恋に病む
突っ立っていると、「美歳」と名前を呼ばれた。追いかけてきた茉佑子かと思ったが、駆け寄ってきた声の主は雪弥だった。私服になっている。俺は視線を落とし、そんな俺の様子に驚いたように「どうした?」と雪弥が首をかしげる。俺は何か言おうとしたが、何を言えばいいのか分からなかった。
そして思った。あの子を前にしても、俺は同じように言葉が見つからなかったかもしれない。
ただ小さく、「茉佑子とふたりきりにしたの貸しだからな」とつぶやいた。雪弥はうなずきながら、「まずい雰囲気にしたよな」と反省し、「ごめん」と改めて謝った。そのとき、また「美歳ーっ」と呼ぶ声がした。今度こそ茉佑子だ。「大丈夫か」と雪弥に心配されたものの、俺はこくりとして顔を上げた。
ああ、失恋ってこんな感じかな。袖すら触れ合わなかったような彼女を思い返して、そんなことを思っていた。だから、十三時をまわって到着した例の喫茶店が、やはり混み合ってなかなか入れず立ち往生になっていたとき、不意にその教室から人影が出てきたのに気づいた俺は、はっと目を開いた。
あの子だったのだ。肩までの黒髪、伏せがちの睫毛、きちんとした制服──俺は真っ先に雪弥を見て、「おい」と声をかけた。
「ん? ここあきらめる?」
「さっきの約束」
「はい?」
「さっきの貸し。今返せ」
「え、どういう──」
俺は勢いよく茉佑子の腕をはらい、彼女を雪弥に押しつけた。雪弥はよく分からなかったようだが、とりあえず茉佑子を抑える。「ちょっと、」と茉佑子が抗議するのは聞かず、「絶対離すなよっ」と俺は叫んで、あの子が曲がっていった角を目指して走った。
彼女は早足に階段を降りていく。サボりだろうか。そういうことをするような感じは、何となくしないけれど。校舎を出た彼女は、旧校舎の中に入っていった。旧校舎は部活の店や出し物が多く、俺は必死に彼女を見失わないように追いかけた。彼女は二階に上がっていく。俺もそれに続き、踊り場の『関係者以外立入禁止』の伝言板を一瞥して、無視して、彼女を追った。二階で廊下を見渡すと、彼女が廊下の途中で中庭のにぎわいを見下ろしていた。
女の子のことを、こんなにじっと見つめたのは初めてかもしれない。見ているだけで、軆が痺れて呼吸が切なく震えそうになる。
彼女は俺に気づかず、どこか虚ろな、哀しそうな表情で人を見ていた。俺は足音を殺して彼女に近づき、本当はどんな言葉がかっこいいかなんて考えていたけど、肝心なときにいい台詞が浮かばなくて、何だかバカにするようなこんな声が出ていた。
「こんなとこで、サボり?」
彼女はびくっと肩をすくませ、恐る恐るこちらを見た。そして、俺が彼女を見たときそうだったように、彼女も俺を見た瞬間はっと目を開いた。咲ってあげたいのに、思わず泣きそうだったから、俺は昂ぶったような笑みなんか作ってしまう。
「サボってんの?」
かたわらで立ち止まって俺に彼女は目を伏せ、「クラスの喫茶店で、椅子が足りないから」と消え入りそうな声で言った。
「取ってきてって言われて、取りに、来て──」
「じゃあそれはもうキャンセル。俺が出てきたから」
「えっ。あ──そう、ですか」
俺は手を持ち上げ、彼女の顎を持ち上げた。彼女は臆して視線をそらし、でも俺はやっと間近に捕らえた彼女を強く見つめてしまう。俺の瞳にとまどった彼女は、「あの」と怖がるような声で言った。
「ん?」
「ここ、関係者以外は」
「立入禁止って書いてあったね。でも俺、用事あったから」
「そ、そうですか」
「俺のこと怖い?」
「えっ」
「ビビってるから」
「え、いえ、そんな──」
「大丈夫だよ」
やっと優しい声が出せたと思ったとき、彼女が俺を見上げた。彼女の瞳に俺の瞳が映り、俺は情けなくも瞳が潤みかけて、やばい、と気づかれる前に彼女を抱き寄せた。
俺の腕の中で、彼女の小柄な軆がこわばる。髪から優しい匂いがした。そんなに量感のある軆ではなく、細くてもろい。つかまえられた。安堵と同時に俺の心臓は脈打ち、彼女に聴こえたらどうしようと恥ずかしくなりながらも、焦っているなんて思われたくなくて、彼女の髪をそっとかきわけて耳に口を寄せた。
「俺は美歳」
「……み、みとせ、くん」
「美歳でいいよ。君の名前は?」
「あ、たしは──莉那」
「リナ?」
「う、ん」
「そっか。かわいい名前」
ゆっくり深呼吸して、吐く息と一緒に莉那をぎゅっと抱きしめた。俺の腕の中で莉那は狼狽えていたが、嫌がったり突き飛ばそうとしたりはしない。
莉那。よかった。すれちがわずに済んだ。もう離さないようにしないと。そう思って腕に力がこもったとき、外から歓声が聞こえた。何だ、と思ったが、腕時計を見ると十四時だ。ライヴが始まったのか。あれには行っておかないとまずよな、と頭では分かっていても、莉那と離れるのが惜しい。
「ライヴ、知り合いが出るから行かないと」
そんなことを言いながら、俺はまだ莉那を抱きしめている。莉那は小さくこくんとしたものの、何も言葉は続けない。
何だよ、とつくづく自分が恥ずかしい。俺も同じではないか。別れ際にさっぱり離れられない。このまま名前だけ知っておしまいなんて嫌だ、なんて欲張ってしまう。
「一緒に、行く?」
声がうわずらないように俺がそう言うと、莉那はちらりと俺を見上げてから、「教室に戻らないと」と言った。その当然の答えに死ぬほどがっかりしている自分がいた。
そんなもんばっくれて俺といろよ、とか言っていいのだろうか。分からない。それが彼女の心にとって優しいのか分からない。俺はこの子のことは傷つけたくない。だから、俺は従順に「そっか」とつぶやいた。でも、軆を離す前に莉那に俺を憶えていてほしかった。また会いに来る。必ず俺はこの子に会いに来る。だから──
丁寧に視線を重ねると、瞳を絡めとるようにゆっくり顔を近づけ、俺は莉那にキスをした。
唇が触れあうだけのキスだった。こんな淡いキス、俺はもしかして初めてではないだろうか。莉那の衝撃が走った目を見て、俺はそれがやわらぐように優しく咲って、「これが用事」と言った。
「莉那」
「えっ、あ──」
「また会える?」
莉那はもうわけが分からないといった様子だったが、うなずいてくれた。また会える。その約束ができあがった途端、やっとこみあげる泣きそうな感覚が安らいで、俺は微笑んでいた。
莉那の頬に指先で撫でるように触れてから、俺はようやく彼女を解放した。そして、下手にずるずるここにいてしまう前に身を返した。
本当は振り返りたかった。今、莉那を腕の中に抱いていたのが現実だったと、何度も振り返って確認したかった。でもそんなことをしたら、俺は繰り返し莉那の元に駆け戻ってしまう。だから、また会えるという約束を信じて、俺はかえりみずにその場をあとにした。
盛り上がったライヴを最後列で眺めながら、俺は上の空で莉那のことを考えていた。彼女を捕まえて落ち着いたはずの甘い痛みが、また胸から喉を焼いて苦しくなった。
帰る前にもう一度、ひと目だけ会いにいこうかと思ったものの、茉佑子に見つかってしまったので、結局無理だった。茉佑子が何か言っていたけど、それも耳に入らなかった。そんなぼんやりする俺に茉佑子がやっと機嫌を損ねてくれて、帰り道にはひとりになれた。ずっと、莉那とどうやって再会しようか、そればかり夢想していた。
「美歳がボケたっぽいんですけど」
週末が明けた月曜日、まだまだ俺はほうけていて、放課後に合流した麻乃に雪弥は俺の状態をそう説明した。麻乃は初めは笑っていたけど、しばらく観察していて、「マジ?」とやっと雪弥と真剣に顔を合わせた。雪弥はうなずくと、文化祭の日、俺が途中誰かを追いかけて消えたと話した。「ふうん」と麻乃は俺を眺めてから、また雪弥を見る。
「それって女?」
「さあ。よく見えなかった」
「色ボケに見えるね」
「言われてみれば」
「初めて見たけど重症だな」
「どうしようかねえ」
「ちょっと気味悪いね」
「言っちゃ悪いけど気味悪いな」
「で、何? 美歳、その女とつきあうの?」
「美歳って女をつきあうもんと思ってんのか」
「思う甲斐性はないと思ってたけど──」
つきあう。その言葉に俺は反応し、はたと麻乃と雪弥を見た。
「つきあう、って……えっ、いや、えー……」
「まだつきあってないの?」
「お、俺とつきあってくれる……かな」
俺のその言葉に、麻乃と雪弥は大袈裟にヒイていた。「何言ってんのこいつ」と麻乃は混乱し、「お前には、女なんて全部思い通りだろ」と雪弥は俺の肩をつかんで揺する。「あー……」と俺は声をもらし、首をひねって、「でも」と続ける。
「あの子の気持ちもあるし……」
「気持ち! 気持ちって!!」
「美歳が女の気持ちを考えてる!?」
「それにもし……、……あ、」
そのとき、俺は唐突に気づいた。もし。もし、莉那にすでに男がいたら?
そう思った途端に血の気が引いた。そうだ。あんなかわいい女の子、絶対そばに守ってくれる男がいるだろ。そんな誠実な男がいたら、俺なんて──
「……ダメだ。俺なんかダメだろ」
「美歳が壊れた」
「え、どんな子? 普通にどんな子なんだ」
俺は麻乃と雪弥を見て、首を横に振ってテーブルに突っ伏した。「どうしたのー?」とこの店の常連で顔見知りの奴が、何人か声をかけてきて、「恋の病」と麻乃に返されるとみんなぎょっとしていた。「あの高校の女の子なのか?」と雪弥が訊いてきて、俺はのろのろと身を起こすとうなずく。
「連絡先とか交換したのか」
「してない」
「そんなに気に入ったならしとけよ」
「でも、また会ってくれるって」
「あ、デートの約束したのか」
「デート、……そうか、あの子はデートとかからだよな」
「そんなに気に入ったなら、早めにまた会って抑えたほうがいいんじゃない?」
麻乃が煙草に火をつけながら言って、「抑えるって言うな」と俺は仏頂面になる。
「あの子とは、何というか、ちゃんと……したい」
「美歳が更生しかけてる」
「相手は美歳のうわさとか知らないの? けっこうあれこれ言われてるよ」
「………、分からないけど。俺みたいな男が、会いにいっていいと思う?」
「その子のことを俺も雪弥も知らないよ」
「てか、また会うって約束したんだろ」
「あんなの約束か分かんないし……たらしってこと知られてたらどうすんだよ。もっとまじめにやってきてればよかった」
「うじうじ悩むならあきらめたら?」
「や、嫌だっ。………、じゃあ、今度あの高校行ってみる」
「ひとりで行ける?」
「ああ。ごめん、俺こんなの初めてでどうしたらいいか分からないんだ。変だったらごめん」
俺がしゅんとして謝ると、麻乃と雪弥は目を交わして笑い、「美歳が本気でひとりの女に入れこむのはいいことだよ」と言った。俺は小さくこくんとして、莉那を俺のものにしなきゃ、と堅く誓った。
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