賭けの行方
莉那と過ごしながら、時間が過ぎていく。相変わらず喧嘩したり、睦まじく愛しあったり、そんな毎日の中で莉那に言い寄ってくる男も実際いたりした。でも莉那は必ず俺を選んで、ほかの男に揺らいだりしなかった。
莉那はいつも俺を信じて、部屋で待っていてくれる。そこに帰ることができるのが、俺のかけがえのないよりどころだった。莉那さえいればいい。そう、莉那とこうして一緒にいられるなら、それでいい。いずれはこの卑屈な不信感さえ、緩やかに沈んでいくのではないかと思っていた。
そうしたら、俺は今度こそ莉那を傷つけない。莉那を守る男になる。そんなことを誓う頃、俺は二十歳になっていた。
莉那とのつきあいは三年になろうとしていた。十月、気候も涼しくなってきた。俺は街に出向いて、いつもの店で莉那のことを考えていた。めずらしく引っかかりそうな女も現れないし、別にそれならそれでいいと思っていた。終電で莉那の部屋行こうかな、と酒を飲んでいると、突然後頭部を小突かれた。眉を顰めてかえりみて、「何だ」と息をつく。そこでにやにやしているのは、最近めっきりつるまなくなったが、会えばやっぱり仲がいい麻乃だった。
「久しぶり」
「そうか?」
俺がとぼけると、麻乃は肩をすくめてから隣の席に滑りこむ。
「美歳、昔ほどここに入り浸らなくなったからね」
「んー、まあ。麻乃は相変わらず?」
「そうだね。そろそろ堅気を考えなきゃなあとも思いつつ」
「え、一生売るんじゃないの」
「二十歳過ぎて、新規の客がほとんどつかなくなった」
俺は麻乃を眺めた。変わりなくルックスはいいけれど、確かに中性的ではなくなったかもしれない。
「客層変えればいいんじゃね。男らしいほうが好きな奴いるだろ」
「俺、男らしい?」
「中性的ではないだろ、もう」
「でも中性的に売ってきたんだよ。今更男らしく売るなんてよく分かんないし」
「そんなもんか」
「そんなもん」
麻乃はカウンターの中に酒を注文して、「美歳は働いてるんだっけ?」と首をかたむける。
「撮影所のパシリだけどな」
「映画作りたいって言ってたもんなあ」
「まあな。勉強ですよ」
「俺も堅気を勉強しないとな。あー、めんどくさいけど」
「ちなみに恋人とかはどうだよ」
「飽きてるよね」
「飽きるほどつきあってるのか?」
「いや、セックスに飽きててさ。プライベートまでセックスするって嫌なんだよ」
「そうか?」
「そりゃ気持ちいいけど、いちいちいくのが鬱陶しい」
「分からん」
「美歳は絶倫なんだよ」
「……嬉しくねえな」
「相変わらずやってんでしょ、あちこちで。彼女さんとよく続くよねえ」
「でもさ、そろそろあいつを信じたいとも思うんだよな」
「信じてないの?」
「あいつに愛されてるとか、幸せすぎるだろ……」
麻乃が鼻で笑ったとき、透明な酒のグラスを渡されて「どうも」と麻乃はそれをぐいっと飲む。
「そういや、こないだここで雪弥と飲んでたんだけど。あいつの大学で、悪趣味な遊びが流行ってるらしくて」
「悪趣味」
麻乃はポケットに手を突っこみ、五センチくらいのシートをいくつか取り出した。テーブルに広げられたそれを「何?」と手に取ると、「HIV検査できるんだって」と麻乃は頬杖をついた。
「HIVって……」
「エイズを起こす奴だよ。ポジティヴだったら、赤い線が出るんだって」
「そんなもん調べるのが流行ってんのか」
「ただ調べるんじゃなくてさ。これ、ここに唾垂らして調べるんだけど。友達とかとまわして、何人かと垂らすんだって」
「………、どうなんの」
「線が出たら、今唾垂らした誰かがポジティヴだねって」
「それで」
「それだけ」
「後味悪いだろ」
「でも、流行ってんだってさ」
「何でもらってんだよ。俺とやるのか?」
「俺はもうやった。ちゃんと、ひとりで」
何だ、と息をつこうとすると、麻乃は財布を取り出してそこから同じシートを取り出した。「ん」と渡されて、受け取ってみて俺ははっと目を開いた。赤い線が浮かんでいる──
「これ、」
「さんざんオカマ売ってたら、そうだよなあ」
「待てよ、……えっ?」
「はは、覚悟して売ってるつもりだったけど、けっこうショックで泣いたよ」
「麻乃──」
「陽性だよ」
俺は麻乃を見つめた。麻乃はどこか無感覚に微笑んだ。陽性。HIV陽性。それは──麻乃が、いずれエイズを発症するということか? エイズって死ぬよな? いや、まだHIVだから、エイズで死ぬとは限らないのか?
「美歳も」
「え」
「一応やっとけば」
「俺……は、」
「昔、コンドームつけないとか言ってなかった?」
「………、」
「中出ししないとかそういう問題じゃないよ」
俺は麻乃を見つめた。麻乃はシートをさしだして、「もし」と静かに言った。
「ポジティヴじゃなかったら、ふらふら女たらすのやめなよ」
「………っ、」
「で、彼女さんと結婚でもしな」
「……でも」
「ま、ポジティヴだった場合もやらないほうがいいんだけど」
俺はシートをさしだす麻乃の綺麗な指先を見て、唾を飲み込んで、あまりにも自信がない自分に愕然とした。
そうだ。俺は正体を知らない女もさんざん抱いてきた。しかも、コンドームをつけずに。妊娠させなければいいと外出しにはこだわっていたけど、エイズなんて考えもしなかった。病名くらい聞いたことはあっても、何だか他人事のようで意識もしなかった。
だが、本当に他人事か? 俺のような生活を送る奴が? むしろ隣合せではないか。
俺がHIVに感染していない確率は? どれだけ低い?
俺がHIVに感染している確率は? どれだけ、高い?
ゆっくりとシートを受け取り、口の中の唾液を動かした。鼓動がどんどん腫れ上がってくる。口の中が渇いてなかなか唾液が集まらなかったが、舌を動かして何とか溜める。そして、ゆっくりシートに涎を垂らした。ぴちゃっとシートがそれを受け止める。「たぶん五分くらい」と麻乃が言って、俺はぎこちなくうなずいた。首を絞めつけられているみたいに、息が苦しい。
頼む、と思った。虫がいいのは分かっている。でも、頼むからネガティヴであってほしい。そうしたら、俺は麻乃の言う通りにもしよう。
こんなひどい恐怖は、二度と負いたくない。だから女をたらすのはきっぱりやめて、莉那だけになる。安定した職に就いていないから、すぐ結婚できるかは分からないが、莉那の両親に挨拶ぐらい行こう。ネガティヴだったら。そしたら、俺は必ずまともな人間に──
じっとシートを見つめていた。何の言葉も出ないまま待った。初めは錯覚だと思った。見つめすぎて眼球が引き攣ったのかと。でも違う。どんどん浮かび上がってくる。鮮明で、間違いのない、赤い線──
俺は麻乃を見た。
「それ」
「あ?」
「それ、あとふたつあるけど、渡す相手決まってんのか」
「別に決まってないけど。話のネタで持ってたら面白いから、雪弥に適当に譲ってもらっただけ」
「じゃあ、もうひとつ」
「……あのさあ──」
「あともう一回、やらせてくれ。いや、というか大学の遊びで使ってる奴だろ。全部線出るんじゃねえの?」
「雪弥が何にも出なかった奴持ってたよ」
「じゃあランダムとか」
「………、じゃあ、次出たら覚悟しろよ」
「分かった」
麻乃は肩をすくめ、テーブルに残っていたシートを俺の前にすべらせた。俺は深呼吸してそれを見つめ、口の中に唾液を集める。遊びだ。そう、こんなシート、ただの遊びだ。大学生がネタに使ってるんだぞ。きっと、線が出る奴と出ない奴が混ざっている悪趣味な紛い物だ。次は出ない。今度は白い。だから、俺は、今度こそ、莉那と──
やっぱり、赤い線はくっきりと浮かび上がってきた。俺の背後で鈍器を構えていた悪魔が、いよいよその衝撃を振り落としてきた。俺は一気に息ができなくなって、冷たくなる体温のまま、脊髄をそのままごっそり引き抜かれて死ぬのではないかと感じた。
……HIV?
感染してる?
俺が?
とっさに浮かんだことは、たったひとつだった。濃厚になる死ではない。誰に伝染されたかでもない。俺が思ったのは、たったひとり、莉那のことだった。
莉那は、大丈夫なのか? 莉那は感染してないよな? 俺が莉那にうつしていたら?
頭がめちゃくちゃに打ちのめされて、そのあとどうしたのか憶えていない。ただ、莉那に会いにいくのが猛烈に恐ろしくて、何日も部屋を訪ねられなかった。自分の部屋にこもって、仕事も行けずに蒼ざめて、膝を抱えたりベッドに伏せったりしていた。
こみあげる恐怖で吐くなんて初めてだった。手の震えも、膝の震えも止まらない。何かを食べる気も起きない。眠ることもできずに神経が過剰に怯える。親の虐待から逃げて押し入れに閉じこもる子供のようだった。だから、クローゼットの扉が動いてビビるみたいに、ドアフォンが鳴ったときは声を上げて恐れおののいた。
毛布をかぶって頭を抱え、じっと耐えていた。またドアファンが鳴る。何だよ。誰だよ。麻乃か? 雪弥か? 莉那か……? 俺は毛布を握った。そして、努めて落ち着いて息を吐き、軆を起こした。
ベッドを降りると、玄関へと歩いていく。インターホン、と思ったが、引き返すと会う勇気が鈍る。俺はドアノブに手をかけ、鍵を開けると、ドアを押した。
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