水彩の教室-8

聖女を犯す

 卑しいひがみが激しくゆだりはじめた。その想いを素直にぶつけることはできなかった。そして俺はついに、莉那に尽くすのを放棄してしまう。
 莉那が何も感じていないみたいに平然とするなら、それが崩れるまで俺はひどいことをしよう。怒るまで。泣き出すまで。何でもいい。莉那を傷つけて、その血を浴びるようなことしよう。浴びた血の匂いが香ばしかったら、俺は初めて莉那を許す。莉那が許せないほどの俺の行為を許したら、俺は初めてその愛を信じる。俺の行動で莉那がいよいよ嫌われたら、それはそこまでだ。
 ぎりぎりまでやってやる。そうして俺は、ひとりの女を捜すためでなく、ひとりの女を試すため、再び無作為に女をたらしこんで軆だけの関係を持つようになった。
 冬のあいだ、莉那は耐えていた。どこかイカれたような高揚のまま、女を抱いて俺はそのまま莉那に会う。莉那は泣かなかった。哀しそうだったけど。怒らなかった。つらそうだったけど。それでじゅうぶんだったはずなのに、俺はこの浮気が耐えられる程度なのかと思って、莉那をベッドに押し倒した。
 俺の肌には、さっきの女の香水が残っている。莉那は何も言わずにそこに顔を埋める。何でだよ、と俺から言えばよかっただけなのだ。我慢なんてするなよ。怒って泣いてくれよ。俺が浮気したらつらいって独占欲を剥き出しにしてくれよ。でも、俺にはくだらない虚栄心ができあがっていて、けしてそれを吐き出すことはできなかった。
 春になった。俺は映像系の専門学校に進み、莉那は高校三年生になった。俺の陰惨な行為が報われるようになった切っかけは、赤い口紅だった。
 その日も適当な女と過ごしてから、夜に莉那を部屋に呼んで会話もなおざりにベッドで服を脱ぎ散らかした。俺の肌には、女の口づけや歯形が残っている。莉那は苦しそうに目を背けても、やはり文句は言わない。おとなしく俺に組み敷かれて体内に受け入れる。
 俺は白い乳房をつかんで乳首を刺激したりするけど、莉那はあまり呼吸を乱すこともない。俺で感じることさえなくなってきているのか。それが俺も苦しくて、腰遣いが乱暴になる。突き上げられて莉那はわずかに反応して目を開き、俺の首に腕をまわした。
 そして、そうした瞬間、莉那の顔つきがすっとこわばった。莉那は手をおろし、自分の指先をじっと見つめた。
「美歳」
 シーツに仰向けになる莉那が、上にいる俺を久しぶりにまっすぐ見つめてきた。
「美歳は、あたしはどう思ってるの?」
「……え」
「美歳にとってあたしは何? どうして今あたしとしてるの?」
 矢継ぎ早に質問する莉那を見つめ返し、「それは、」と何か言おうとすると、莉那は憮然とした表情のまま俺の頬に手を当ててきた。その指先に違和感はあった。莉那は指先で、俺の頬に何かをなすりつけた。
「こんなのつけて、何であたしのこと抱けるの」
 莉那の指先が赤い。血かと一瞬思ったが、違う。そう、さっきの女は毒々しい赤い口紅を塗り、俺の軆のあちこちにキスをしていた。俺は自分の頬に触れ、手のひらに移ったのがその口紅だと確認した。
「何であたし以外の女の子とこんなことするの? さっきまでこの口紅の人を抱いてたんだよね。それも落とさずにあたしを抱くなんてひどいよ。あたしが何とも思わないと思ってるの? いい加減にしてよ」
「莉那、俺は──」
「あたしじゃそんなに満足できない?」
 莉那の瞳が濡れている。この、反応が欲しかったはずなのに。いざ莉那に責められると、言い訳ひとつ用意していなかったことに気づく。
「俺は……こういう奴なんだよ」
「そんな、」
 俺は乱暴に動きはじめた。頬の口紅は手の甲で拭って、ベッドのシーツで拭った。莉那が感じていないのは分かっていて、俺も軆の芯が熱されるような快感にはたどりつかないまま無言で射精した。
 終わって俺が上を降りると、莉那はベッドの端で俺に背を向けてしまった。怒った? 別れるって言い出す? そう思うと急激に怖くなって、俺は莉那の背中を抱きしめた。
「莉那」
 正しい言葉が分からないまま、俺は莉那の耳元に口を寄せる。
「あの口紅の女は彼女でも何でもない。でも、莉那は俺の彼女だ。分かるだろ」
 莉那はしばらく無反応だったものの、やがて小さくこくんとした。俺はため息をつき、莉那の頭を撫でて、それ以外動かなかった。莉那は何も言わなかった。
 莉那が怒ってくれた。やっと怒ってくれた。それがどこかでは嬉しくて、久々に莉那の愛情を感じて安堵した。
 そして、俺はその安堵に依存するようになっていく。莉那は怒ってくれたのだから、そこでやめておけばいいのに。相変わらず俺は女をたらし、莉那を怒らせた。莉那はどんどん声を荒げて強く言い返してくるようになった。俺がコンドームをつけないことを怒る。人のにおいがするまま抱くのを怒る。シャワーくらい浴びろと怒る。バカにしているのかと怒る。あたしの気持ちを考えてと怒る。どうして他の女と寝るのかと、ついには泣き出してしまう。それを見て俺は心底ほっとするような最低さだった。俺はいくら責められても、「俺がこういう奴なんだ」としか言わなかった。実際その通りで、俺は莉那を試さないと気が済まない臆病者だったのだ。
 いつも喧嘩ではなかった。俺だって、ほかの女とのあとにしか莉那を抱かなかったわけではない。休日に朝から会う約束して、部屋でくっついて過ごして、そういうときの俺たちは最高に幸せで仲の良い恋人同士だった。俺は莉那をかわいがって、莉那は嬉しそうにはにかむ。
 俺たちはほとんど外出しなかった。行くとしたら、近所のコンビニかレンタルショップだ。莉那のことを、街での知り合いに紹介するのは何となく嫌だった。いや、俺以外の男の目に莉那が映ることを許したくなかった。莉那もデートしたいとかうるさく言わず、俺の部屋で静かに過ごすほうを好んでくれた。
 部屋のビデオデッキで、ふたりでたくさんの映画を観た。莉那との想い出深い映画が増えるたび、俺もいつか映画を作りたいと思った。そんな俺の夢を聞いた莉那は、自分は来年には惰性で大学に行くけど、何の夢もない、将来の展望もないと睫毛を伏せた。莉那はちょっと卑屈なところがある。こんなに魅力的な女の子なのに、どうしてそんなに自信がないのか俺にはよく分からない。「莉那はかわいいよ」と俺は莉那の髪を梳いてやりながらその瞳をすくいあげた。
「莉那がほんとにつまらない奴だったら、俺は莉那をもう捨ててるよ」
「美歳……」
「俺は莉那を捨てないんじゃないよ。捨てられないんだ」
 莉那は俺の瞳を飲みこむように見つめてきて、俺は穏やかに微笑むと莉那に口づけた。莉那の腕が背中にまわり、ぎゅっとしがみついてくる。莉那の優しい匂いが嗅覚を満たして、俺は愛おしさでいっぱいになる。唇が離れると、「莉那はかわいい」と俺は莉那を抱きしめた。
「少なくとも、俺には莉那が一番だよ」
 莉那はうなずいた。莉那が好きだと沁みこむように感じた。それに、莉那には夢も展望もなくても大丈夫だ。俺が必ず結婚してあげる。でも、さすがにそれは恥ずかしくて言えなかった。
 莉那は俺の部屋によく来ても、泊まっていくことは稀だった。正直俺はそれが寂しかったけど、また春が巡ってきて大学生になった莉那は、駅前のアパートで部屋を借りるようになった。
 俺の部屋は住宅街で駅から離れているし、駅前に近い莉那の部屋のほうが便利がいい。そんなわけで、俺が莉那の部屋を訪れるようになった。そこで俺たちは、映画を観て、セックスをして、相変わらず激しい喧嘩をした。
 莉那は耐えたりせずに、俺のむごい行為に怒りをぶつけた。そして、そんなふうに莉那が怒ってほっとする俺がいた。莉那の中に俺がちゃんと「いる」のが確認できた。俺が抱いた女たちに嫉妬してくれるのが嬉しい。だから俺はさらに女を抱き、莉那を無神経にあつかった。
 ついに莉那が「別れよう」と口にしたのは、昨夜はどこかの女と過ごし、酒も入った状態で莉那を抱いた夏の日だった。俺は酒がまわってぐらぐらしていて、今にも眠り落ちそうだった。何の拍子で、口走ってしまったのだろう。俺は昨夜抱いた女の名前をこぼしていた。その瞬間、莉那が俺を乱暴に押し退けてきて、俺は驚いて体勢を崩しながら莉那を見た。
「ふざけないでよっ」
 莉那の頬には、大粒の涙がどくどくと伝っていた。
「あたしを何だと思ってるの。その人を抱きたいなら、せめてその人を抱いてよ。あたしを代わりに抱いたりしないで。あたしのことあたしとして抱けないなら、来ないでよ!」
 まだ眠気が燻っていて、莉那の言葉の半分も理解できないまま、俺は体勢は直した。
「美歳はあたしをバカにしてるよ。あたしは美歳だけだし、美歳が一番なのに。美歳だけはあたしを見てくれるって思ってる。なのに、ほかの女の名前なんて呼ばれたら、どうしたらいいのか分からないよ。自分が何なのか分からないよ」
 莉那はしたたり落ちる雫をはらう。
「あたしの気持ちに応えてほしいなんて思ってない。だけど、あたしの気持ちを知っておくぐらいいいでしょ? つらいの。美歳がほかの女の子を抱くのはつらい。やめてって頼むけど、美歳がやめないのは分かってる。それでも、あたしを傷つけないことはできるでしょ。なるべくあたしを傷つけないようにすることはできるでしょ?」
 俺は眉を寄せて、うつむいていた。傷つけるな、って。どうして。俺は莉那を傷つけないと、怖くて仕方ないのに。確認しないと、愛されなかった今までの傷でつぶれそうになる。知っておいてほしい、とか言うけれど、莉那も俺のことを分かろうとしてないじゃないか。
「何で……」
「え?」
「莉那も一緒かよ」
「何、」
「これが俺だってことを、認めてくれない。莉那もそのへんの奴らと同じなのかよ」
「美歳──」
「何で無条件に信じなきゃいけないんだよ。どうせ一方通行で、疲れて、いらついてくるだけだろ。思いやりなんて無駄なんだよ。俺は自分のことしか考えられない」
 莉那が目を開いた。俺は続けて吐き捨てた。
「莉那の気持ちなんか、俺には関係ない」
 その瞬間、頬でぱんっと音がはじけた。ベッドがきしみ、ひずんだスプリングに軆が揺れる。俺は頬に触れた。莉那は震えて俺を睨みつけている。引っぱたかれた、とようやく理解した。
「出ていって」
「え」
「出ていって! あたしももう疲れた。別れよう。美歳もそのほうがいいんでしょ」
 莉那を見つめた。
 何? 別れる? 嘘。嘘だ。そこまで言われるわけがない。だって、俺は莉那を愛しているのに。
 俺の瞳からぽろぽろと涙が落ちはじめる。しかし莉那は表情を動かさず、ベッドを降りて素早く服を身に着けた。ついで俺の服をつかむと、荒っぽく俺に投げつけてきた。
「それ着たら、もう出ていって」
 何か言おうとしても、声が出ない。俺がまごまごしていると、それがいらついたみたいに「早く」と莉那は刺々しく催促した。俺はまだ残る酔いにふらふらしながらも服を着て、ベッドを降りた。玄関へと歩き出したが、一度、莉那を振り返った。莉那は容赦なく俺を睨み返す。俺はおぼつかない足取りで玄関に行くと、スニーカーを履いてドアを開けた。

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