水彩の教室-12

溶けて、消えて、残らない

 麻乃もそうだけど、俺は別に自分がHIVのキャリアだなんてことは周りに言わなかった。俺も麻乃も雪弥にしか打ち明けなかった。それでも麻乃はもう仕事は辞めて、せめて人に迷惑はかけないように軆を閉ざしているようだった。
 俺もしばらくは何の気力もなかったが、ごたごたとしているうちに働いていた撮影所もクビになって、店でぼうっとしていたら声をかけてくる女が相変わらずいて、俺はまた無作為に女と寝るようになった。コンドームをつける良心が残っている正気のときもあれば、気分が憂鬱すぎてどうでもよくて、そのままやってしまうときもあった。「もうやめとけばー?」と麻乃は緩く言ってきたが、俺は何かで気を紛らわしていないと、本当に突然その場で絶叫しそうなほど苦しかったのだ。
 莉那に会いたい。その一心だった。部屋の近くまでふらふら行ってしまうことはしょっちゅうだった。それでも、やっぱり会えない。会ってはいけないと自分を抑える。
 死ぬかもしれないのに何で我慢するのだろうと、矛盾に押しつぶされそうになる。確かにまだエイズは発症していないが、その危険を持っていて、いつ死が急激に迫ってくるか分からない。だったら、いっそう最期のときを莉那と過ごしたい。
 交わらなければいいのだ。交わらずにゴム一枚挟めば、別にセックスだってできる。手をつなぐことも、寄り添い合って眠ることもできるのだ。分かっているけれど、俺は莉那とのセックスに冷たいゴムを挟むなんて、そんな屈辱はないと感じてしまう。プラトニックにやり過ごすこともきっと耐えられない。会えば俺は莉那を求めてしまう。どうしようもなく。だから、会わないほかに莉那を俺から守る術はないと思った。
 俺はいつ死ぬのだろう。ふと真凪のことを思い出すと、莉那と子供を作っておけばよかったなと思った。そうしたら、そこに俺が生きた証拠が残る。俺が生まれたのは、いったい何だったのだろう。親にも望まれなかった。ずっとひとりだった。やっと見つけた莉那は失った。俺は何も残せず、虚しく孤独に死ぬのか?
 翌年二十一になって、ずうずうしく前働いていた撮影所に勝手に出入りしていたら、そこでの縁で映画撮影の現場雑用としての仕事を持ちかけられた。俺はそれを受けて、映画の現場で下積みを重ねて知識を蓄えた。
 さいわいそれがいそがしくなり、没頭するのが二年ぐらい続いた。二十三歳になった秋、俺は自分が作る映画の構想を組み立て始め、まず脚本から書いていく作業に入った。
「どんな話なの?」
 熱中する作業がひと息つくと、立て続けに場面を引き延ばすより気分転換に外に出かけた。いつもの店に行って、例によって麻乃と雪弥には脚本を書きはじめていることを話す。すると適当なバイトで食いつなぐ麻乃がそう訊いてきて、「そういや美歳のやりたいジャンル知らないなー」とアパレルの社員スタッフをやっている雪弥も興味を示す。「ジャンルはよく分かんねえけど」と俺はこの店でよく頼むカクテルを飲む。
「普通に、莉那のことだな」
「リナ」
「誰?」
「……元カノ」
 麻乃と雪弥は顔を合わせた。「てことは」と雪弥はビールの瓶を手にする。
「自伝みたいな?」
「そういうつもりはないけど、自分のこともモデルにはしてる」
「俺たち出る?」
「出るよ」
「何それ。読ませろ」
「俺も読みたい」
「読ませねえよ。映画にするんだから」
「じゃあ観たい」
「俺と雪弥は、彼女さんのこと、何気によく知らないままだしな」
「………、知りたいなら話すけど。時効だし」
「時効って。まだ三年くらいだろうが」
「もう三年だって。……ぜんぜん、忘れられてないし」
「じゃあ、どんだけ忘れられてないか聞いてやるよ」
 俺は麻乃を見て、雪弥も見た。ふたりとも俺を見つめてにっとする。俺は息をつくと、「どこから話そうかなあ」とか言って脚本に吐き出している内容を思い返しながら、初めて麻乃と雪弥に莉那のことを正直に語った。
 文化祭のこと。初めて寝た日。繰り返した喧嘩と仲直り。ずっと一緒にいたかったこと。本当に愛していたこと。でも、それを病気に引き裂かれたこと──。
 ひとしきり話すと、何だか沈黙してから、「余計なことかもしれないけど」と雪弥が口を開いた。
「今脚本書いてる映画が完成したら、美歳は莉那さんに会いにいっていいんじゃないかな」
「えっ」
「美歳が映画でどのぐらい表現できるかなんて俺には分からないけど、でも、それってめいっぱい莉那さんを好きだった話だろ」
「……ん、まあ」
「じゃあ、映画見てもらってさ、どうしてもまだ好きだってことも伝えて、正直に莉那さんのところに行けよ」
「俺もそう思う。セックスするかしないかはもう一度ふたりで考えて、とりあえずそろそろ会ったほうがいいよ」
「……でも」
「莉那さんも美歳みたいにつらい思いしてるよ、たぶん。それだけ絆があったんだ」
「そん、なの──」
「いいから、美歳は頑張って映画完成させてさ。それを観てほしいとか何とかいう口実で、莉那さんに会え」
「莉那さんがまだ泣いてたらどうすんだよ。美歳しかなぐさめられないんだぞ」
 莉那がまだ泣いていたら。最後の日、莉那ははらはらとたくさん涙を落としていた。あのまま、莉那も時が止まったように過ごしていたら。もし、莉那の時間を再び動かせるのが俺だけだとしたら──
「映画……できてからだよな」
「え?」と麻乃と雪弥が声を揃えて、俺は何だか恥ずかしくなってうつむく。
「そう、だよな。映画できたくらい言わないと、会いにいっちゃいけないよな」
「いや、口実なくても勇気出るなら、早いほうがいいんだろうけど」
「何、やっぱ会いにいきたい?」
「……そりゃ、行きたいに決まってるだろ。でも、ずっとひとりでダメだって決めつけてたから。はたから見たら、そうなんだな……というか」
「はたから見たら、何で別れたのかも分からん」
「病気乗り越えられるだろ、話聞いた感じなら」
「………、じゃあ、今度の休み……」
「おっ、マジか」
「行ってこい行ってこい」
「俺、ほんといまさらじゃないか? 未練がましいとか思われたら死ぬんだけど」
「大丈夫だって」
「そう。莉那さんを信じてみろよ」
 俺は麻乃と雪弥を見て、こくりとした。
 そう、今度こそ莉那を信じる。あんなに強く結ばれた俺たちなら、まだ終わっていない。莉那も俺を想ってくれている。俺がひりひりと想い続けているように、莉那も──
 仕事がいそがしくなって、なかなか断ち切れなかったはずの莉那の住む町にも、いつしか来なくなっていた。まだここに住んでるといいけど、と思いながら、駅前のせいか若干変わった昼日中の景色を眺めながら歩く。
 麻乃にも雪弥にも見せなかったけど、俺は今日書きかけの脚本を持ってきている。俺が少しでも前を向こうとしていることを伝えるには、これしかない。莉那のことを愛した記憶。それを映画として残したい。それが俺の生きた証だ。今、俺は必死に自分のことをこの世に少しだけでも刻もうとしている。自分が死ぬことを覚悟して、今から用意している。
 けれど、もし莉那がまた俺の隣を歩いてくれるなら、俺は死に目を閉じず、まだもう少しだけ、生きることを目を開いて見つめてみよう。
 莉那の部屋があるアパートが道路を挟んだ向こう側に見えてきて、胸のあたりが緊張してくる。莉那も二十三歳になっている。大学は卒業しているだろう。
 将来、やりたいことが何もないと話していた。だから、莉那が今どうしているのか見当もつかない。もしかしたら大学出て実家に帰っちまってるかも、とも思ったとき、アパートの塀から人影が出てきた。どきっとして立ち止まり、俺は息をのむ。
 莉那? 莉那──だよな?
 秋風にさらさらと揺れるセミロングの髪、豊かというより儚げな軆つき、優しい瞳や淡い桃色の唇。莉那だ。間違いない。間違いない──なんて、嘘だろ。
 何で、隣に、男がいるんだ?
 車がたまに過ぎ去っていくのを挟み、こちらにいる俺には気づきもしない。隣にいる男に向かって咲っている。それがどういう意味なのか、理解するまでしばらくかかった。じっと見つめていて気づかれるのが怖くて目を伏せて、同時に沸き起こってくる動悸に口の中がからからになっていく。
 莉那。莉那だった。男といた。俺じゃない男。男とアパートから出てきた。それって──
 ああ、そうだよな。やっぱり、そんなものだよな。だって、俺は死にゆく人間で。莉那は、生きてゆく人間なのだ。死んでしまう俺に、いつまでもすがってくれるなんて、そんなわけはない。
 莉那と男が見えなくなってから、俺は莉那の部屋の前まで行った。表札は変わっていない。莉那は変わらずここに住んでいる。この期に及んで、莉那を責めたい俺がいた。でも、ダメだ。終わった。俺たちは、終わっていたのだ。
 俺は部屋に帰って、夜まで泣いた。それから、俺は疲れたときに行ってしまう心療内科でもらった薬を酒で飲んで、脚本を書きはじめた。その日から俺は書くことに憑りつかれて、仕事以外の時間は脚本や構想につぎこんだ。もうそれしかなかった。
 思えば、俺は昔から教室が嫌いだった。よくそこにいたけど、絶対に自分を偽ってしか、そこにいられなかった。
 教室は正しい場所だった。でもそこは居場所じゃなかった。そこにいた俺は偽物だ。綺麗な俺はいなかった。透明な俺は元からいなかった。全部水彩でごまかして、塗り重ねて隠していた。親にも。学校にも。いつも嘘ばかりついていた。
 莉那といるときだけ、俺はありのままになれたはずだったのに、その莉那も失った。俺は人生はすべて、偽り、偽り、偽り。
 そして俺は消えるのだ。水をかぶって、ようやく水彩の荷を下ろし、まっさらになる。その代わり、ここに存在したことについて、俺は何の痕跡も残さない。
 人混みの中を歩いている。いつもの街の中を、いつもの店まで歩いている。人混みの中で、俺のことは誰も見分けがつかない。誰に目にも留まらない奴のまま、俺は死ぬ。消える。
 俺の人生は教室からはみだしていた。決められたことができなかった。人間のクズだった。今まで水彩でその真実をごまかして生きてきたけど、もうそろそろこの人生も溶けて、剥げ落ちて、空っぽな白になる。
 俺は人混みに混じっていく。このまま俺は溶けて消えて、あの日彼女が流したものかもしれない水をかぶって、何も残らない。
 生まれた価値は、結局なかった。クズとして死ぬ。
 塗りたくってきた水彩も落ちて、透明になって──「さよなら」も言い残せず、ひとりで波にのまれていく。

 FIN


『あなたが遺したこの色鮮やかな映画を、あなたではない男の人と観ました。
 私があまりに泣くので、困ってしまった彼とは、結局お別れしてしまいました。
 私だけは、あなたの綺麗な色彩をいつまでも憶えています。
 あなたが私を愛したこと。
 それは、永遠に消えない美しい色。』

 ──『水彩の教室』に寄せられた、“莉那”のモデルである女性からの言葉

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