイムと共に入ってきた女教師がびっくりしていた。彼女はすぐこちらに駆け寄ってきて、麻乃を抱き起こすのを俺から代わった。
「大丈夫?」と訊かれた麻乃はぎこちなくうなずき、俺を一瞥して、「ありがとう」と弱々しくながら言った。俺は首を横に振って、「もうすんなよ」と笑みを作った。麻乃は唇を噛んで睫毛をしばたたかせ、何度もうなずいた。
そのときから、俺と麻乃の友情が始まった。
麻乃はイジメのことを親に話せず、夜は家族が寝静まるまでイルミネーションの街をふらついて過ごしていた。俺も家にいたくないのは同じだったから、すぐそれに合流するようになった。夜風と大人たちの中で、麻乃はずいぶん違う自由な表情を見せてくれた。
行きつけの店にいると、麻乃は男に声をかけられて一緒に便所に行くときがあった。「知らない奴と何やってんだよ」と半笑いで訊くと、麻乃はばっと万札を取り出してみせた。
「え、それ──」
「もらってんの」
「小遣い? どうやって?」
「そりゃあ、舐めたりしゃぶったり、掘られたり」
「………、お前、ホモなの? つか、オカマ?」
「さあね。自分でもよく分からない」
「分からない、って」
「女も男も好きになったことがある」
「……掘られるとか、俺は無理だな」
「美歳はホモだったとしてもタチだろうからねえ」
万札を折りたたみながら、麻乃はにやにやとした。学校の外ではこいつ悪く笑うよなあ、と思う。
でも、そういえばいつも俺のぶんまではらってくれる麻乃の羽振りを考えると、イジメも打ち明けられない親からの小遣いで足りるわけがない。「気をつけろよ」と一応言っておくと、「どんなことも学校よりマシだよ」と麻乃はわずかに睫毛を陰らせた。
麻乃と助けるようなかたちから親しくなったのは、真凪のことがあったからかもしれない。麻乃と別れて深夜に帰宅すると、マンションに面した公園のブランコに真凪がよくいた。
そのとき真凪がひとりだったら、俺はついでなので公園に立ち寄って声をかけた。長いウェーヴの髪を下ろす真凪は、「何だ、美歳かあ」と長い睫毛に縁取られた瞳を上げて肩をすくめる。
「また男待ってんの」
「待ってるわけじゃないけど。来るんだもん」
「その中から好きな奴とかいないのかよ」
「別にい。寂しいのが紛れるなら、私はそれでいい」
真凪は俺の幼なじみだ。同じマンションの同じ階で育った。淑やかそうな外見に似合わず、昔は活発な女の子で、そのギャップで当時から男によくモテた。
しかし、それを良く思わない女連中にはかなり嫌われ、露骨な無視を食らうようになった。小五くらいから真凪はそれにうんざりして学校に行くのをやめている。そういう境遇が何だか麻乃と重なるから、俺は麻乃と親しくなった気がする。
ルックスの良さを嫉妬されてんのも似てるしなあ、と真凪の隣のブランコに腰かけると、「美歳も夜遊びなんか覚えちゃって」と真凪はくすくすと笑う。
「別にお前みたいなことはやってないよ」
「童貞?」
「悪かったな」
「やってみればいいのに。セックス」
真凪を慕う男は、登校拒否ぐらいで真凪をあきらめない。せっせと見舞いに来るから、真凪はそういう男の相手をするため、夜になるとこの公園に来て男と過ごす。初めは話すくらいだったが、徐々にエスカレートして、現在十四歳で処女でもないらしい。
「セックスってそんないいのか?」
「いいよー。一瞬でも愛されてる気がする」
「愛されてる」
「美歳もやってみれば分かるよ」
「お前とは嫌だけどな」
「私も嫌だよ」
真凪がどんなにかわいくても、俺は彼女と男と女にはなれない。幼なじみって、そういうものだ。セックスかあ、と俺はブランコを軽く漕いで髪を揺らす。麻乃もそれで金を手にしている。本音では興味があった。俺も、やってみれば満たされるものがあるのだろうか。
麻乃が学校をサボった冬の日、俺は教室の雑談に混じって適当に笑っていた。つまんねえなあ、と内心ぼやいて、俺も学校を抜け出したくなってきていた。退屈な表情が出るのを何とか追いはらっていると、「何話してんのーっ?」と突然女子のグループが絡んできた。
その中のひとりが、「美歳があいつといないの最近めずらしいねー?」と俺の肩に抱きついてきて、中二にしては弾力のある胸を押しつけた。どきりとしたのは顔に出さず、「あとで合流するけどな」と俺は彼女の腕をはらおうとした。すると、彼女は抵抗してもっとしがみついてくる。
「何だよ、」
「美歳とあいつって、放課後も一緒なの?」
「まあ、だいたいは」
「えー、つきあってないよね」
「ふざけんな」
「じゃあ、あたしのこと彼女にできる?」
「何でだよ」
「美歳の彼女になりたーい」
たわごとをわめく彼女の腕をやっと振りはらっていると、視線を感じてちらりと振り返った。そして出逢った瞳は、このクラスで優等生で通っている、喜多瀬という女子生徒の瞳だった。俺の瞳を捕らえたことに気づくと、喜多瀬は意味深に微笑んだ。俺もよく分からないまま咲い返して、いったん、つきあってとかまだ言っている女の相手をした。
だが、妙に気になり、また喜多瀬を振り返った。彼女はストレートのセミロングを耳にかけ、次の授業の教科書を取り出していた。髪の隙間から白い首筋が見える。ふと、そこに歯を立てるようなキスをするのが浮かび、下半身にむずがゆさがこみあげた。
慌てて視線を引き剝がし、何だよ、と焦って椅子を座り直す。でも、なぜか妄想が止まらない。あの艶やかな髪をかきあげる。瞳からしたたる視線が絡み合う。唇を重ねて、軆をまさぐって、あのうなじに咬みつきながら──
あと、もう一回。そして喜多瀬と目が合ったら、ろくに話したこともないけれど、声をかけにいこう。そんなことを思った。チャイムが鳴る前に実行だ。時計を見ると、あと一分で休み時間が終わる。
俺は小さく深呼吸した。ついで、ぱっと振り返ってみた。
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