教室を外れて
「──糸田さん、『彼女になりたい』って言ってたけど?」
給食が終わった昼休み、俺は決心が鈍らないうちに友達と話している喜多瀬に近寄ってみた。「あのさ」と声を出すと、喜多瀬は俺を見て、承知していたみたいににっこりして言った。
「彼女じゃねえし」
「そう。じゃあ、あとでまた」
「今は?」
「今はこの子と話してるから」
「……っそ」
喜多瀬の友達は、俺たちのやりとりに「何?」ときょとんとする。「何でもない」と喜多瀬が言うと、「ふうん……」と彼女はちらっと俺を見上げたものの、「あ、それで──」と話題に戻る。
俺は息をついて席に戻り、あれ処女じゃねえな、と何となく感じ取った。真凪にもある、童貞を見るときの超然とした感触がある。そして、自分は今日の放課後、あの女で童貞を捨てるのだなあとなぜだか確信した。
その予感は的中し、俺は放課後に喜多瀬の部屋に招かれ、そこで初めてセックスをした。シーツに流れた髪に指を通し、ゼリーを吸うようにキスをして、セーラー服と学ランを脱がしあう。くっきり浮いた鎖骨を甘く咬んで、細い腰のカーブに手を這わせる。
初めての女の軆は、柔らかいというより、もろいと感じた。まだ柔らかな肉づきが現れる年齢ではなかったせいかもしれない。
喜多瀬は俺に口でして、緊張で勃起が萎える前に中に導いた。慣れなくてあまり律動的に動けず、ただ硬い性器を喜多瀬の熱い湿りにこすりつけた。気持ちよくて、どんどん理性的に考えられなくなってきて、夢中でたぐりよせるように腰を振る。
突き上げると喜多瀬の乳房が揺れて、喘ぎ声が焦れったいトーンで躍る。どくん、と性器の血管が太くこわばった瞬間、取り留めのない声がもれて俺は射精していた。急激に強い息遣いがあふれて、ずる、と性器を引き抜くと喜多瀬の隣にうつぶせになった。
喜多瀬とは、その後も何度か寝た。二度目のとき、「今日は分からないから」とコンドームをさしだされ、そういえば一度目のときは妊娠の心配などいっさいしなかったことに気づいた。コンドームをつけたセックスは、正直あんまり気持ちよくなかった。初めからこれだったら良かったかもしれないが、やっぱり生のほうがいい。
そしてさらに、回数を重ねるほど、頭が真っ白になる快感が薄れていった。むしろ虚しささえ覚える。いろいろ教わったあと、クラス替えを切っかけに喜多瀬とは関係がなくなった。中学三年生になった俺は、自分はたらし男だと開き直り、校内でも校外でもいろんな女と寝るようになった。
真凪の言っていたことが分かるような気がする。セックスしているあいだ、俺は不思議とあの家庭を忘れて寂しさを覚えなかった。
だが、同じ女を抱くと、逆に強烈な空洞を感じた。だから俺は、ほとんど二回以上同じ女を抱かなかった。一度目以降の同じ女とのセックスは、ただの無駄骨だ。何も満たされない。それを真凪に話すと、「私は同じ人ともするよ」と返ってきた。好きだからかと問うと、そこは「別に」と真凪は肩をすくめる。
「美歳も好きってわけじゃないでしょ」
「まあ、そうだな」
「好きになった人なら、何回やってもいいかもしれないよ」
「そうか……? 好きになっても、何度もできなくて気持ちも冷めそうな気がする」
「好きになってみなきゃ分からないじゃない。美歳が好きになる子って、どんなかなあ」
自分でもイメージが湧かない。好きなタイプなんて意識したことがない。まあ、かわいい子が好きだとは思う。美人よりはかわいい子がいい。ルックスが良くない女とはやったことがない。興味がないし、ふと鏡を見ると、そんなわがままが通用するほど俺は美少年だった。
好きになった女とのセックスは、どんな感じなのだろう。そんな夢想はした。真凪の言う通り、何度でも気持ちいいのだろうか。そんな女が隣にいたら、それで一生幸せなのになあと思う。だから、どこかに好きになれる女の子がいないものかと、いっそう女を漁った。周りに女はたくさんいた。でも、俺の心を揺り動かす子はなかなか現れなかった。
学校には相変わらず登校する。女を引っかけるためだけだ。放課後は麻乃とつるんだり、女と夜遊びしたりする。深夜に帰宅した日は真凪と公園で話す。あるいは朝帰りする。そして、そんな俺を両親はますます疎ましく感じているようだった。
中学を卒業した。高校受験は受けた。周りみたいにつくえにかじりついて必死になったりしなかったのに、無事第一志望の共学校に受かった。
高校生になっても、生活は変わらず女をたらしていた。ただひとつ変わったのは、義務教育を終えた俺ならもう放り出していいだろうと両親が判断したことだ。ついに離婚が決まった。父か母か、どちらについていきたいかと訊かれた俺が、こう答えると確信できたから、両親はやっと悪縁を断ち切ることができたのだろう。
「どっちにもついていきたくない」
その瞬間の、父と母の目をきっと俺は死ぬまで忘れられない。ああ、よかった──いかにもそんな目。
「どっちにもつかないなら、ひとり暮らしになるぞ」
「まあ、生活費は出してあげるけど……」
ひとり暮らしなんてできるの? とさえ訊かない。逆に、そうしなさい、と言いたげな空気で、俺はいらいらして舌打ちした。
「金さえくれるならひとり暮らしくらいできる。だから、あとはマンションでも用意してくれよ」
本当は、思った。金と部屋を要求し、父と母、片方でもいいから少しでも困った様子を見せないだろうかと。だが、そんな人間なら、そもそも俺をひとり暮らしに投げ捨てたりしないだろう。そんなそぶりもなかった。むしろ、これで荷物が片づいたとほっとしている色さえ滲んでいた。あまりにも完全に突き放されていて、俺は何だか死にたくなった。
ひとりで引っ越していくとき、日中は引きこもっている真凪がマンションの廊下で声をかけてきた。事情はすでに夜の公園で話している。「どうした」と歩み寄ると、「もう会えないのかな」と真凪は首をかたむけた。「あんまりここには来たくないな」と正直に言うと、「そっか」と真凪はうなずき、「あのね」と俺と瞳を重ねた。
「好きかもしれない人がいるの」
「え」
「夜に会いにきた男の子にね、付き添ってきた男の子。付き添いだから、何にもなかったんだけど」
「……うん」
「でも、その子がこないだひとりで会いに来たの。びっくりするくらい嬉しくて。なのに、その子、何にもしないんだよ。ただ、こういうのやめたほうがいいってお説教するの」
真凪が笑うので、俺もよく分からないまま笑って、「どうすんの?」と問うてみる。風が抜けて、真凪の長い髪がなびく。
「夜の公園のことをやめて、好きですって告白したら、うまくいくと思う?」
「やめろって言ってんなら、やめたほうが感じはいいだろ」
「そう、だよね」
「真凪にそういう奴が現れたなら、俺も安心して出ていけるな」
「美歳は、見つかりそう?」
「……見つけないとな」
俺は肩をすくめ、見つけないと、と内心繰り返してエレベーターホールに歩き出した。
何度だって抱きしめられる女の子。好きになれる女の子。見つけないと、俺はずっと寂しいままだ。両親は、結局光になってくれなかった。だから、どこかにいる、俺を見つめてくれる女の子を探し当てないと。
誰も俺の心の中にいない。その冷え切った孤独感を紛らわすために、ひとり暮らしの部屋に女をたらしこんで、俺はますます不特定に関係を持った。俺のめちゃくちゃな女関係は、そのあたりでは有名なくらいになっていた。
「男とはやらないの?」なんて煙草をふかしながら麻乃が訊いてきて、「やらねえよ」と俺は麻乃の吐いた煙たさに眉を寄せる。高校の空き教室の窓際で、俺はよくここにこうして麻乃とやってきたり、女を連れこんだりしている。ちなみに麻乃は勉強ができるので、中三あたりからサボりが目立ってきていたが、この高校に受かった。
「でも、美歳がタチかネコか、どっちなのか俺に訊いてくる奴って、けっこういるんだよねえ」
「どっちも無理って言っとけ」
「いいのになあ、男」
「麻乃が男とばっかしすぎなんだよ。女ともやれ」
「女の子は挿れるものがついてないじゃん」
「お前が挿れたらいいだろ」
「え、そんなの気持ちよくない」
「気持ちいいだろ普通に」
「俺は挿れてもらうのがいいんだよ。どうしてもやりたいって女の子は、ペニバンつけてもらうとかね」
「……分かんねえな」
「俺も分かんないんだよ」
麻乃は細い指で窓を開けて、青空にふうっと煙を吐く。俺はその煙さに小さく咳きこんで、男はないな、と思った。
受け入れる可能性があるなら試すけれど、男のケツにぶちこむとか──「汚い」と真顔でつぶやくと、「汚い言うな」と麻乃は俺をはたく。「でも」と俺は眉を寄せる。
「本来は排泄器官だろ。何つーか、突いて刺激すると生まれてこねえか」
「生まれる」と俺の言い方に麻乃は爆笑する。
「確かに、女みたく濡れないしね、ローション乾いてくると痛い。中出しされるとお腹壊すし」
「マジで」
「直腸に精子ぶっかけるんだよ」
「……はあ」
「でもうまい人とやると、すっげえ良くしてくれるよ。しばらく腰が立たなくなるくらい気持ちいい。美歳が女の子にすぐ飽きるのは、男を試したことがないからかもしれないよ」
「同じアナルセックスなら女とやっとく」
「ストレートって可哀想だなあ」
からからと笑って、麻乃は煙草に口をつける。
そのとき、四時間目が終わるチャイムが鳴った。学食は混み合うし、弁当は作れないし、俺はいつも朝コンビニでパンやおにぎりを買ってくる。麻乃は親に持たされた弁当があるので、教室に取りにいくために煙草をつぶす。
「麻乃」
「んー」
「高校では、大丈夫か?」
「何が」
「何がって、イジメというか」
「ああ。よく分かんない。あんまり教室にいないから」
「来てもここ?」
「だね。教室が嫌いなのは変わらないかな」
「そっか」
「美歳は相変わらずうまく溶けこんでるの?」
「俺は孤立すんのが怖いしな」
「俺がそばにいてあげてるのになあ」
「はは。うん、麻乃のことは友達だと思う」
俺がそう言うと、麻乃ははにかんで咲って、「ありがと」と言った。麻乃は金と引き換えに男とやりまくっていても、特別親しい関係を結んでいるのは俺だけだ。
やっぱり、怖いのだと思う。嫉まれ、憎まれ、虐げられ、教室での記憶が焼きついて麻乃は一種の人間不信になっている。だから、自分を迫害する教室という枠は外れて、自由気ままに軆を売りながら生きている。麻乃が持つゆいいつの「常識」は、俺との友情だけだろう。
俺も本当は教室を外れた奴だと思う。クラスメイトがざわめく教室の中で、不意に違和感を覚える。ここで自分は何をしているのか。外国の街に放り出されたようにぽつんと溶けこめない。休み時間、何人かと集まっている中にいても、幽体離脱したみたいに、笑っているのは顔面だけだ。心は冷めきって、作り笑いする自分に虚しくなっている。
麻乃みたいに教室をドロップアウトすればいいのに、そしたらひとりぼっちの時間が増える。それが怖くて、俺はこめかみに静電気を感じながらも、結局人が涌く教室に嘘笑いの面をかぶって通ってしまう。
何度でも抱きあえる女さえ見つかれば、学校だって捨てられるのに。その女と一緒に過ごして、愛して、愛されて、俺の望みはそれだけだ。心から溺れてしまえる女に出逢いたい。だから、毎晩違う女と試すけど、そんな夢みたいな女は見つからない。
このまま一生見つからないのだろうか。俺は死ぬまでひとりなのか? 後頭部に銃を突きつけられたみたいにぞっとして、泣きそうになる。早く見つけないと。俺を満たしてくれる、何度も俺の中に染みこんでくれる女の子──
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