水彩の教室-11

愛しているから

「わっ、何だ、いたんだ」
 その声は女の声だったけど、莉那ではなかった。俺はそこにいた女を見つめ、眉を寄せた。「よう」と彼女は笑みを作った。
「久しぶりだね」
「真凪……?」
「当たりー。ここ来るの初めてだし、四年ぶり?」
 俺は相変わらずウェーヴの髪を長く伸ばし、ぱっちりした瞳と長い睫毛、白い肌や曲線が豊かになった真凪を見つめ、ため息をついてしまった。
「何だよ……お前かよ」
「誰か待ってたの?」
「違うけど……。どうした。いきなりだな」
「今夜泊めてほしくてさ」
「何で。親と喧嘩?」
「そんなとこ」
「そうか。まあいいけど。入れよ」
「ん。お邪魔します」
 俺は部屋に真凪を通し、ドアを閉めた。真凪は部屋に入って、「美歳の匂いがするなー」とか言っている。俺はそれをぼんやり見つめ、何か意識はっきりしたの久々だな、と目をこする。
 真凪はそんな俺を振り返ると、「やつれたね」と持っていたバッグを床に下ろした。
「そうか……?」
「病気みたい」
 ぎくっとして言葉を飲んだものの、「冗談」とつぶやいてごまかす。真凪は背伸びをしてから、夕陽が射しこむカーテン越しのガラス戸を見やった。
「美歳さ」
「ん」
「あたしと最後に会った日、憶えてる?」
「俺がここに引っ越す日だろ」
「そう。そのときさー、話したじゃない? 好きな人がいるかも、みたいな」
「ああ……何か言ってたな」
「その人とさ、けっこうよろしくやってたんだ。この四年間」
「そうなのか」
「うん。もう男の子と適当に寝たりもしてない」
「……そのほうがいいよ」
「その人といたらさ、寂しくないし。これ以上はいらないって思ってたの」
「ああ」
「いらない……って、思ってたのにさあ」
 真凪の声が震えて、俺は逆光の中のシルエットを見た。なめらかな髪がわなないている。
「何か、できちゃったの」
「え」
「お腹にね、いるの」
「………、子供?」
 真凪はうなずいて、涙が光ったのが強い夕映えの中で分かった。
「彼、喜ぶかなあって考えたら、そんな……重いだけでしょ。言えないよ。だから、親に相談したんだけど。まあ、当然、何軽率なことしてるんだって怒られて」
「………、お前の、両親ならそう言っても分かってるくれるだろ。俺のとは違って」
「ん……だから、今晩泊まって、明日には帰ってみるけど」
「そうか」
「でもさ、親が分かってくれて何なの? 彼が受け入れてくれなかったら? 彼が嫌な顔したら、あたしどうすればいいの?」
「四年もつきあってたんだろ。そいつだって、」
「そんな簡単じゃないよっ、いくら、何年つきあってても、子供なんてまだ──」
「でも言わないといけないだろ。そいつにだって責任──」
 そこまで言いかけて、俺は口をつぐんだ。
 責任、なんて。俺が語れるだろうか。真凪がそいつに妊娠したと言いたくない気持ちは分かる。俺も同じだ。重い。あまりにも重い。そしてそれ以上に、嫌われるかもしれない。だから言えない。でも、言わないと、いけない──
「とりあえず……今日は、泊まっていいけど。明日にはもう泊めないぜ」
「……ん」
「まあ、真凪」
「何?」
「俺は……好きな女が、俺の子供できたって言ってくれたら……ビビるけどさ、嬉しいよ」
「………、」
「俺の血が流れた子供が生まれてるんだなあって、何だかんだ思うかもしれねえけど、結果的にはありがたいと思う」
「……ほんと?」
「好きな女がいるからさ、そう思うよ」
「いるんだ」
「ああ」
「……よかった。美歳は、ずっとひとりぼっちかもしれないって思ってた」
 俺は咲った。泣きそうだったから。そう、俺はずっとひとりぼっちだ。せっかく莉那を見つけたのに、その愛情を信じなかったせいで、まさにこれから失おうとしている。
 その晩、真凪を泊めて、翌日の朝には送り出した。一日、俺は部屋でぼんやりしていたけど、夕方が近づいてくると立ち上がった。財布だけ持って莉那の部屋に向かった。
 景色が見慣れてくるほど、かえって不安がかきたてられる。部屋の前に着いて、ドアフォンを押したが反応がなく、留守のようだったのでドアにもたれて待つことにした。
 何だか、ずっと昔に莉那をこんなふうに俺の部屋で待たせたことがある気がする。そうだ。よく思い返してみれば、そうやって莉那に待ちぼうけを食らわせたことが始まりだった。待たせて、いつも待たせて、嫌われておかしくないほど莉那を裏切って。挙句、食らった代償が、莉那に死をもたらすかもしれない俺自身だなんて──
「美歳」という声と共に、足音が近づいてくる。俺は顔を上げ、優しく微笑んだ。初めからそうしておけばよかったのだなと思った。こんなふうに、素直に莉那を優しく包みこんで微笑んでいれば、俺だって愛してもらえる自信が持てていたのではないか?
 部屋に入って並んでベッドサイドに腰かけても、俺はただ莉那の髪を撫でていた。この髪は今でも優しい匂いがする。莉那が俺を見上げてきて、俺は黙ってそれを見つめ返す。莉那はちょっとだけ笑って、「どうしたの?」と訊いてきた。
「えっ」
「いつもなら、もうあたしを押し倒してるのに」
「そ、そうか?」
「うん」
「俺、そんなにセックスばっかりじゃないよ」
「そうかなあ」
「……セックスばっかり、かな」
 俺が声を落とすと、莉那は微笑んで首を横に振った。「けど」と俺は自信のない声で続ける。
「俺たちって一回寝てからつきあいはじめたよな。セックスばっかりかも」
「そんなことなよ。軆だけだったらこんなに続かない」
「そう?」
「うん」
「そっか」
 セックスばっかりだったよ。本当に、セックスだけだった。一度もメイクラブじゃなかった。言わなきゃ。そう思うのに、喉でつっかえる。
「莉那、俺と初めて会った日って憶えてる?」
「文化祭でしょ」
「莉那、隅っこの花壇に座ってたよな」
「えっ。あ─―あれ、知ってたの」
「俺のこと見てたじゃん」
「き、気づいてたの」
「それで気になって、連れてた女まいて莉那を追いかけたんだ。あの文化祭、ぜんぜん興味なかったんだよな。ただ知り合いがライヴやるってだけで、行くことにして。それがなきゃ行ってなかったな」
「そしたら、あたしと出逢ってなかったんだ」
「たぶん。今は行ってよかったと思ってる」
「うん」
「行って、よかったよ。ほんとに。莉那に出逢ってなかったらとか、考えるだけで怖い」
「あたしも美歳が来てくれてよかった。見つめてよかった」
 俺は少しだけ咲ってしまって、莉那も微笑む。俺は莉那の髪を指に絡めながら話を続ける。
「莉那と初めて寝た日もよく憶えてる。俺さ、一回寝たらその女をすぐ忘れるんだ。なのに、莉那は残った。それが、俺の中に莉那がいるみたいですごいよかった。いるのが莉那だっていうのが、もっと嬉しかった。莉那を逃がしたくないと思った。俺、あのとき簡単につきあおうって言ったけど、断られたらどうしようって泣きそうだったんだぜ。つきあいたいとか言ったのも、思ったのも、初めてだった。一回したらもういらないって感じだったのが、莉那は違ったんだ。莉那はさ、ほんと俺にとってすごいんだ」
 莉那ははにかんで首をかたむけ、「そんなことないよ」と言った。「莉那はすごいよ」と俺はすぐそれを否定する。
「莉那は俺の中にいられるんだ。同じ細胞を持ってるみたいに。ほんとだよ」
「うん」
「莉那は特別なんだ。ずっと、最初から」
「うん」
「莉那の代わりなんていない。莉那が初めて俺に触った。俺自身だって触れないところに。莉那しかいないんだ。俺をこんな気持ちにさせるのは、一生莉那だけだよ」
 声が詰まって、それと同時に頬に涙がこぼれおちた。ひと粒溢れると止まらなくなって、異変に気づいた莉那がびっくりして俺を見上げる。
「美歳。どうしたの」
「莉那……」
「どうしたの?」
「莉那」
「美歳?」
「………」
「何?」
「俺、……俺、………」
 ああ、言ってしまう。ついに告げてしまう。怖くていっそう泣く俺の頬に、莉那が手を添える。莉那の指先がどんどん濡れていく。
「美歳……」
「莉那、俺」
 俺は息を吸った。そして、吐く息と共に続けた。
「俺、HIVに感染してる」
 莉那の瞳が止まった。俺は自分の言葉が恐ろしすぎて発狂しそうだった。噴き出した混乱について考えたくないから、言葉を継いだ。
「こないだ、いつも遊びにいってる店で友達がHIVの検査薬みたいなの持ってきたんだ。唾液垂らして、赤い線が出たらポジティヴだって。俺もしたんだ。赤いのが出た。ほかの奴はそんな変色しないって……だから、全部そうなるイカサマではない。赤くなった奴は、やっぱ生活が荒んでる奴。それに、信じられなくて俺はもう一回やったんだ。同じだった。ランダムってわけでもない」
 そこまで一気に話すと、俺は壊れそうな息遣いで深呼吸して、莉那と軆を離す。
「俺が心配なのは、莉那のことだけで」
「えっ……」
「俺から感染してるかもしれない」
 莉那は目を開いた。俺は莉那から目をそらし、ベッドサイドを立ち上がった。莉那はうろたえて俺を引き留めようとする。
「美歳」
「明日、絶対病院行って。結果が出た頃、また来るよ」
「美歳」
「じゃあ」
 立ち上がって追いかけようとした莉那の肩を抑え、俺はそっとその額に口づけた。そして一瞬莉那をぎゅっとしてから、すぐに離れる。莉那がその場で動けなくなっている隙に、俺は部屋を立ち去った。
 外に出るとますます涙が止まらず、訝って振り返る人もいたが、俺はそのまま駅まで歩き、何とかいつもの街までたどりついた。
 店には麻乃と雪弥がいた。ここに来るのも久しぶりな俺のすがたを認めて、雪弥がまず駆け寄ってきた。俺はまた泣けてきて、嗚咽をもらしながら「あいつに話した」とだけ言った。雪弥は俺の肩に手を置き、続いて歩み寄ってきた麻乃も「頑張ったな」と言った。
 ひとりでいると、めまいのまま手首でも切りそうだった。だから、なるべく麻乃か雪弥と過ごして、莉那があの日の翌日に病院に行ったとして、結果をもらっているだろう頃まで耐えた。
 寒さが緩やかに厳しくなってきていた中、その日は気紛れに暖かな陽射しが射しこんでいた。部屋に来た俺を出迎えた莉那は、単刀直入に「どうだった?」と訊いた俺に、同じく言葉を飾り立てることなく答えた。
「……陰性、だった」
 一瞬、沈黙した。何か思おうとした。やめた。ただ、長く息を吐いた。
「そっか……」
 答えをこめたような、はぐらかすような、そんなひと言に莉那は俺を見上げてきた。
「あのね、美歳──」
「ダメだよ」
「え」
「俺、莉那とプラトニックなんてできないから」
 言われる前に言ってしまうと、莉那はうなだれた。沈黙が流れた。
 ふと、莉那との想い出が頭をくるくると巡ってきた。走馬燈かよ、と思い、何だか笑ってしまった。莉那が俺を見たけど、俺は莉那を見ないまま、静かに口を開いた。
「寂しかったんだ」
「えっ」
「俺さ、寂しくていろんな女とやってたんだよ」
 低く笑っているけれど、俺はまだ莉那を見れない。
「ずっと、寂しかった。ひとりぼっちだった。俺の両親、喧嘩ばっかで家の中ぼろぼろでさ。子はかすがいとか言うだろ。俺はなれなかった。離婚の邪魔になる荷物だった。両親の安らぎどころか、気休めにもなれなくて、荷物になってる自分が嫌でたまらなかった。自分が何なのか分からなかった。誰も俺のことなんか必要としてなかった。寂しかった。怖かった。俺が十六になって親は離婚した。誰かに必要とされたかった。愛されたかった。でもそんなの簡単に見つからなくて、焦るほど会ってすぐ寝るとかいうかたちになって。寂しさはふくらんでいった。女とやりながら、何でこんなことしてんだろとか考えた。とにかく、昔から人がたくさんいるとこに行ってた。できるだけたくさんの人間と関わって。けど、誰が誰なのか区別がつかなった。虫みたいに、俺の周りにうじゃうじゃいるだけ。その中で莉那を見つけた。莉那は初めて俺の中に入ってきた。莉那だって思った。俺がずっと探してたのも、生まれたときから足りなかったのも、莉那だったんだって」
 俺はやっと莉那を見ることができた。狂った笑いが収まって、初めて、人の前で素顔になっていた。それが、泣き顔だったのは皮肉だけど。
「でも、俺って腰抜けだよな。しばらく莉那と一緒にいたら、いつ捨てられるかって、そのことばっかり怖くなったんだ。バカみたいだよな。俺、莉那を嫉妬させたかったんだ。ほかの奴として、やきもち妬いてほしかった。喧嘩できるたびほっとしてた。莉那の中に俺がいるって。いっぱい怒ってほしかった。それで俺の気持ちを確認したら、安心して咲ってくれるのが嬉しかった。莉那も俺と同じ気持ちなんだって、それが俺の全部だった」
「美歳……」
「莉那が俺の全部だった。俺の中にいる莉那が、俺の存在そのものだった」
 俺はゆっくりとベッドを立ち上がった。そして莉那の正面に立ち、静かにひざまずく。莉那と目線を等しくして、俺は莉那の手に手を重ねた。
「莉那」
 俺の手のひらの熱が、莉那の手の甲に伝わっていく。
「俺さ、莉那を愛してると思うよ。だから……」
 莉那は俺を見つめた。俺は淡い微笑を浮かべた。自分でも、なんてもろい笑顔だろうと思った。
「愛してるよ、莉那」
 莉那が目をつぶる。
「だから……さ」
 俺はそっと莉那から手を離す。莉那は俺を見上げ、見つめようとしたけど、涙があふれすぎて瞳は揺れていた。
 莉那。愛してる。ずっとそばにいたかった。結婚したかった。子供も生んでほしかった。俺の心に触れたのはお前ひとりだ。
 なのに、ごめん。
 愛してるから、もう俺は、お前のそばにはいられない。
 愛してるから、もう俺たちは、触れあっていてはいけないんだよ。

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