踏みにじる夜
莉那のことが好きだった。かわいくて、愛おしくて、どんなものより大切だった。自分の気持ちなら、いくらでも言い切ることができる。本当に莉那を愛していた。なのに、莉那に夢中になればなるほど、俺は自信を見失っていった。
女なんてみんな簡単に落ちる。つきまとってきてうざい。そう思ってきた。しかし、莉那にだけはその思い上がりがまったく湧いてこないのだ。ただ響くのは、両親にさえ愛されない、友達も上っ面の、虚しい日々が残した傷だった。
俺はどうやって相手の心を決めつけることができていたのだろう。無意識にできていた傲慢が、莉那の笑顔の前で崩れ去っていく。莉那を信じたい。でも、思ってしまうのだ。
誰が俺みたいなゴミ野郎を愛する?
莉那とつきあいはじめた俺は、すっかり情緒不安定になっていた。莉那が隣にいるときだけ、眠れない夜に酒を飲んだみたいに、穏やかに心休まることができる。だが、俺と莉那は他校だし、家も遠いし、そんなにべったり一緒にいられるわけでもない。莉那を牢屋に監禁する夢を見た日、俺は自分の欲望にぞっとして、好きになればなるほど自分が危うくなっているのを感じた。
少しだけ、冷静になる距離を取ったほうがいいのだろうか? そんなことを考える頃、カレンダーは最後の一枚になって寒さが厳しくなっていた。クリスマスが近くて、街の彩りもそれ一色だ。
その日は、莉那が俺の部屋に会いにきてくれる約束をしていた。だからまっすぐ帰ろうとしていたら、「クリスマス当日はどうせパーティ来れないんだろ」と放課後に雪弥に声をかけられた。俺がむくれた顔で振り返ると、雪弥は俺の額を小突く。
「今夜も店でパーティなんだけど、適当に今日あたり出ておいたほうがクリスマス抜けやすいんじゃね」
「でも」
「ていうかさ、彼女さんをいい加減に紹介しろよ。俺も麻乃も顔すら知らないよ」
「あ、あいつは夜の街とか無理だからいいんだよっ」
「何かいつもそう言うけどさあ──」
「分かったよ、今日行ったら、クリスマスパーティは出ないでいいんだな。それなら顔だけ出すよ」
俺が早口に話題をごまかすと、「よしっ」と雪弥はにっとした。俺は仕方なくため息をつき、つくえの上にまとまっていた荷物を持ち上げる。
「麻乃に会うのとか、久しぶりじゃないか?」
「んー、まあそうだな。最近どう、あいつ」
「相変わらず売りで何とかやってる感じだな」
「ふうん……」
「恋人作んないのかねえ。俺もだけどさ」
「いないのか」
「なかなか惚れるまでいかないな」
「俺にいたんだから、雪弥は大丈夫だろ」
「はは。だといいなー」
そんなことを話しながら、教室を出た俺と雪弥は、冷えこむ廊下や階段を抜けて靴箱で靴を履き替えた。
外に出ると凍えそうな風が枯れた景色に吹き荒れていた。空は灰色で重たい。俺は手をコートのポケットに突っこみ、首をすくめてうっすら白い息を吐いた。
早く莉那に会いたい。莉那を見つけたのだから、本来なら俺はもう夜の街に用はないのだ。でも、さすがに女ができて麻乃や雪弥を遠ざけてしまうのはひどいか。特に麻乃は街に行かないともう会えない。たまには、こんなふうに軽く会いに行くのはやっておかないといけないのだろう。夜になったら莉那と一緒だ、と気を引き締め、俺は雪弥と街に向かう電車に乗りこんだ。
私服を持っていなかったので適当に買って、店で着替えておいた。雪弥もそうしているのを待っていると、店にはちらほらと見知った顔が集まってきた。「美歳、久しぶりじゃん!」とわりとみんなが声をかけてきて、それがちょっと嬉しかったのが始まりだったかもしれない。
雪弥が戻ってきて、麻乃もやってきて、新しい顔も俺のうわさを知っていて気さくに話してくれる。笑って会話に混ざっているうちに、酒をどんどん飲んでしまっていた。感覚がふわふわして妙にテンションだけ高くて、そのとき隣に長い髪の女がすべりこんできて、「送ったげるから飲んで大丈夫だよ」と微笑まれた。
そのとき、どうして気づかなかったのだろう。送ってもらえるなら正体失くすまで楽しんでいいか、なんて。一瞬でもいい、莉那がそこで俺を待っていることを思い出していれば──
意識が戻ってはっとして起き上がろうとすると、頭蓋骨が壊れそうに頭が痛かった。喉から酒を飲んだ臭いがせりあげてくる。蒼い空気に浸された光景で、自分の部屋なのは分かった。
寒い。ぶるっと震えて、自分が服を着ていないことに気づく。え、と額を抑えながらあたりを見ると、服が散らかっていた。そしてその中で、俺と同じく全裸の髪の長い女が眠っている。女、というか、化粧は大人びているが、顔立ちを見るともしかしてまだ中学生かもしれない。
誰だこいつ、と眉を寄せ、何とか考えて、ようやく昨夜のことを思い出した。そうだ。昨日は店でパーティに出て、久しぶりのみんながけっこう優しくて、酒が進むうちに朦朧としてきて──あとは、断片的にしか憶えていない。
この子に支えられて駅まで歩いて。この部屋で口移しで水を飲まされて。そのままキスは軆じゅうに及んで。まさぐりながら服を剥ぎ取りあって。
え、と吐き気のように恐怖がこみあげてくる。まさか、俺はこの女と寝てしまったのか。そんな。俺には莉那がいるんだぞ。酔いつぶれていたからといって何だ。最悪だ。完全に浮気ではないか。俺は莉那を裏切ってしまった──
「ん……美歳?」
不意にごそっと動いて、幼い口調でつぶやいたその女を見た。少し化粧が落ちていても、綺麗な顔をしている。しかし俺の心はぴくりともしない。
俺の心を揺すぶるのは莉那だけなのだ。なのに、俺は莉那に何ということをしてしまったのか。黙っておけばいい? ちらりとずるいことを思ったとき、彼女は床に頬杖をついておかしそうに笑った。
「昨日、おもしろかったね」
「は……?」
「美歳は憶えてないか。昨日ね、この部屋の前で女が待ち伏せてたんだよ」
「えっ……」
「あんたと約束してるから待ってたとか言ってさ。バッカだよねえ。美歳がわざわざ約束して女と会うわけないじゃない」
「………、その女、どうしたんだよ……?」
「さあ。美歳の面倒はあたしが見とくからって言ったし、さすがにやっと帰ったんじゃな──」
「……えれ」
「えー?」
「帰れよっ。こんな……っ、俺はもうやめたんだ。なのに、こんなの……最低じゃないか。俺はもう莉那とつきあって、」
「何言ってんの。莉那ってもしかして昨日の女?」
「そうだよっ。お前のことなんか俺は何とも、」
「そんなの分かってるよ。あたしだってそうだしさ。もっと言えば、あの女もそうなんじゃないの?」
「え」
「あんたがまともに人を愛せるわけないじゃん。まともに愛されるとも思わないしね」
俺は彼女を凝視した。彼女は身を起こすと、舌打ちして「何か興醒めだなあ」とぶつくさしながら服を身にまといはじめた。
俺は生唾を飲みこんで、首を垂らした。指先が震えている。不穏に搏動している。まともに人を愛せるわけがない。まともに人に愛されるわけがない。そうだ。分かっていた。よく分かって、これまで生きてきた。
でも莉那に出逢って、彼女だけは違うと思った。思おうとした。思い込もうとした。そう、思い込みだ。はたから見れば、俺はやはりそういう人間なのだ。客観的には、俺は愛せないし愛されない、ひとりぼっちのクズ野郎だ。莉那は一時の幻だ。
莉那もそのうち俺のことなんか愛さなくなるのかもしれない。俺がいくら想っても、むごく離れていくのかもしれない。そして、俺の心はちぎられて、置き去りにされる。どんなに今、莉那と結ばれていたって、絆なんてほどけてしまうもの……
服を着た中学生くらいの女は、「じゃあねー」と手を振って部屋を出ていった。俺は再び部屋を見渡した。カーテンが朝陽を抑えて空気が蒼い。冷え切って、静かで、かちかち、という音に気づいて時計を見ると、六時を指している。
ダメだ、といろんな感情がさざめく頭を何とか落ち着かせようとした。冷静になれ。あんな女の言ったことが何だ。莉那を信じるんだ。莉那は俺が好きだと言ってくれるではないか。それに、俺が莉那を想う気持ちなら断言できる。絶対に揺るがない。だから、俺のやらなくてはならないことは、莉那に誠実に謝ることだ。
認めるほかない。嘘はつけない。隠すのもごまかすのもきっと無理だ。でも、俺の気持ちはひとかけらもこもっていなかったから。俺が愛おしく腕に抱くのは莉那だけだから。それを説いて、許してもらうしかない。
よろめきながら立ち上がると、熱いシャワーを浴び、さいわいちゃんと持ち帰っていた制服に着替えた。煙草の臭いがかすかにするけど、教師に気づかれて呼び出されるほどじゃない。かばんのノートを入れ替えて、今日は宿題をやっていない授業がないのを確認する。
食欲はなかったけど無理にトーストとコーヒーを胃に押しこんで、急ぎ足で部屋を出た。七時にもなっていない。自分は遅刻でいい。莉那の高校の最寄りに向かい、俺は彼女のすがたが現れるのを待った。ちゃんと来るよな、と不安でそわそわしていたが、少しずつ莉那の高校の生徒が改札を通っていくのが増えてきた頃、俺は人混みの中に莉那を見つけた。
「莉那っ」
俺の声に莉那ははっとして顔を上げた。俺は人の流れに押されないように気をつけながら莉那の元にたどりつき、その手をつかむと切符売場の前へと離れた。そして、我ながら情けなくなりながら、昨夜の経緯を説明して、莉那に謝った。莉那はじっと俺を見つめていた。
やっぱダメかな。嫌われたかな。緩やかに目の前が真っ暗になっていく中、「美歳」と莉那の声がした。
「いい、よ」
「えっ」
「友達も、大切にしないといけないもんね」
「………、」
「大丈夫。怒ってないから」
俺はいつのまにか伏せていた顔を上げて、莉那を見つめた。莉那はひかえめに咲っていた。それを見て、かけちがうような違和感が頭をもたげた。
何、で。
何で、怒らないんだ?
俺がほかの女を抱いて平気なのか?
俺は莉那がほかの男に抱かれたら、絶対許せないのに、莉那は俺が裏切っても、怒ることもなく咲えるのか──
ゆがんだ怒りに、俺はまた顔を伏せた。莉那は俺とつないだ手を離して、「今ならまだ遅刻しないかも」と改札をしめした。何だろう。むしゃくしゃする。無性にいらだちがこみあげる。俺はあの女の感触をすぐにでも忘れたいのに。莉那を抱いて忘れたいのに。たったこれだけで終わらせるのか。だがそれを口にする前に、「じゃあまたね」と莉那は俺の前から離れていってしまった。俺は莉那の背中を見つめた。莉那は振り返らなかった。
──ああ、莉那、やっぱりお前も俺のことを見捨てるのか。
【第八章へ】