水彩の教室-3

転校生

 ひとり暮らしを始めてから、近所にレンタルショップがあったのでよくビデオを借りて映画を観た。特に女を連れこみ、終わってから俺ひとり眠れずにいるとき、一週間レンタルの旧作が常に二、三本借りてあったので、酒を飲みながらそれを観た。
 いろんな映画を観たけど、派手なアクション映画や気味の悪いホラーより、フランスあたりの淡々とした青春映画が好みだった。余韻が胸に突き刺さって、その息苦しさが懐かしい。そういう映画は、そのうち再びレンタルするくらい好きだった。
 そんなふうに過ごしていると、俺は高校二年生になり、新しいクラスで雪弥ゆきやに出逢った。雪弥は四月に転校してきた編入生で、かなり変わった奴だった。
 授業中に堂々と小説を読んだり音楽を聴いたり、体育祭の出場科目を訊かれて「何でもいいよ、当日来ないから」と宣言したり、遅刻も早退も自分の感覚で決めてしまったり。教師はもちろん、集団行動を乱す奴としてクラスメイトからも反感を買っていた。
「みんな嫌でもやってんのに、お前だけ楽してサボってんじゃねえよ」といかにもなことを言われていたとき、雪弥はにやにやして、「君にサボる勇気がないだけだろ」とざっくり斬り返していた。何かおもしろいな、と俺は遠目から見ていたが、みずから関わり合うことはなかった。
 だが、連休が明けて初夏が焦げつくある日、雪弥から俺に近づいてきた。顔を上げると、短髪の前髪を上げて、表情がはっきり見取れる奥二重の瞳がにっこりとしてきた。
「相談なんだけど」
 雪弥はいきなりそう言って、俺のつくえに手をついた。
「君って、たまに授業サボってんじゃん」
「え……ああ、まあ」
「安全にサボれる場所があるのか?」
「………、教えないけど、ある」
「教えてほしい」
「嫌だ」
 きっぱり断ると、「何でだよお」と雪弥はしゃがみこんで俺のつくえに伏せった。
「というか、この高校、教師も生徒も厳しくね? 俺、そんなおかしな行動取ってないだろ」
「取ってるよ」
「そうかあ? 俺が変人だって言うなら、感覚ぬるいぞ」
「お前、四月に転校してきたんだよな」
「ん、まあね」
「前の学校ではそれで通用してたのか?」
「調子乗ってるとかは言われてた」
「乗ってるよな」
「乗ってないよ」
「自由すぎるだろ」
「自由の何が悪いんだ。みんなとお揃いなんて、そんなん気持ち悪いじゃん」
 俺は雪弥を見つめた。その瞳に濁りはない。たぶんこいつは、単純に、まっすぐ自分の芯を信じているだけなのだ。ずうずうしいのではなく、直観的なのだ。俺は観念した息をつくと、がたんと席を立った。
「あ、おい──」
「ついてこい」
「え」
「そこでサボってんの、俺ひとりじゃねえからな」
 俺の言葉に、雪弥はまばたきをしてから大きくうなずいた。教室は休み時間でざわついていて、俺と雪弥が廊下に出るところに目を留める奴はいなかった。
 生徒が行き交う廊下は、陽射しの熱気がこもって蒸している。階段で三階に上がると、静かな空き教室の並びで、ひとつだけドアの鍵が壊れたままの教室がある。そこがよく俺と麻乃が過ごしている逃げ場だ。
 ドアを開ける前に、俺は雪弥を振り返った。
「自由なのと失礼なのは違うからな」
「分かってますよ」
「俺の友達に迷惑はかけるなよ」
「了解」
 ほんとに分かってんだろうな、ともかすめたが、俺は食い下がらずにドアを開けた。
 煙草の匂いがした。窓際にもたれて、麻乃が煙草を吸っていた。俺に目を向けた麻乃は何か言いかけ、すぐ雪弥に気づく。眉を寄せて煙を吐いてから、真顔になって「ついに男と」と麻乃は言った。「ふざけんな」と俺は雪弥を教室に入れてドアを閉める。
「こいつ転校生なんだけど、教室になじめないみたいだから」
「拾ったの?」
「懐いてきた」
 麻乃はおかしそうに含み笑って、「どうも」と雪弥に微笑んだ。雪弥ははたとしてから、「どうも」と同じ言葉を返して俺と共に窓際に歩み寄ってくる。
「ほかにもいるの、仲間というか」
「俺とこいつだけ」
「そっか。ふうん。サボるときはいつもここ?」
「俺はだいたいそうだな」
 俺の答えにうなずいてから、雪弥は麻乃を見た。「俺は帰っちゃうときもある」と麻乃が火種を空き缶に落として答えると、「ほう」と雪弥はこまねく。
「そのあと家に帰んの?」
「いや、街に出てふらふらするか、行きつけの店に行く」
「何それ、かっこいい」
「美歳も放課後はそうだよね」
「俺はすぐ女捕まえて、自宅に連れこむけどな」
「おお。何気に派手なことやってんだな」
「このへんじゃ美歳知らない奴はいないよ。女にはすぐ手え出すから」
「マジか。俺はなかなか、すごい人に目をつけて声をかけたんだなあ」
 しみじみ言った雪弥に、俺と麻乃は笑ってしまった。それから、俺たちは名前なんかを自己紹介しあった。
 麻乃が知らない奴を負担に感じないか心配だったけど、意外と楽しそうに雪弥と話している。その会話を聞いていて、俺も雪弥への警戒をほどいていった。どうやらこいつは、自分の意志があまりにはっきりしていて、結果的に紋切り型の教室にはまれなくなっている奴のようだ。「学校って窮屈でしんどいんだよなあ」と雪弥はため息をついて、ある種、こいつも俺や麻乃と同種なのかもしれないと感じた。
 それから、俺と麻乃に雪弥も合流するようになった。親は大丈夫なのかを一度訊くと、「夜遊びぐらいそろそろ憶えてこいって言われた」と雪弥は楽しげに笑った。雪弥の奔放な性格は、親が育てたものであるようだ。
 いつもの店でも、雪弥はすぐ馴染んでみんなに気に入られていた。麻乃が男娼みたいなことをやっていることにはさすがに驚いていたけど、麻乃のバイセクシュアルについては、「男も女も好きになれるとか得だよなあ」なんて言う。「俺は男は無理だけどな」と俺が言うと、「残念ながら俺も男はなあ」と雪弥は俺たちと遊ぶようになって飲みはじめた酒を舐める。
「まあ、自分が男にモテるとも思ってないし」
「俺はたまに声かかるからな」
「さんざん女にしか手出してないのにねえ」
 そう言った麻乃は咲ってピンク色のカクテルを飲み、「確かに美歳はルックスいいしなー」と雪弥は笑う。
「ルックスだけみたいに言うなよ」
 俺がむすっと言うと、麻乃と雪弥は失笑する。
 これまでずっと、俺と麻乃はお互いしか心を許さなかったけど、雪弥はそこにするりと入りこんできた。自分をはっきり持っていると言っても、けして雪弥はそれを俺たちに強要はしない。むしろ俺や麻乃の考え方や感じ方を肯定してくれる。親しくなるほど、やや天然の雪弥は、荒んでいた俺と麻乃の心を潤す癒しにもなってくれた。
 高校二年生がどんどん過ぎ去っていく。夏休みを境に、麻乃が登校してくるのが急激に少なくなった。また教室で何かあったのかを心配すると、そうではなくて、親に売りをしていることがばれたらしい。「帰りたくないから」と麻乃は毎晩誰かに買ってもらって、モーテルで夜を越して、朝に金をもらってそれで一日を過ごす。それで学校なんかにわざわざ来るはずもない。
 俺は自然と雪弥とよくつるんで行動し、一緒に街におもむいて麻乃に会いにいった。麻乃は若干痩せたものの、もう学校に行くこともなくなってしまう予見に安堵している様子だった。そうして、高校三年生に進級する頃には麻乃は実質的に退学で、二年から三年はクラス替えがないので俺は学校では相変わらず雪弥と行動していた。
「美歳って音楽聴くほう?」
 高三の夏が終わる頃の放課後、麻乃が棲みつくようになっている街に電車で向かいながら、雪弥が訊いてきた。
「音楽? 一応聴くけど、雪弥ほどじゃない」
「美歳は映画が好きだもんなー」
「何かあるのか?」
「今度さ、隣町の高校の文化祭で俺の友達がライヴやるんだ。プロじゃないけどさ、プロ目指してるし、かっこいいよ。いつも地下のライヴハウスだけど、今回校庭で野外だから行こうかなと」
「どういう音楽か分かるならつきあうけどなー」
「ロックかな。というか、来週ライヴあるよ。ドリンク代入れて二千五百円」
「チケットとかいるんだろ」
「まだ取り置き間に合うよ。行く?」
「………、文化祭に行けば無料なんじゃね」
「そこに気づいてしまったか。まあそうだね」
「じゃあ、文化祭で気に入ったらライヴも行くよ」
「おっ、それでもあいつら喜ぶと思う」
「で、その高校に女いる?」
「共学です」
「よし」と答えた俺は、このときはもちろん想像もしていなかった。隣町の高校。知らないバンド。ただの付き添い。そんな予定に、大して出逢いなんか期待をするわけがない。だが、俺はその文化祭でようやく出逢うのだ。
 莉那。俺が生まれて初めて惹かれて、生涯かけて愛することになる女。

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