水彩の教室-6

惹かれて触れて

 そうして、俺は翌日午後の授業をサボって、私服に着替えてからあの高校におもむいた。教室まで行ったら、さすがに怖がられるかもしれない。校門で目を凝らしておくしかないか。
 チャイムが鳴るのを何度か聞いていたら、いよいよ生徒が校舎からちらほら出てきはじめた。ちょっと寒いな、と風に身をすくめながら、校門へと流れていく女の子を素早く確認する。
 今日休みだったりしなければいいけれど。もし男と歩いてきたらどうしよう。それはさすがに割りこまないほうがいいのだろうか。ぐちゃぐちゃ考えながら、この子も違う、あの子も違う、と女子生徒を何十人も見送っていた。見落としてないよな、という不安もちらつきはじめたときだった。
 冷たい風に肩までの髪を揺らし、ひとりぼっちで歩いてくる女の子を見つけた。もしかして、と色めいてその子をよく見ると、確かに莉那だ。俺は一瞬にして嬉しくなってしまい、「莉那!」と彼女を大きな声で呼んだ。
 莉那は立ち止まり、顔を上げて俺を気づいた。びっくりした表情でまばたきをする。周りで立ち止まってこちらを観察する奴もいたけど、気にせず俺は莉那に駆け寄った。莉那は狼狽した目をうつむけようとしたが、「また下向く」と俺が手を伸ばしかけて慌てて顔を上げてきた。瞳が重なって、「よかった」と俺は微笑む。
「えっ……」
「恋人と出てきたらどうしようかと思った」
「こ、恋人なんて、……いないよ」
「ほんとに?」
「いるわけないよ」
「そんなことないよ。莉那、かわいいもん」
 莉那は頬を染めて睫毛を伏せる。かわいい。今すぐぎゅっとしたい。「じゃあ」と俺は莉那の髪を撫でた。
「このあと、予定とかはないんだ?」
「う、ん。帰るだけ」
「じゃあ、俺と遊ぼうよ」
「えっ」
「莉那と遊びたい」
 莉那は俺を見上げて、はたはたとしばたいた。遊びたい。それは、俺にとって部屋に連れこむということだったけど。もし莉那がそれが怖いなら、普通に遊ぶだけでもいいと思った。
 それでも、莉那は口ごもって困っている。やっぱいきなりデートなんてしてくれる子じゃないよな、と食い下がるのはあきらめた俺は、莉那の頭を撫でた。
「莉那が迷惑だったら、今度でもいいよ。でも、また会いにくる。いい?」
「え、えと、あの──」
「俺のこと、憶えてて。じゃあ」
 きびすを返し、ちゃんとあの子に近づけるだろうかと不安になりながらも校門を抜けようとしたときだ。「ま、待ってっ」と声がした。かえりみると、莉那が俺を見つめてきている。
「いい、よ」
「え」
「遊ぶの、いいよ」
 俺は目を開いた。莉那は頬を真っ赤に染め、恥ずかしそうに居竦まる。莉那も俺の「遊び」を承知しているのだと察せた。俺はどぎまぎするのをこらえつつ、莉那のかたわらに戻った。そして微笑みかけると、莉那は恥ずかしそうにうつむいたけど、俺はその顔は無理に上げさせなかった。
 莉那と手をつないで、俺は自分の部屋に向かった。寒かったのに、つないだ手だけは熱をはらんでいる。莉那は顔を上げなかったけど、俺の手をぎゅっと握り返してくれていた。莉那の手は小さくて、俺の手ですっぽり包んでしまえた。
 俺の部屋にやってきた莉那は、「ちゃんと片づいてる」と目をみはっていた。両親が離婚して、ひとり暮らしなのは電車の中で話した。俺は暖房を入れると莉那をベッドサイドを腰かけさせ、コートを脱がせた。コーヒーを淹れて渡したけど、莉那はコーヒーが苦手だったみたいであんまり飲んでいなかった。
 しばらく、どうだっていい話をしていた。でも、莉那が怖がらないように髪を撫でたり手を握ったりはしていた。俺もそうだけど、莉那の指先も熱を持って緊張している。
 莉那が処女なのは雰囲気で分かっていた。痛くないように、優しくしてあげたい。会話が途切れたとき、俺は莉那を覗きこんでそっと口づけた。莉那の肩が揺れる。その肩を抱き寄せ、俺は丁重に莉那の口の中に舌を伸ばし、敏感なところをたどって蕩かした。莉那は俺の服をつかんで、必死に受け入れてくれる。俺は莉那をきつく抱くと、静かにベッドに押し倒した。
 俺の下半身はすごく硬くなっていたけど、自分は気持ちよくなれなくてもいいと思った。まずは莉那を良くしてあげたい。白い肌をさすって、手を握り合ってから莉那の脚のあいだをほぐす。時間をかけて濡らして、俺は自分のものを入口にあてがった。「痛かったら言って」とささやくと莉那は頬を真っ赤にしながらうなずき、俺はその表情を窺いながら莉那の中をゆっくりとつらぬいた。
 狭くて、熱い粘液が俺を締めつけてくる。気持ちよかった。莉那は俺の軆にしがみついて、弱い声がもれるのをこらえている。「声出していいよ」と言っても莉那は首を振る。俺は莉那の頭を抱いて、腰を緩やかに動かしながら、じわりと広がる快感にたまらなくなってくる。乱暴にはしたくないのに、白く溶けていく波に我慢できるか分からない。
 莉那の様子を窺い、彼女も息を切らして感じているのを見取ると、「動くよ」と俺はささやいた。莉那はこくんとする。俺は莉那を抱きしめ、少し強く莉那の奥を突きはじめた。莉那の引き攣った声がたまにこぼれる。かわいい。もっと聴きたい。だから俺はもっと莉那を攻めて、どんどんお互い息遣いを乱して、喘ぎ声を絡ませながら快感を彷徨った。
 そして、不意に光が射しこむ。それをつかんで、引っ張った瞬間、意識を引き抜かれるような絶頂が訪れた。
 ぎりぎり、莉那から引き抜いて内腿に射精した。いつも通り、コンドームはつけなかった。生物の匂いがして、俺はそれをティッシュで片づけた。莉那は虚脱してベッドに仰向けになっている。俺はそれにかぶさって、莉那の湿った前髪をかきあげる。
 終わってしまった。いつもここで、俺は急速に冷めるのに。莉那とはこれで終わりだと思いたくない。また会いたい。また抱きしめたい。また寝たい。でも、そんなことを思うのは初めてだから、どうしたらいいのか分からない。
 どうすれば、莉那をつなぎとめられるのだろう。焦りがこみあげ、ただ泣きそうに莉那を見つめてしまう。莉那は俺の反応がよく分からなかったのか、きょとんとまばたきをする。俺は莉那の頬を撫で、そのまま顔を近づけて口づけた。今度のキスは深く、長く、息を止めるキスだった。しばらくひかえめな水音を立ててむさぼっていたけど、莉那はそんなキスはまだ慣れなくて、咳きこんで顔を背けてしまった。
「莉那……」
 俺の不安が滲んだ声に、莉那は困ったように首をかしげる。でも、こわごわ、なぐさめるように俺の背中に腕をまわしてくれた。莉那の体温が俺の体温と素肌で溶け合っていく。俺は今度は莉那に軽く口づけ、華奢な肩を抱きしめてそこに顔をうずめた。柔らかく汗の匂いが蒸発していく。
 しばらく、そのまま抱き合っていた。夜が降りてきて、静かだった。息遣いだけが低く響く。もうこのまま、離れずに済むならいいのに。莉那をこの腕に閉じこめてしまいたい。ほかの男に触れさせたくない。
 だがそんなことを思った矢先、莉那が動いて俺の胸板を押して、密着していた軆に隙間を作った。「莉那」と俺に名前を呼ばれても、答えずに腕を抜け出して身を起こしてしまう。俺は胸を毛布で隠す莉那の白い背中を見つめ、もう一度彼女の名前を呼んだ。すると、莉那はかすかに肩を震わせて答えた。
「帰らなきゃ」
 思いがけない言葉に俺は驚いたが、よく考えたら普通はそうなのだろうか。いつも俺が引っかける女が自堕落なのだ。普通、女の子は夜には家に帰る。
「泊まっていっていいよ」
 それでも俺が未練がましく言うと、「ダメ」と莉那はベッドの下に落とした服に手を伸ばした。俺は唇を噛み、我慢できずに起き上がると莉那を背中から抱きこんだ。
「あ、」
「莉那。……あのさ」
「は、離して」
「聞いて莉那」
「あたし、」
「また会ってほしいんだ」
「えっ」
 床に伸びていた手が止まり、莉那が振り返ってくる。俺は莉那の瞳を見つめ、莉那の肩に頬を当てた。
「また会いたいんだ。ダメかな」
 こんなこと、女の子に言ったことがない。まだこうしていたい、またこういうことをしたい、そんなふうに感じた女の子が初めてだ。
 でも、俺は確かに感じるのだ。莉那をこうして抱きしめていると、虚ろな胸の空洞が満たされていく。莉那の視線、莉那の声、莉那の匂い、莉那の体温、莉那のキスは、俺の中に滔々と流れこんできて優しく癒やしてくれた。だから、俺は莉那を手放したくない。
「……莉那は、嫌かな」
「い、嫌じゃない……けど、……期待しちゃうよ」
「期待?」
「その、か、彼女になりたいとか。好きに、なっちゃうとか」
「俺のこと、好きになりたくない?」
「す、好きだけどっ──あ、」
 俺は莉那を見つめた。莉那は頬を赤くしてうつむく。俺はつい微笑み、莉那の顔を覗きこむ。
「俺のこと、好き?」
 莉那と軆を向かい合わせて、そう訊いてみる。莉那は毛布をくしゃくしゃにして胸元でつかんで黙っていたけど、やがて小さくこくんとしてくれた。
「じゃあいいじゃん。俺たち、つきあおうよ」
 言ってしまった瞬間、断られるのが泣きそうなほど怖くなった。でも、つきあいたい。そう、俺は莉那とつきあいたい。この子を恋人にしたい。
「俺の彼女になってよ」
「彼女……」
 俺は茫然とする莉那を抱き寄せて、さらさらの髪を優しく撫でた。そして、甘えるみたいに莉那の名前を耳元で呼ぶ。莉那はしばらく無反応だったけど、ふと俺の背中に腕をまわしてきた。俺は莉那を覗きこみ、すると莉那はおもはゆそうに小さくうなずいてくれた。その瞬間、花火が上がるように喜びが爆ぜて、俺はぱっと笑顔になった。こんなに無邪気に咲う自分も、初めての気がした。
 そうして、生まれたときから疎まれつづけた俺はついに莉那を見つけて、恋人として結ばれることもできた。
 どうして、ここで満足しなかったのだろう。愛されていると安心して、莉那を信頼しなかったのだろう。俺がもっと強かったらよかったのだ。
 心に染みついた寂しさが弱さとしてまだ残っていた。莉那を失いたくないと必死になるほど、俺は彼女を傷つけることになっていく。

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